工業製品の解説などでよく耳にする「人間工学」という言葉。「『人間工学』に基づいて~」「『人間工学』の観点から~」といったコピーを持つ製品は自転車、椅子、デスク周りのものなど、数多くあります。しかし、その「人間工学」そのものが一体ナンなのかは、一般に知られていないように思います。というわけで、今回はその「人間工学」の何たるかを日本人間工学会の広報委員、松田文子さん、山田クリス孝介さんにわかりやすく解説していただきました。
実は100年の歴史があった「人間工学」
――工業製品の世界ではいつからかよく耳にするようになった「人間工学」。これはナンなのですか?
山田クリス孝介さん(以下:山田) もともとはヨーロッパの産業革命を経て、あらゆる物の工業化がどんどん進んでいったことに伴い、時代の要請から生まれてきた概念です。
産業革命のころは、沢山の工業製品を作るために、どんどん機械化が進んでいきましたが、そのための弊害を見直すべき時代があったんです。機械化を進めることによって、人間本来の身体が持つ使いやすさ、できるだけ疲れないようにするとか、労働と健康の関連性を明らかにしようということで、考えられたものが最初です。
松田文子さん(以下:松田) だいたい100年くらいの歴史がありヨーロッパ、そしてアメリカに源流があります。
一方、日本でも同じような流れがあって、明治や大正の時代は、モノづくりにおいて、近代的な方法がたくさん取り入れられました。この時代は、量産することや性能を上げることが重要視されていて、「人間にとって使いやすいモノにしよう」「人間の負担を軽減しよう」「人間がミスを犯さないようにしよう」といったところまでは、なかなか手が届いていませんでした。働くということについても同じで、労働者の健康を考えて、働き方を改善しようという発想もあまりありませんでした。
やがて日本でも1921年に倉敷労働科学研究所が設立され、人間工学研究が始まりました。これが我が国の人間工学の原点と位置付けられています。
ただし、このころはまだ日本では「人間工学」という確固とした概念や、名称はまだありませんでした。しかし、「これは、今で言う『人間工学』だね」という試みは、この時代にして、すでに多くあったのです。
――その「人間工学」が特に叫ばれ、工業製品に反映されたのはいつごろのことでしょうか?
山田 よく例に挙げられるのは、タイプライターの研究です。タイプライターで仕事をし続けた結果、身体に弊害をおよぼす頸肩腕症候群などが取りざたされるようになり、そこで、できるだけ負担がかからないタイプライターの作業はどのようなものなのかが研究されてきたことは有名ですね。
松田 あとは椅子です。一昔前の鉄道の椅子は、背の部分が直角で、見るからに身体に悪く、疲れそうで、座りやすいとは言えません。それが時代とともに、身体に合うようにシートを開発していったわけです。新幹線の開通も、大きな転換期になりました。これも「人間工学」の例の一つだと思います。
「人間工学」の規格はあるが、使い方はまちまち
――これまでのお話をうかがっていると、「人間工学」とはつまり、「人が使いやすくするための概念」「そのための工夫」とも思えるのですが、それで良いのでしょうか?
山田 そうですね。それだけに限りませんが、そのような部分を聞いたことがあるのではないでしょうか。
――でも、そうなると主観でも良いこととなり、使いにくいものでも「うちなりの『人間工学』ですよ」と言い切ることも出来ます。そういったことを避けるために、「人間工学」には規格や基準が設けられているのでしょうか?
松田 JISで人間中心の設計のガイドラインがありますので、「人間工学」の規格はあります。ただ、この規格に沿っていなくても、「人間にとって使いやすい工夫をした」ということで、「人間工学」を謳っている例もあります。
どのような根拠で「人間工学」と謳っているのかについては、留意する必要があります。確かにより良い製品を作る、人間に優しい製品を作るという気持ちはあるのでしょうが、イメージだけで「人間工学」を謳っているものもあります。「人間工学」に基づく製品と謳う場合には、何らかの科学的な根拠に基づいてほしいと思っています。
山田 ただ、「人間工学」自体がとても幅広い考え方で、色んな分野の要素が入っています。例えば、工業製品の開発だけでなく、労働環境にまつわるマネジメントの面で、「働きやすい環境を作っていこう」というものも「人間工学」の考え方の一つなのです。
ですので、一口に「これです!」とも言い切れないことと、「こうしなければ『人間工学』とは言っていけない」ということもなく、まだまだ明確化されていない面もあります。我々研究者としては、ここが悩みの種です。科学的根拠に基づいた「人間工学」をもっと広め、きちんとしていこうと取り組みを行っています。
必ず開発データを持った製品のみがエントリーする「人間工学グッドプラクティスデータベース」
――日本人間工学会では、「人間工学グッドプラクティスデータベース」というものがありますね。
松田 日本人間工学会が認定する人間工学専門家が推薦人となり、「人間工学」とその研究成果を取り入れた製品をエントリーしていただき、一定の審査を経て、データベースに掲載しています。現在、デザイン部門、グッドプラクティス部門、ガイドライン部門、伝統品部門と4つの部門があります。
山田 データベースへの応募は自薦によるものですが、単にイメージとして「『人間工学』っぽく、こういう製品を作りました」というものは受け付けていなくて、基本的には、極力データを伴う製品や取り組みを対象にしています。
現在、ホームページに約100件の事例を掲載していますが、その多くが科学的なデータをもっています。
松田 年に1回、特に優秀な事例について、表彰を行っています。この表彰は、人間工学専門家100名が審査員となって行っています。
親指でスマホを操作する動きは人類史上、あり得ないこと
――福祉用の工業製品があります。例えばお年寄りの方、身体の不自由な方向けのベッドとか。こういったものも「人間工学」の部類に当てはまるのでしょうか?
松田 ユニバーサルデザインという分野も「人間工学」とかなり近い領域です。福祉系、医療系の製品は「人間工学」を謳っているかどうかは別として、使いやすさやエラー防止について、綿密に考えられている製品が多いように思います。
山田 あとは、ファストフードの現場もそうですね。某ファーストフードチェーンでは、例えば人が立ったその位置にいるだけで、振り向いたときにどれだけの動きが取れるかを考え、それを元に作業台や食品を作る作業などを科学的に考えたと言われています。
――現代で言うと、スマートフォンに様々なことが集約されつつありますが、こういったスマホ時代に対して「人間工学」はどんな取り組みが考えられますか?
松田 スマートフォンは、人間工学の立場から見て、課題が多い機器の1つです。実はスマートフォンは、片手で持ち、もう片方の手で操作することを想定して作られています。それが、片手のみで操作する人が多く、ほとんどの操作を親指で行うような使われ方になっています。でも、よく考えてみると、親指でスマートフォンを操作するような動きって、これまでの人類の歴史ではあり得ないことなんです。機能上、親指はそういう動きに対応するようにはできていないのです。
もちろん、何回かやったくらいでは弊害は少ないでしょうが、長時間の動作によって、指が腱鞘炎になることもあります。姿勢の問題で言えば、ずっと、下を向いて操作をしており、その結果、いわゆるスマホ首(ストレートネック)になる人も増えています。あれも「人間工学」の観点から見ると、改善しなければいけないものだと思います。
山田 歩きスマホなどはアメリカの一部では罰金になっています。スマートフォンはこれからもっと「人間工学」の概念を取り入れるべきですし、それが課題だと思います。
「人間工学」は製品開発の初期段階から取り入れることは難しい!?
――最後に、「人間工学」が今後どのように広まり、どう進化していくべきだとお考えですか?
松田 「人間工学」は実学です。新たな技術を進化させていくだけでなく、同時に「もっと人間が使いやすくしましょう」という研究や努力が必要になりますので、開発に関わる方には、是非、知っていただきたい学問です。ただ、どうしてもメーカーさんにとっては製品開発の段階から「人間工学」を取り入れることが難しいというケースが多いようです。メーカーさんはできるだけ開発コストを下げたいわけですが、そこで優先されるものは、性能そのものであったり、見た目であったりすることが多く、「人間工学」の考え方は、プラスアルファ、後付けになりがち。でも、これは残念なことです。技術の進化と同様に、設計の初期段階から「人間工学」の概念をもっと取り入れていって欲しいと思います。
山田 そうですね。先ほども言ったように「人間工学」の規格はありますけれど、その概念、考え方は広いものです。
人間にとって本当に使いやすい製品の開発、「人間工学」の役割がもっと世の中に浸透していくことで、より豊かな製品が生まれていくのではないかと思っています。
広報委員のおふたりのお話を聞き、「人間工学」とは「製品の機能性だけでなく、それを使う人のことを、より考えていこう」ということがわかりました。科学と思想を合わせ持った奥が深い「人間工学」の世界。これからも注目していきましょう。