いまや、至るところで目にするようになった「断捨離」という言葉を最初に提唱し、著書やテレビ・雑誌などのメディアを通じて広く一般化させたのが、やましたひでこさん。そんな正真正銘の“生みの親”が、日々思うこととは何なのか? 日常における、断捨離にまつわる気づきをしたためたエッセーを毎月1本、お届けしています。前回は旅先から日常を振り返って気づきを得た「旅という日常は。」。今回は、俳句から断捨離へと、考えを巡らせていただきます。
脱ぎっぷり
親しくしている編集さんのお誘いで俳句に親しみはじめて、かれこれ三年近くになる。
ふた月に一度、こぢんまりとした割烹に集う句会、私にしては、珍しく欠かすことなく出席させてもらっている。それは、もちろん、俳句がひどく面白いからではあるけれど、こんな素人に、俳句を指南して下さる先生の人間的魅力に負うところが大きい。
そうか、大抵は、句会当日の朝、指を折りつつ文字の数合わせに終始した急ごしらえの私のお粗末な句を、先生が歯切れの良い言葉で一刀両断。その小気味の良さと、同時に、その手直しで、凡句、駄句が、見事なそれに変身する醍醐味を味わいたくて毎回参加しているよう。
さて、冒頭の「脱ぎっぷり」とは、この俳句師匠の言葉。
「俳句とは、脱ぎっぷり!」
たしかに、余計なことをだらだらと書き加えるわけにはいかない。なにせ、文字数が決まっているのだから。なにより、俳句とは、物事の説明でも解説でもないのだから。
余計な文字をひとつひとつ脱がせていくこと。余計な説明をひとつひとつ引き算していくこと。時に大胆に、時に潔く、時に丁寧に、時に繊細に。
そうやって、目の前の光景を、目の前のモノを、心象から端的な言葉に置き換えていく行為。これが、俳句という日常に根ざした文芸。
さてさて、ここまで綴ってみると、俳句はいかに「断捨離」と重なり合うか、あらためて思うことになるのは自然なことにちがいない。
なぜなら、断捨離とは引き算だから。
住まいという空間から、余計なモノたちをそぎ落とし、そこにある大切なモノを際立たせていくという日常生生活空間のアート。
モノを足して、さらに、足して、という喧しいばかりの、五月蝿いばかりの空間、そう、創意工夫と称して、モノをひらすら詰め込んでいく収納空間からの脱却であるのだから。
つまり、断捨離とは、空間に圧倒的な余白を生み出すことによって、空間の持つ本来の力を取り戻し、蘇らせていく、とてもクリエイティブな行為であるのです。
余計な一言が、かえって、コミュニケーションを損ねるように、余計なモノが、私たちの暮らしを損ねる。だって、それらが空間の余地を奪っているのだから。
過剰な言葉の群れが、私たちをいたぶるように、過剰にひしめくモノたちが私たちを虐める。だって、それらが、空間を閉塞させているのだから。
けれど、今まで訪れた多くの現場で、そんな憂いと危惧をいつもかかえていたにもかかわらず、私の憂いほどには、私の危惧ほどは、当の住人たちは、さほどでもないようなことがほとんど。
この訝しさは、いったい、どこからやってくるのだろう。
それは、言うまでもなく、大量なモノたちに塗れて、そんな住環境にあって、自分の感覚や感性がすっかり萎えているからに違いなく。
家の中で、目に映る光景も、耳に届く音も、見えないノイズ、聞こえないノイズで、まさにいっぱい。ひしめくモノたちが醸し出している住まいの氣は、荒んでいるか、淀んでいるか、そのどちらか。いいえ、荒み淀んだ、その両方。
そんな中にあって、まっとうな感覚を維持できるわけもなく、だからこそ、それを、麻痺させて凌いでいくことを知らず知らずのうちに選択しているのです。
だから、現状のおぞましさをきちんと見極めることができない。
感覚を研ぎ澄ませるためには、脱ぎ捨てていかなくては。それは、靴を脱いで、素足で土を踏みしめて感じぬいてこそ。
ならば、住まいも同じこと。余計なモノたちを取り除いてこそ、清々しい氣を味わうことができるはず。
饒舌な語りではなく、端的な表現。
過剰な空間演出ではなく、端正なしつらえ。
そう、俳句と断捨離、どこまで同じと思うのを、どうか、ご容赦下さいますように。
※「断捨離」はやましたひでこ個人の登録商標であり、無断商業利用はできません。
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