5.本堂の前庭に作られた大スケールの石庭
「夢窓国師入定の地」である、臨済宗天龍寺派・臨川寺(りんせんじ)。もとは亀山法皇の離宮だったところを、1336年に禅寺とされました。嵐山の代名詞、渡月橋からすぐという立地にありながら、普段は非公開のお寺です。夢窓国師とは、後醍醐天皇の霊を弔うために建立された天龍寺の開山で、この臨川寺で晩年を過ごし亡くなりました。
この寺で鑑賞できる石庭が、こちら。
夢窓国師は、室町時代の枯山水の礎を築いた人物でもあり、天龍寺のほか等持院なども作庭しています。臨川寺の庭は、度重なる戦乱で当初の面影を失いましたが、現在の庭は昭和時代に、先々代の住職が日本画家・伊藤紫虹氏に依頼し作られたものです。
「龍華三会(りゅうげさんね)の庭」と呼ばれ、石と白砂だけで作られた、荒々しくも堂々たる庭。中央の“三尊石”は、弥勒菩薩(お釈迦様が入滅後、56億7000万年後にこの世に降りてきて説法してくれる姿)が説法している図を表したもの。真ん中が弥勒菩薩、左右に文殊菩薩と普賢菩薩、その周りを十六羅漢がひざまづくように取り巻いています。
↑解説してくれたのは、副住職の阪上宗英さん。作庭した伊藤紫虹氏から直接、この庭のテーマや意味するものを聞いたという
また、多くの庭は方丈の前など、建物の“裏手”にあるもの。ところが臨川寺の枯山水は、正面の門からまっすぐ、本尊の弥勒菩薩を安置した本堂の目の前に広がっているのも特徴です。依頼した住職が「庭の常識にとらわれず、好きに使っていい」と背中を押したことから、本来本堂の通路となる場所に、大スケールの石庭が完成しました。
↑本堂から石庭を臨むと、その先に門が見通せる
ちなみに、副住職が石を数えてみたところ、16羅漢のはずが17あったのだとか(!)。17個目の石を鑑賞する“自分”だと想定して、いっしょに説法を聞いている気分で庭を眺めてみてはどうでしょうか。
6.嵐山を借景に完成する枯山水
こちらも天龍寺ゆかりのお寺。弘源寺は、天龍寺の塔頭寺院で、1429年に夢窓国師の教えを継ぐ玉岫禅師によって開山されました。小さなお寺ながら、見所がたくさん。
毘沙門堂にある「毘沙門天立像」は、インドの仏師によって彫られ、中国を経て平安時代にこちらへたどり着いた重要文化財です。また、日本画家・竹内栖鳳とその一門が、栖鳳の子息が病気療養のため弘源寺に逗留した縁で、膨大な作品を襖などに残しています。
↑腰を大きく捻った躍動感あふれる姿は随一
↑竹内栖鳳一門による襖絵や扇面が多数現存。本堂の各所に飾られている
そして、この寺一番の見所である庭が、方丈の正面にある「虎嘯(こしょう)の庭」です。
『碧巌録九十九則』のなかにある語句「「龍吟雲起、虎嘯風生」(龍吟じて雲起こり、虎嘯きて風生ず)から名付けられたものだとか。「龍吟」とは枯れ枝の間を抜ける風の音、「虎嘯」とは大地より涌出る朗々たる響き、つまり禅の悟りの境地を表しているのです。
↑手前には“舟石”が鎮座。お釈迦様による悟りの境地へ向かって渡っていく、という様子を表現しているという
↑その舟石の奥に、寄り添って並んだ石が“三尊石”。お釈迦様(弥勒菩薩)・文殊菩薩・普賢菩薩である
方丈に座って眺めると、庭の先に嵐山が見え、この嵐山を借景として、緑豊かな枯山水が完成していることがわかります。
↑方丈から庭を眺める
「虎嘯の庭」を鑑賞する際、その手前にある柱にもまた、見所が。柱に残る刀傷です。幕末、長州・土佐の尊王攘夷派志士を新撰組が急襲した池田屋事件に端を発する「蛤御門の変」で、長州藩士が逗留、その際に試し斬りした痕跡だとか。京都が経てきた歴史に思いを馳せるときです。
↑庭前の何本もの柱に、無数の刀傷が。血気盛んに過ぎますね……
【Information】
弘源寺
京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町65
075-881-1232
http://kogenji.jp/
取材で訪れた日は、息が白くなる寒さに、あいにくの雨。普段の撮影なら、寒い上に雨なんてコンディションとしては最悪ですが、今回ばかりは違いました。「この天気、この季節で正解だな」と思える光景を目の当たりに。石と白砂によるモノトーンの世界が、夏の日差しのように影が際立つことなく、しんと冷えた空気のなか、雨に濡れてまるで水打ちをしたように色濃く見える様子は絶景です。冬の京都は寒さにも雨にも負けず、枯山水でもっと楽しめそうです。
さて、以上の石庭を効率よく巡れるだけでなく、普段非公開のお寺にも特別に入場できるという、またとない機会が用意されています。
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