先日、約3人に1人の女性が「自分のお父さんとパートナーは似ている」、そして4割以上が「将来は自分の父親のような人と結婚したい」というソースの記事を読んだ。
何を隠そう現在26歳のわたしは元彼も元々彼も41歳、おまけに19歳のときに初めてできた彼氏はなんと48歳、バツイチであった。
前世からの因縁さえ感じさせる恋愛遍歴はさておき、女性が魅力を感じる「包容力」というものは、男性が多かれ少なかれ持っている「父性」と切っても切れない密接な関係にあると思っている。かくいうわたしも自分の父親と近い年齢の人たちと付き合ってきてはいるが、同時に、父親と似た性質に惹かれているような気がする。それがポジティブな父性であればよかったのだが、わたしの場合、「デリカシーという概念がない」というものであった。わたしの父親は愛情表現の吐き出し口が湾曲しているため、通気口を通る過程でデリカシーがきれいに削ぎ落とされてしまっているのだ。
例えば、親戚が一同に会すある年末の席。
少しの厳かさを加えなごやかに時間は進んでいた。そんなとき、おもむろにわたしが昔組んでいたバンドの楽曲「ニートの西岡」という曲が大音量で流れてきのだ。
父だ。父が、娘の活動を親戚の皆々さまに知らしめたかったのであろう、ご丁寧にどこで知ったのかわたしのバンドのYouTubeチャンネルにアクセスし、わざとなのか偶然なのか、トップクラスにフザけた曲を選曲した挙句、なんの前触れもなく再生ボタンを押したのだ。
曲始まりはわたしの「お母さーん!!」という叫び声から始まり、終始にわたりニートの開き直った心情を歌い上げる、という今思えば悪夢のような曲だった。これには実の母親も、上手に苦笑いすらできていなかった。父親は笑っていた。
さて、いままでの恋人を思い返してみても、父親と似たデリカシー部分を欠如させた愛情表現を行う共通点は多分にあったと思う。
例えば、ある恋人の場合。
朝起きた直後にSuperflyの「愛を込めて花束を」を全力で熱唱。低血圧なわたしは設定した覚えのない、愛を込められた目覚ましに殺意を覚えた記憶がある。見事なまでの音痴で、時たま変わる音階や拍子は、軽いプログレであった。今でもその歌声はフライパンのガンコ汚れのように脳裏に焼き付いている。
わたしもここで呆れ果てることができればいいのだが、困ったことに、そんな体験をさせてくれる彼らに一抹のトキメキを感じているのだ。愚痴を言うふりをして、喜々として友人にこの話をしてしまっている。
そしてきっと次も世にも突飛な行動をする相手に想いを馳せてしまうのだ。
という私のエピソードはちょっと極端だとしても、どんな女性も、足掻けば足掻くほど「父親」という底なし沼にハマっていくのが宿命を持っているのではないか?
なお、冒頭のアンケートでは3人に一人が「自分のお父さんとパートナーは似ている」と答え、そして4割以上が「将来は自分の父親のような人と結婚したい」と答えている。前者はアグリーだが、後者はディスアグリー。
ただ、どうせこの先もわたしは「包容力」という言葉の延長線上にある、自分だけが知っているオリジナルの「父性」の暴力性に吸引されていくのだろう。