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2018/8/26 20:30

なぜ別々に発展? 近くて遠い2つの路線を抱えた東北の私鉄ローカル線のいま

おもしろローカル線の旅~~弘南鉄道弘南線・大鰐線(青森県)~~

 

青森県弘前市を中心に弘南線(こうなんせん)と大鰐線(おおわにせん)の2つの路線を走らせる弘南鉄道。同じ鉄道会社が運営する2本の路線だが、起点となる弘前市内の2つの駅は遠く離れ、線路はつながっていない。なぜこのように2本の路線は別々に運営されることになったのだろうか。

今回は列島最北の私鉄電車、弘南鉄道の旅を楽しんだ。そこには、過疎化に悩む地方鉄道の現状と、東北の私鉄ローカル線の魅力が浮かびあがってきた。

 

起点の駅が接続しない謎――弘前駅から中央弘前駅へ歩くと20分はかかる

まずは弘南鉄道の2本の路線の概略に触れておこう。

弘南鉄道の弘南線は弘前駅と黒石駅間、16.8kmを結ぶ。起点となる弘前駅はJR弘前駅に隣接しており、JR奥羽本線を走る列車との乗換えもスムーズだ。

 

一方の弘南鉄道の大鰐線は中央弘前駅と大鰐駅間の13.9kmを結ぶ。起点となる中央弘前駅は、駅名のとおり、弘前市の市街中心部、土手町に近い繁華街の近くにある。桜で有名な弘前城にも、中央弘前駅が近い。

 

この両線の起点となる弘前駅と中央弘前駅。ちょっと不思議に感じるのは、両駅が、約1.2km以上も離れていて(弘南鉄道の乗換案内では約2kmとある)、歩くと20分以上もかかることだ。両線の線路も接続されていない。

 

同じ会社なのに、なぜ駅が離れ、路線も別々となっているのだろう。それは、両線が異なる鉄道会社によって造られた路線だったからだ。

 

【駅が別々の理由1】元・和徳村に作られた官営の弘前駅

↑弘南鉄道弘南線の起点駅・弘前駅。JR弘前駅の駅舎に隣接していて、乗換えも便利だ。官営の奥羽北線の開業当時、同駅は弘前の外れ、和徳村に造られた

 

弘前市に鉄道が敷かれたのは1984(明治27)年のことだった。奥羽北線の弘前駅がこの年に設けられた。

 

実は弘前駅を名乗ったものの、駅は旧中津軽郡和徳村に設けられた。和徳村は昭和になり弘前市に編入されたが、弘前を名乗りながらも駅は市街から遠い場所に造られたのだった。その理由としては、鉄道黎明期に見られた住民の反対の声の高まりとともに、早く線路を敷設させたい明治政府の意向もあった。その結果、弘前駅は市街から遠い、当時は辺鄙な場所に造られたのだった。

 

その後の1927(昭和2)年に弘南鉄道の弘南弘前駅が、弘前駅に併設される形で誕生する。現在の弘南線の弘前駅である。

 

【駅が別々の理由2】市街の不便さを解決するため生まれた大鰐線

↑弘南鉄道大鰐線の起点・中央弘前駅。弘前市の中心街である土手町にも近い。ホーム横には土淵川が流れる。停まるのは主力のデハ7000系電車

 

一方の中央弘前駅だが、誕生したのは1952(昭和27)年と、弘南線に比べるとかなり新しい。当時はバスも普及しておらず、駅の遠さが市民生活のネックとなっていた。その不便さを改善すべく地元の有力者と三菱電機が出資して、弘前電気鉄道という会社を設立、現在の中央弘前駅〜大鰐駅間の路線を通したのだった。

 

だが、後発の弘前電気鉄道は堅調とは行かなかった。地域の幹線である奥羽本線とは、南側の大鰐駅で接続していているものの、肝心の弘前駅につながっていない。さらに台風の被害などの影響もあり、深刻な経営難に陥る。陸運局の仲介もあり、結局、弘前電気鉄道の路線は、1970(昭和45)年に弘南鉄道に譲渡され、会社は解散となった。

 

街から離れたところに幹線の駅が設けられ、駅周辺が次第に繁華になっていく。一方で駅から離れた市街が衰退していくという例は全国各地で見られる。弘前でも、こうした全国の都市と似た状況となっていったわけである。

↑弘前市の繁華街にあたる土手町。大鰐線の中央弘前駅から近いが、JR奥羽本線弘前駅からはバスの利用が必要となる。日中にも関わらず、通行する人の少なさが目立った

 

弘南鉄道に譲渡されてから40年近く。現状はどうなのだろう。国土交通省の鉄道統計年表の平成24年度〜27年度の数字を見ると、弘南線の年間乗車人数を見ると132万人〜134万人でほぼ横ばいとなっている。

 

一方、大鰐線は、平成24年度に57万人あった年間乗車人数は3年後の平成27年度には46万人まで減ってしまっている。中央弘前駅の1日の平均乗降人員も2004年には1814人あったものの、2015年には737人と半分以下にまで落ちている。

 

その理由として考えられるのは、同地域の幹線である奥羽本線との接続が悪いという点が大きいだろう。弘前に住む人が東京方面へ行く場合に、現在は奥羽本線に乗り、東北新幹線の新青森駅経由で移動する人が多い。高速バスも弘前駅前から発着する。大鰐線を使っても、弘前駅へは中央弘前駅からの移動が必要になる。

 

さらに弘前市の人口自体も1995(平成7)年には19万4485人をピークに徐々に減少、2017年1月には17万5721人にまで減っている。沿線人口の減少も、乗客減少に歯止めがかからない1つの要因なのかもしれない。

 

大鰐線は、路線の廃止がこれまで何度も取り沙汰され、そのたびに撤回されているのが現状で、現在も予断を許さない状況となっている。

 

さて、そんな弘南鉄道の2本の路線。まずは弘南線から乗車してみることにした。両路線に乗車する際には、1日フリー乗車券「大黒様きっぷ」(大人1000円)を使うと便利だ。

 

【弘南線の旅1】 東京五輪の年に生まれたデハ7000系に乗車

↑弘前駅に停まるデハ7000系。駅には1・2番線のホームがある。すぐ左にJR奥羽本線の線路が並んでいる。弘南線の線路幅はJR線と同じ1067mmで線路もつながっている

 

弘前駅に停まるのはデハ7000系電車。元東急電鉄の7000系電車だ。銘板を見ると1964(昭和39)年に造られた車両とある。東京オリンピックの年に生まれた電車だ。40年以上にわたり、東急そして弘南鉄道を走り続けてきた古参電車。ロングシート、天井に付けられた首振り扇風機が懐かしい。

↑デハ7000系の車内。2両編成が基本で、朝夕に増結される日もある。ロングシートで天井に付いた首振りタイプの扇風機が懐かしい。渋谷109の吊り革がいまも使われている

 

列車は日中の11〜13時台を除き30分間隔。弘前駅から黒石駅は全線乗車しても約30分の道のりだ。ただし終電が21時台で終了するので注意したい。

 

【弘南線の旅2】新里駅で五能線を走ったSLが保存される

↑新里駅(にさと)駅で保存される48640号機。五能線で活躍した8620形蒸気機関車で、新里駅の駅舎内には当時の写真なども展示されている。保存・塗装状態は非常に良い

 

弘前駅を発車して3つめの新里駅(にさとえき)。窓の外を見ていると、「あれっ!蒸気機関車だ。なぜここに?」

 

駅舎の横に8620形蒸気機関車が保存されていた。弘南線は開業後に、蒸気機関車が使われた時期が短く、1948(昭和23)年には早くも全線電化されている。よってこの路線に縁はないはず……。慌てて駅で降りて見たものの、車両がなぜここで保存されているのか、解説などはない。

 

調べたところ、48640号機は1921(大正10)年、汽車製造製で、晩年は五能線で活躍していた機関車とわかった。青森県の鯵ケ沢町役場で保存されていたが、NPO法人・五能線活性化クラブに譲渡され、2007年7月にこの場所に移設された。有志の人たちの手で整備されているせいか、保存状態も良かった。

 

【弘南線の旅3】 田舎舘(いなかだて)といえば「田んぼアート」

↑弘南線沿線の田舎舘村名物の「田んぼアート」。臨時駅も開設される。色違いの稲を植えることにより絵を描く「田んぼアート」。展望所から見ると素晴らしい絵が楽しめる

 

SLが保存されている新里駅から再乗車。終点を目指す。

 

館田駅(たちたえき)を過ぎると、90度以上のカーブを描き、平賀駅へ着く。ここには車庫があり、デハ7000系とともに古い電気機関車や除雪車などが並ぶ。赤い電気機関車は大正生まれの古参で、武蔵野鉄道(のちの西武鉄道)が導入した車両だ。こうした古参車両も目にできるが、車両のとめ具合により、ホーム上から見えないときもあるので注意したい。

↑平賀駅には車庫がある。左右のデハ7000系は中間車に運転席を設けた改造タイプで、顔つきが異なる。中央のED33形機関車は1923(大正12)年製、西武鉄道で使われた車両だ

 

平賀駅の先、柏農高校前駅(はくのうこうこうまええき)や、尾上高校前駅(おのえこうこうまええき)と学校の名が付く駅に停車する。弘南線、大鰐線では学校の名がつく駅が計7つある。弘南鉄道の電車が通学手段として欠かせないことがわかる。尾上高校前駅の1つ先が田んぼアート駅。この駅は臨時駅で朝夕や冬期は電車が通過となる。

 

この駅のすぐそばに道の駅 いなかだて「弥生の里」があり、こちらで田んぼアートが楽しめる。田んぼをキャンパスに見立て、色が異なる稲を植えることにより見事な絵が再現される田んぼアート。地元の田舎館村(いなかだてむら)の田んぼアートの元祖でもあり、多くの観光客が訪れる。ここで写真を紹介できないのが残念だが、今回訪れたときには手塚治虫のキャラクターが田んぼのなかに描かれていた。

 

【弘南線の旅4】 終点の黒石駅で見かけた黒石線とは?

↑黒石駅には、通常は使われていないホームと検修庫が隣接している。この検修庫の外壁には「黒石線検修庫」とある。弘南線でなく黒石線となっているのはなぜだろう?

 

↑夏祭りが盛んなみちのく。黒石駅前には「黒岩よされ」の飾り付けがあった。日本三大流し踊りの1つとされ、連日2000人にもおよぶ踊り手の流し踊りが名物となっている

 

途中下車しつつも到着した終点の黒岩駅。ホームの横には大きな検修庫が設けられている。その壁には「黒石線検修庫」の文字が。

 

「ここの路線は弘前線なのに、どうして黒石線なのだろう?」という疑問が浮かぶ。

 

調べてみると、黒石線とは以前に奥羽本線の川部駅と黒石駅を結んでいた6.2kmの路線の名であることがわかった。1912(大正元)年に黒石軽便線として誕生、その後に国鉄黒石線となり、1984(昭和59)年に弘南鉄道の黒石線となった。弘南鉄道では国鉄へ路線譲渡の打診を1960年代から行っており、20年以上もかかりようやく弘南鉄道の路線となったわけである。

 

弘南鉄道の路線となったものの、黒石線は非電化路線のためディーゼルカーを走らせることが必要だった。路線距離も短く、効率が悪かった。そのため1998(平成10)年3月いっぱいで廃止となってしまった。もし、鉄道需要が高かった1960年代に弘南鉄道に引き継がれ、電化され電車が走っていたら。時を逸したばかりに残念な結果になったわけである。

 

【大鰐線の旅1】 レトロな印象が際立つ中央弘前駅の駅舎

↑大鰐線の起点駅、中央弘前駅の駅舎。中に切符売場と小さな待合室、改札口がある。1952(昭和27)年からの姿でここにあること自体に驚きを感じる

 

弘南線の弘前駅へ戻って、次は大鰐線の起点駅、中央弘前駅を目指す。弘南バスの土手町循環バス(運賃100円)に乗車して「中土手町」バス停で下車、土淵川沿いの遊歩道を歩けば、すぐに駅がある。

 

見えてきた中央弘前駅。年期が入った駅舎に驚かされた。

 

列車は朝夕30分間隔、除く10時〜16時台と19時以降は1時間間隔となる。中央弘前駅発の終電は21時30分発と早い。弘南線よりも、乗降客が少ないこともあり本数が少なめだ。

 

中央弘前駅はホームが1つという質素な造り。弘南線と同じデハ7000系がそのまま折り返して発車する。

 

【大鰐線の旅2】土淵川沿いを走りリンゴ畑を見ながら進む

↑大鰐線の沿線にはリンゴ畑が多い。9月ともなると沿線のリンゴが赤く色づきはじめる

 

弘南線よりも大鰐線は、よりローカル色が強く感じられた。中央弘前駅を発車するとしばらく土淵川沿いを走る。次の弘高下駅(ひろこうしたえき)、さらに弘前学院大前駅、聖愛中高前駅(せいあいちゅうこうまええき)と3駅とも、学校名が駅名となっている。

 

4つめの千年駅(ちとせえき)を過ぎると、沿線には畑が多くなる。弘南線の沿線に水田が目立ったのにくらべて、大鰐線ではリンゴ畑が目立つ。青森リンゴの産地らしい風景が目を引く。

 

【大鰐線の旅3】津軽大沢駅の車庫にねむる古い車両に注目

↑津軽大沢駅の車庫の全景。1番左側がデハ6000系。中央にED22形電気機関車。ほか右には保線用の事業用車などが並ぶ

 

大鰐線の乗車で最も気になる箇所が、津軽大沢駅に隣接する車庫。ここには珍しい車両が眠っている。

 

まずはデハ6000系。元・東急電鉄の6000系で、1960(昭和35)年に製造された。現在では一般化しているステンレス車体を持つ新性能電車で、東急では試作的に造られ、また使われた車両だった。現在、2両のみが残り、秋の鉄道の日イベントなどの車庫公開時に近くで見ることができる。

 

ほかED22形電気機関車は、1926(大正15)年製で、信濃鉄道で導入、その後、大糸線、飯田線、西武鉄道、近江鉄道を経て弘南鉄道へやってきた車両だ。

↑ED22形は米国のボールドウィン・ウェスチングハウス社製。電気機関車草創期の車両で、国内の鉄道会社の多くが同社製を輸入、使用した。同線では保線などに使われている

 

↑大鰐線の除雪車キ104。元国鉄キ100形で、国鉄では貨車の扱いだった。機関車が後ろから押して走る。くさび状の先頭部で線路上の雪を分け、左右のつばさで雪をはねのける

 

赤い電気機関車ED22形と並び注目したいのが、除雪用のラッセル車。弘南線とともに大鰐線でも、国鉄で使われていたラッセル車キ100形を導入、冬期の除雪作業に使用している。大鰐線の除雪車はキ104形と名付けられた車両で、1923(昭和12)年に北海道の苗穂工場で造られた車両だ。

 

ED22形電気機関車と組んで使われる除雪車。冬期は大鰐駅に常駐して、降雪に備えている。寒い冬に、ぜひともこうした車両の雪かきシーンを見たいものだ。

 

【大鰐線の旅4】大鰐駅の名前がJRと弘南鉄道で違う理由は?

↑平川橋梁を渡る大鰐線のデハ7000系。同線沿線は周囲の山や河川など、変化に富み、写真撮影にも最適なポイントが多い

 

車庫のある津軽大沢駅を過ぎると、JR奥羽本線を立体交差で越え、さらに平川を越える。周囲の山景色が美しいあたりだ。

 

平川沿いに走ると、間もなく終点の大鰐駅に到着する。同駅は弘南鉄道の駅は大鰐駅。併設しているJR奥羽本線の駅は大鰐温泉駅を名乗る。この駅名にもおもしろい経緯がある。

 

1895(明治28)年に奥羽北線の駅が開業。大鰐駅と名乗った。1952(昭和27)年に弘前電気鉄道の大鰐駅が開業した。

 

その後、1970(昭和45)年の弘南鉄道に譲渡されたあとに同駅は、弘南大鰐駅と名が変更された。さらに1986(昭和61)年には国鉄と同じ大鰐駅に改称された。一方の国鉄・大鰐駅はJR化後の1991(平成3)年に大鰐温泉駅と改称された。

 

大鰐駅が、元々の名前で、二転三転していている。一時期、同じ名前となっていたものの、JR側の駅に新たに「温泉」が付けられていった。

↑弘南鉄道大鰐駅の全景。ホームは4・5番線となっている。JRの大鰐温泉駅のホームが1番線と、2・3番線となっているので、それに続く連番となったわけだ

 

↑弘南鉄道大鰐駅の北口出入り口。建物の中を通り、左に見える通路を使うと国道7号側の出入り口がある。北口駅舎は目立たたない造りで筆者も気付かず通り過ぎてしまった

 

↑JR奥羽本線とつながる跨線橋。昭和の香りがする構造物がこうして残っていることがおもしろい。この跨線橋を通り、先にある階段を下りれば弘南鉄道大鰐駅の南口がある

 

↑JR奥羽本線の大鰐温泉駅の玄関。写真右手には足湯も用意され、無料で大鰐温泉の湯が楽しめる。足湯とJR駅舎のちょうど間、奥に見えるのが弘南鉄道大鰐駅の南口の建物

 

弘南線と大鰐線の両線に乗車して、次のように思った。

 

1950年代に大鰐線を開業させた人たちが将来を見越して、いまのJR弘前駅と中央弘前駅を結ぶ路線を計画し、さらに大鰐線の線路と結びつけていたら。大鰐線もいまほどに乗客数の減少に苦しみ、廃止を取り沙汰されることもなかったかもしれない。

 

さらに廃止されてしまった黒石線が、鉄道需要が高かった時代に弘前鉄道の経営に移管されて姿を変えていたら。弘前市や黒石市をめぐる鉄道網も状況が変ったかもしれない。

 

歴史に“もし”や、“たられば”は禁物だとは思うものの、両線に乗車しつつ、そんな思いにとらわれた。