おもしろローカル線の旅22 〜〜高松琴平電気鉄道琴平線(香川県)〜〜
高松築港駅と琴電琴平駅を結ぶ「高松琴平電気鉄道琴平線」。この路線には他にないお宝が目立つ。まず、大正末期から昭和初頭に製造された国内最古級の電車が4両残る。しかも毎月「レトロ電車」として琴平線を1往復している。
とりまく風景もお宝だ。起点駅は高松城趾のお隣、沿線のため池風景も讃岐ならでは。今回は琴平線の “お宝”に光を当てつつ、のどかな鉄道旅を楽しもう。
【琴平線のお宝1】開業当時から直流1500V、標準軌を採用した
まず高松琴平電気鉄道琴平線の概要を見ておこう。
開業 | 1926年(大正15)年12月21日 栗林公園(りつりんこうえん)駅〜滝宮駅間が開業。翌4月22日、高松(現在の瓦町駅)〜琴平駅間が全通 |
路線名 | 高松琴平電気鉄道琴平線 |
路線と距離 | 高松築港駅〜琴電琴平駅32.9km(全線乗車62分) |
駅数 | 22駅(起点・終点駅を含む) |
琴平線の開業は今から92年前、当初の会社名は琴平電鉄だった。
1943(昭和18)年に、琴平電鉄と、讃岐電鉄(志度線を運行)と、高松電気軌道(長尾線を運行)が合併、現在の高松琴平電鉄(以降「ことでん」と略)と会社名を改める。
琴平線の路線は開業当初から直流1500V(ボルト)で電化され、しかも1435mmと標準軌の線路幅が取り入れられた。現代でこそ高圧直流1500V(ボルト)による電化が当たり前になっている。が、大正末期の頃はまだ直流600Vによる電化が主流だった。90年以上前に1500Vの電化が行われ、さらに標準軌を採用するとは、当時としてはかなり思い切った新線造りが行われたわけだ。
大正、昭和初頭といえば、国鉄路線への貨物列車の乗り入れを考慮して、国鉄と同じ1067mmの線路幅を採用する私鉄の路線が多かった。当初から旅客輸送を重視した路線造りを目指していたと言えるだろう。
時代を先取りするような新線だったために、当時としてはハイカラさで人気だった阪急電鉄になぞらえ「讃岐の阪急」と称されたほどだった。
現在の琴平線は起点の高松築港駅から琴電琴平駅まで所要62分で、急行などの優等列車の運転はない。列車の間隔は高松築港駅〜琴電琴平駅間が30分間隔、朝夕は高松築港駅〜滝宮駅間の電車も含めれば15分間隔で運転される。日中は滝宮駅止まりが一宮駅止まりと運転区間が短くなる。
【琴平線のお宝2】近代化認定遺産に認定された古い車両が残る
琴平線のすごいところは、前述したように開業当時に導入された大正末期から昭和初期に製造された車両が4両も残され、その電車が今も立派に走るところだ。まさに、ことでんのお宝、いや同社だけでなく、今となっては日本の鉄道のお宝と言ってもよいのかも知れない。
どのような4両なのか、1両ずつ見ていこう。
まず琴平線が開業したころに導入された車両のうち、現在も3両が残っている。1000形120号と3000形300号が1926(大正15)年の製造。5000形500号が1928(昭和3)年に製造された車両だ。この3両は、産業の歴史という観点から見て非常に貴重ということで2009(平成21)年、経済産業省が認定する「近代化産業遺産」に選ばれている。
残る1両はさらに製造年が古い。
1925(大正14)年に製造された20形23号で、現在は旧ことでんカラーにリバイバル塗装されている。同車両のみことでんが導入した車両ではなく、大阪鉄道(現・近畿日本鉄道南大阪線を開業させた企業)の車両だった。この大阪鉄道こそ、日本で初めて1500Vの高圧直流電化を行った会社だった。ことでんに残る20型23号(大阪鉄道当時はデロ20形と呼ばれた)は、この電化して間もなく導入された車両だったのである。
ことでんでは20形を1961(昭和36)年に近鉄から譲り受け、翌年から使用を始めている。御年、93歳という古老電車だ。
この貴重な車両は毎月1回、レトロ電車として高松築港駅〜琴電琴平駅間(走行区間の変更あり)で運行されている。2両編成で運行、走る電車は毎回、変更されている。ことでんホームページで詳しく発表されているので参考にしていただきたい。
次回の12月の運転は23日(日曜日)、2019年1月は1月13日の運行予定だ。
なお平日に試運転が不定期で行われている。仏生山車両基地に訪れてみてレトロ電車の4両が留置されていない時には要注意。路線内で試運転が行われていることがある。都会の路線のように試運転情報が鉄道ファンの間で流されるわけでもなく、路線にはファンもおらず、いたってのんびりした試運転の光景。このあたりも、“お宝”だと感じた。
ちなみに、日本国内で今も動く最古の電車(路面電車)は長崎電気軌道の160形電車で、こちらの製造が1911(明治44)年とされている。同車両は長崎電気軌道にやってくる前には西日本鉄道で使われていた。
高速鉄道用で最も古い車両とされているのが、1922(大正11)年に製造された蒸気機関車8620形58654号機で、現在もJR九州のSL人吉の牽引機として活躍している。
ほかに残る古い車両としては1928(昭和3)年に製造された上毛電気鉄道(群馬県)のデハ100型。同じ年に阪堺電気軌道(大阪府)のモ161形が導入されている。
最古の定義づけは難しい。とはいっても、高速鉄道用の電車として大正期から昭和初頭に造られた“日本最古級”の電車が1両のみならず、4両も残ることは、奇跡に近いと思われる。
【琴平線のお宝3】かつて都市部を走った名車両たちが集結
琴平線を走る電車は現在5種類の車両が使われる。かつてはみな都市部を走った車両ばかりだ。京浜急行電鉄(以降「京急」と略)や京王電鉄での主力車両として活躍し、現在は琴平線で“第二の人生”を過ごしている。それぞれの生い立ちをたどろう。
◆琴平線600形 元名古屋市営地下鉄1600形、1900形
琴平線の600形は名古屋市営地下鉄名城線を走っていた1600形、1700形だ。志度線、長尾線用に、ことでんが譲り受けた車両で、長尾線で余剰になったことから、琴平線用に使われている。15.5mと他車両に比べて短く、輸送力が劣ることから、主に朝のラッシュ時に使われている。
◆琴平線1070形 元京急600形
琴平線の1070形は、元京急の600形だった車両。6両が高松へやってきて、そのうち4両が今も走り続けている。
京急では1956(昭和31)年に導入、正面が2枚窓の姿がおなじみで、快速特急として活躍した。ことでんに来た後は、正面に貫通トビラを設けたため、面立ちはずいぶん変ってしまったが、今でも人気車両であることは変わりない。製造から60周年を迎えたこともあり2017年の秋から数回にわたり、特別運行が行われ注目を浴びた。
◆琴平線1080形 元京急1000形
ことでんには元京急の車両が多い。京急がことでんと同じ1500Vで電化され、線路幅も1435mmと同じ。大きく手を加える必要がないためだ。この1080形も京急の元車両で、京急では1000形(初代)として走った。1959(昭和34)年から製造を開始。都営浅草線への乗り入れ用として計356両が造られ、2010年まで活躍した。
ことでんには1988(昭和63)年から1991(平成3)年にかけて計12両が入線、現在も10両が在籍する。
◆琴平線1100形 元京王電鉄5000系
琴平線を走る1100形は、元京王電鉄の初代5000形で、京王線が1500Vに昇圧した1963(昭和38)年に導入された。ことでんへやってきた車両は、その最終盤の1969(昭和44)年に造られた車両で、1997(平成9)年から琴平線を走り始めている。
京王線が1372mmという特殊な線路幅ということから、台車を京急の1000形のものに履き替えた上で、ことでんに入線している。
◆琴平線1200形 元京急700形(2代目)
琴平線を走る1200形は琴平線で最も多い14両と主力車両として使われている。元は京急の700形で、1967(昭和42)年から導入された。京急700形は同社初の4扉車で、本線の普通列車として使われる予定だった。ところが加速性能に問題があったことから、大師線やラッシュ時用の優等列車に使われた車両だ。ことでんでは2003(平成15)年から運用開始、琴平線だけでなく、長尾線も走っている。
【琴平線のお宝4】高松築港駅では内堀の魚たちに注目したい
車両の話が長くなってしまった。このあたりで琴平線の沿線模様に戻ることにしよう。琴平線の起点は高松築港駅だ。この駅、初めて訪れた時はちょっとびっくりさせられた。
駅のすぐ横に高松城趾がある。もちろん高松城が造られた方が駅の開設よりもずっと前のことで、西暦1590年のこと。讃岐国を治めた大名、生駒親正(いこまちかまさ)により築城された。江戸時代には高松藩の藩庁が置かれた。生駒家が17世紀中ごろに転封されて以降は、親藩である松平家(水戸徳川家の血を受け継ぐ)の統治が続き、明治を迎えている。
松平家は高松藩を長年治め、特に水利の悪い讃岐の地でかんがい用のため池の整備に力を投じたとされる。これが讃岐にため池が多い一つの理由となっている。
高松城は瀬戸内海に面して造られた海城。内堀には海水が流れ込んでいる。高松城跡は玉藻(たまも)公園として親しまれていて、園内では堀を泳ぐ鯛に向けてのエサやり体験が楽しめる。この体験の名は「鯛願城就(たいがんじょうじゅ)」と名付けられている。
さて高松築港駅のホームからも、そんな高松城趾の様子を望むことができる。琴平線用の1番線が城趾の横にあり、ホームの壁は城趾の石垣そのものだ。さらに、ホームの中ほどが内堀に面している。目の前に高松城の二の丸と天守閣跡を結ぶ木の橋・鞘橋(さやばし)が見える。またホームのすぐ横にある内堀に、魚が群れる様子が楽しめる。
1番線ホームに高松城と内堀の案内板がある。この案内によると、内堀にはクロダイ・マダイやスズキ、ボラ、ヒラメ、フグといった魚が生息しているそうだ。
駅のホームが室町時代に建てられた城趾に接していて、さらに内堀が眺められ、しかも海の魚たちが泳ぐ姿が楽しめる。このような駅は、日本の数ある駅の中でも、たぶん高松築港駅のみではないかと思われる。
高松築港駅を発車した電車は高松城趾の周囲を回り込むように走っていく。左手には内堀、そして艮櫓(うしとやぐら)を過ぎると、電車は高松の繁華なエリアへ進んで行く。2駅目が瓦町駅(かわらまちえき)。ことでんで最も大きな駅で、同会社のターミナル的な役割をしている。志度線と長尾線の乗換駅としても機能している。
【琴平線のお宝5】車両の出入りホームから楽しめる仏生山駅
瓦町駅から仏生山(ぶっしょうざん)駅までは南下、ほぼ直線の路線が続く。地図を見ると、路線が仏生山駅へわざわざ立ち寄っている印象がある。これは路線を開業するにあたって、地元から熱烈な誘致運動があったためだとされる。
この仏生山駅には、ことでんの車両所と検車区、さらぶ工場が隣接している。上り下りホームから、こうした施設がほぼ見回せることもあって、鉄道好きにはたまらない駅でもある。前述したレトロ電車や、ラッピング電車が車庫に並ぶ。運用がない日でも、この駅に行けば、多くの電車の姿を楽しむことができる。検修施設を出た試運転電車などの行き来もホームから眺めることができて楽しい。
【琴平線のお宝6】ため池風景を楽しむならば岡本駅がおすすめ
ちなみに仏生山駅からは、太平洋戦争前に塩江温泉鉄道という会社の路線が伸びていた。線路幅1435mmの標準軌を採用した路線で、ガソリンカーが走っていた。その後に高松琴平電気鉄道の塩江線となるが、太平洋戦争直前の1941(昭和16)年に不要な路線として廃止されている。
さて、先を急ごう。仏生山(ぶっしょうざん)駅を発車するとカーブを描き、列車は西へ向かう。
次は空港通り駅。駅の名のとおり空港通り(国道193号)が駅の上を立体交差している。高松市内と高松空港を結ぶ空港バスにも、乗り換えできる。しかし、最寄りのバス停(空港通り一宮バス停)まで約400mと遠いせいか、乗換え客はほとんど見かけなかった。高松空港から同バス停まで乗車14分、終点の高松駅まで45分かかる。料金も同バス停に下車するのと高松駅での下車では310円の差がある。もう少し接続が良ければと感じた。
円座駅(えんざえき)を過ぎると、住宅風景は途切れ、田畑が増えてくる。沿線にはかんがい用のため池も多くなってくる。讃岐ではため池が多く見られるが、どのぐらいの数があるのだろう。調べると1万4619か所だそうだ。数では兵庫県、広島県に次いで3位だが、県の総面積に対するため池の密度では全国一。どおりで琴平線の沿線にも多く見られるわけである。
そんなため池風景が気軽に楽しめるのが岡本駅だ。駅の近くに奈良須池(ならずいけ)があり、その堤が絶景&撮影ポイント。まるで琴平線を撮影してくださいというばかりに、堤がほぼ“お立ち台”状となっている。
【琴平線のお宝7】内外からの参拝客で賑わう金刀比羅宮
筆者が乗った電車は1100形。元京王電鉄の5000系(初代)だった車両だ。田畑が広がる郊外では、結構なスピードで走る。
1970年ごろの電車の乗り心地は、こんな感じだったのかと思えるほど、線路の継ぎ目で、バウンドする。帰路も途中までこの電車だったのだが、当時の電車の“乗り心地”、そして“乗り方”を思い出した。
そのころの電車は、車両の端と、中間スペースだと、中間スペースの乗り心地が良かったように覚えている。車端部は台車にもよるが横揺れ、縦揺れが直接、感じられる。このあたり、ブルートレインに利用されていた寝台客車にも似た経験があったことを思い出した。
そんな懐かしい揺れを体験しつつ高松築港駅から、ちょうど62分で終点の琴電琴平駅に着いた。駅からは金刀比羅宮方面(ことひらぐう)へ向かう人が多い。
同駅から人気の金刀比羅宮までは、徒歩15分。「こんぴらさん」の名で親しまれ、海の神様として知られる。参道の長い石段が有名で、本宮までは785段、奥社までは計1363段にも及ぶ。琴平にはすでに複数回、訪ねているが、この難業がつらそうで、残念ながらまだ金刀比羅宮は訪れたことがない。次こそはと思い琴電琴平駅を後にした。
【ことでんの現状】順調な鉄道事業だが難しい課題も抱える
さて、最後になるが高松琴平電気鉄道の、鉄道事業および課題にも触れておこう。
実は高松琴平電気鉄道、2001年の暮れに民事再生法適用を高松地裁に申請している。原因は瓦町駅上に建てたコトデン瓦町ビルの問題だった。駅ビルの竣工は1997年だった。そごうグループと提携し、「コトデンそごう」を設立、駅ビル内に開店した。
ところが、開店して間もない2000年にそごうグループが破綻してしまう。翌年にはコトデンそごうが閉店を余儀なくされた。その余波は大きく、高松琴平電気鉄道の民事再生法適用の申請につながってしまった。その年には複数の子会社が倒産している。
コトデン瓦町ビルには、その後に高松天満屋が入居したが、百貨店事業は時代が進むとともに右肩下がりの状況となり、高松天満屋も2014年に閉店してしまう。鉄道統計年表を見ても、この影響が出ている。
2012(平成24)年度から2015(平成27)年度の損益数値を見ると、鉄道事業は順調に推移しているものの、2014(平成26)年度から「その他の兼業」という数値がマイナスとなり、最終的な損益の金額がマイナスになっている。
その後の2015年にコトデン瓦町ビルは、テナントビルとしてリニューアル。「瓦町FLAG」として再スタートした。よって2016年度以降の損益も改善すると思われる(まだ平成28年度以降の数値は未発表)。
実は2001年以降は、新社長を迎え体制を一新、地方私鉄としては画期的な策を多々、導入するなどしていた。2005年には、今では全国に普及している交通系ICカードを、いち早く導入している。また2013年には、「イオンモール綾川」の最寄り駅として琴平線に「綾川駅」を新設している。
飲んで遅く帰宅する人向けに、金曜日のみ深夜0時高松築港駅発(琴電琴平駅0時58分着)の臨時列車を運行するといった、涙ぐましい努力を続けている。
地方私鉄の舵取りの難しさを伺わせる実情である。今後、ことでんがどのような歩みを続けていくか、温かく見守りたい。