おもしろローカル線の旅30 〜〜御殿場線(神奈川県・静岡県)〜〜
神奈川県の国府津駅(こうづえき)と静岡県の沼津駅を結ぶ御殿場線。列車に乗ると各所で富士山の美景が堪能できる。しかもいろいろな場所で眺める富士山の姿は、近くならではの迫力が感じられる。
まずは富士山が魅力となる御殿場線だが、調べると路線の歴史を含め、非常に奥深いストーリーが潜んでいた。さらに旅をすると、路線の魅力が無限大に湧きあがってくるようだった。
【御殿場線の歩み①】東海道線として開業した輝かしい歴史
今でこそ御殿場線はローカル線と言っていいだろう。しかし、開業した当時は明治政府が最も力を入れ完成を急いだ東海道線の一区間だった。まずは路線の概要を触れておこう。
路線開業 | 1889(明治22)年2月1日に国府津駅〜沼津駅が開業 |
現在の路線と距離 | 国府津駅〜沼津駅間60.2km |
駅数 | 19駅(起終点を含める) |
軌間と電化 | 1067mm、全線電化 |
御殿場線は開業してから、今年の2月1日でちょうど130周年を迎えた。路線は東京と名古屋、京都、大阪、神戸を結ぶ東海道線(のちに東海道本線を改称)として開業した。1891(明治24)年には早くも複線化もされている(現在は全線単線)。
ご存知のように現在の東海道本線は国府津駅から小田原駅、熱海駅、三島駅を経て沼津駅へ抜けるルートと通っている。なぜ最初に東海道本線は、御殿場を経由するルートで敷かれたのだろう。
現在、東海道本線の熱海駅と函南駅(かんなみえき)の間には丹那トンネルがある。7.8kmとそれほど長いトンネルではない。ところが明治、大正期のトンネルの掘削技術では、長いトンネルを掘ることは容易ではなかった。しかも、このトンネルの予定ルートが火山帯を通るため、難工事が予想された。そのため、このルートを避けて比較的、路線敷設が容易な御殿場ルートとなった。
しかしこの御殿場ルート、25‰(1000m走り25m登る)という最大勾配があり、非力な蒸気機関車を使っての運行が困難な路線でもあったのだ。
ちなみに丹那トンネルは1918(大正7)年に建設が開始された。予想どおり大変な難工事となり、大量湧水、大規模な崩落事故が起こり工事中に67人という多くの殉職者を出している。突貫工事が当たり前だった時代に、なんと17年の歳月がかかり、1934(昭和9)年に開通した。トンネルが開通するまでの45年間、御殿場線は東海道本線として利用されたのだった。
【御殿場線の歩み②】2時間をかけてSL列車が踏破した
御殿場線がまだ東海道本線だった1925(大正14)年の時刻表をわかりやすく修正、再現してみた。細かく見ると非常に興味深い事柄が浮かびあがってくる。
1925年の御殿場線内の時刻を見ると、まずは下り列車が21本、上り列車が23本運行されていた。深夜、早朝を含めて寝台列車や夜行列車がほぼ24時間、引っ切りなしに走っていた。さらに気になることをあげると…。
◇御殿場線内で普通列車は2時間以上、急行・特急は2時間弱かかった
かかった時間は現在の感覚では予想以上と言っていいだろう。普通列車は下りならば約2時間20分、上りは約2時間30分かかった。また急行・特急列車は、下りが約1時間55分、上りが2時間5分前後かかっている。なぜか下り列車に比べて上り列車のほうが10分ほど長くかかっている。その謎解きは沿線のガイドしていく時に説明したいと思う。
ちなみに、現在の列車は各駅に停車しつつ約1時間半で国府津駅〜沼津駅間を走る。坂に強い電車ならではの時間と言っていいだろう。
なお、丹那トンネル開通後、東海道本線の列車は熱海駅経由に変更されたが、国府津駅〜沼津駅間が普通列車で約1時間10分前後と所要時間が大幅に短縮された。御殿場線経由がいかに大変だったかを物語る時間の差と言えるだろう。
◇下り急行列車や特急列車は途中、山北駅のみに停車した
大正末期の時刻表を見ると、下り急行列車や特急列車は御殿場線内で山北駅のみに停車している。一方、中心駅の御殿場駅に停車していない。なぜだろう?
御殿場線は勾配が厳しい。そのため先頭の機関車のみの牽引では列車が急坂を登れなかった。そのために御殿場線内では最後尾に補助の蒸気機関車(補機)を連結して勾配を登った。山北駅に機関区があり、多くの機関車が待機、下り列車は後部に機関車を連結するため山北駅に停車した。
ちなみに上り列車の場合は、沼津駅で後部に補機を連結。山北駅は停車せずに、連結器を解放、走ったまま後部の機関車を切り離したとされる。言わばアクロバチックのような列車運行だったことがわかる。
山北駅はやむを得ず停車したが、急行・特急は少しでも時間を短縮したいがために御殿場駅は通過したのだった。
紹介した1925(大正14)年の少しあと、1930(昭和5)年からは、東海道本線を走る特急列車に愛称が付けられた。後世にも名が引き継がれた名特急「燕(つばめ)」が走り始めている。
同列車はスピードが売りで、下り列車は国府津駅で30秒停車する間に補機を連結、沼津駅は通過する。こちらも走ったまま機関車を切り離した。上りはその逆で、沼津駅で補機を連結、国府津駅は通過した。30秒停車で補機を連結というのは、さぞかし忙しく、大変な作業だったろう。
◇東京駅発、下関駅行きの特急も御殿場を経由して走った
当時は東海道本線ということもあり、東京駅から大阪駅方面、そして広島駅、下関駅行き、さらに北陸の富山駅行きの直通列車が御殿場経由で走っていた。華やかな寝台列車にプラスして一部には食堂車が連結される豪華さだった。
◇その後の御殿場線の歴史は
1934(昭和9)年12月1日 | 丹那トンネルの完成で東海道本線から御殿場線に路線名が変る。直通列車は減り、区間内を運転する列車が主流となった。 |
1943(昭和18)年7月 | 全線が単線に。太平洋戦争の戦時下、不要不急路線とされ、片側の線路や橋梁が撤去され、軍事用に転用された。 |
1955(昭和30)年 | 旅客列車に気動車が使われ始める。同年、小田急線との連絡線が敷かれ新宿駅〜御殿場駅間を走る準急列車が運行され始めた。 |
1968(昭和43)年 | 4月末に国府津駅〜御殿場駅間を電化、7月に沼津駅まで電化区間が延びる。 |
1987(昭和62)年4月1日 | 国鉄分割民営化。御殿場線はJR東海へ引き継がれる。 |
1955年から始まった小田急電鉄の列車乗り入れだが、その後、特急列車となり、近年は特急「あさぎり」が沼津駅まで乗り入れた。2012年からは新宿駅〜御殿場駅間と運転区間が縮まり、2018年からは列車名が「ふじさん」と改称された。
【再発見の旅①】御殿場駅をピークに急に登って下る路線
さて御殿場線の旅を始めることにしよう。
まず路線各駅の標高図を見ていただきたい。起点の国府津駅と終点の沼津駅ともに海が近いこともあり、標高が低い。一方、路線のピークとなる御殿場駅は標高が455mもある。
路線距離60.2kmのうち、国府津駅〜御殿場駅間は35.5km。沼津駅〜御殿場駅間は24.7km。この距離で徐々に標高をあげているわけではなく、標高107mの山北駅、反対側は標高123mの裾野駅から共に4駅の間に一気に登っている。
実際に列車に乗っていても、山北駅と御殿場駅との間。御殿場駅と裾野駅の間が非常に険しいことがわかる。
同じように険しい区間なのだが、山北駅〜御殿場駅間と、御殿場駅〜裾野駅間では、路線の造りががらりと異なる。このあたりの変化が御殿場線の最もおもしろいところだろう。
山北駅〜駿河小山駅間はトンネルと橋梁が多い。一方の南御殿場駅〜裾野駅間は富士山のすそ野という趣が強く、かつては急傾斜区間にスイッチバックを複数設けて勾配を緩める工夫をして、列車を上り下りさせた。
【再発見の旅②】国府津駅ごしに美しい相模湾を望む
起点駅となるのは国府津駅。ここでの乗換えは東海道本線からホームを移動すれば良い。乗換えもラクだが、JR東日本の路線から御殿場線へは交通系ICカードが通して使えない。
ICカードを利用すると、御殿場線内の降りる駅で清算が必要になる。無人駅では清算ができない。ワンマン運転の列車を利用するとさらに手間がかかる。JR東日本の駅から訪れる場合には、目指す駅まで通しての切符を購入するか、また国府津駅で改札をいったん出て切符を買い直したほうが賢明かも知れない。
御殿場線の列車は、ほぼ30分〜1時間間隔で発車している。筆者は待ち時間を利用して、まず相模湾が見える駅近くのポイントを訪れた。
駅を出て国道1号を渡り、海岸へ下れば、すぐに国府津海岸へ出ることができる。近いのが良い。だが、海岸上を西湘バイパスという有料道路が通っているために雰囲気はいまひとつ。
「面白みに欠けるな」と思いつつ、駅の裏側を見ると、駅の裏手がすぐに丘となっている。あそこはもしやして景色が良いのでは。
ということで登ったのが上の写真。国府津駅を一望でき、さらに相模湾と三浦半島が望めた。逆側を見ると御殿場線を眼下に望み、その先には小田原の市街と伊豆半島、伊豆大島などの大パノラマを眺めることができた。
【再発見の旅③】足柄平野の大眺望と鉄道諸施設を見てまわる
いよいよ御殿場線に乗って、国府津駅から松田駅を目指す。国府津駅からは東海道本線と分かれ、右に大きくカーブする。最初の駅、下曽我駅までの間には、左側にJR東日本の国府津車両センターが広がる。ここには東海道本線で活躍中のE231系はE233系、珍しい2階建て構造の205系が留められている。
曽我梅林が近くにある下曽我駅から相模金子駅までは、ほぼまっすぐ。足柄平野を一気に駆ける。酒匂川(さかわがわ)の支流、川音川を渡れば松田駅だ。
この松田駅、ホームが異様に長い。2・3番線の端に南口駅舎があり、駅を出ると小田急小田原線の新松田駅の目の前に出る。一方のホームの北端、跨線橋を渡った1番線ホームに北口駅舎がある。北口と南口の出口がかなり離れている。知らないで違う口に出てしまうと、厄介なことになるので注意したい。
松田駅の先、御殿場線の線路に沿って引込線の跡が残っている。調べるとかつて酒匂川まで、引込線があった。酒匂川の河原で砂利を採取、引込線を利用して運び出していた。松田駅の構内には当時のホッパー施設の遺構が残っている。
この松田駅、足柄平野の北の端にあたる。駅のすぐ北側には丹沢山地の最南部、松田山がそびえる。駅からも展望台らしき建物が確認できる。前々から気になっていたこともあり、駅を降りた機会に立ち寄ってみた。
駅から歩くこと約15分。近いが標高差があるので結構きつい。松田山ハーブガーデンの入口に到着。ここからはさらに急な登り道に。1合目、2合目と息を切らしつつ登って行く。
後ろを振り返ると…まさに絶景! 足柄平野そして相模湾が遠くに光っている。登る大変さもこの眺望を見ると吹き飛んでしまうかのようだ。
松田山ハーブガーデン(西平畑公園)は早春ともなると斜面の河津桜、そして菜の花が満開となり見事だ。ちなみに今年の桜まつりは2月9日〜3月10日に開催されている。同期間は松田駅前からバスが運行されている。園内を巡る1/6スケールの「ふるさと鉄道」も運転され、親子づれで賑わう(土曜・日祝10時35分〜15時35分/冬期休)。
【再発見の旅④】山北といえば御殿場線を彩る桜並木が名物に
松田駅へ戻り、次に山北駅を目指す。
山北駅は前述したように、東海道本線だった当時は、駅に隣接する地には広大な機関区があった。構内には転車台が2つあったとされる。鉄道の町として栄え、最盛期には650人もの鉄道関係者が働いていたそうだ。
そうした賑わいを今は偲ぶ術はないが、一年に一度、多くの観光客で賑わうのが「やまきた桜まつり」の期間だ。今年は3月16日(土曜)〜4月14日(日曜)の開催の予定だ。御殿場線沿いに130本の桜が植えられ、名物となっている。列車を包み込むように咲く桜。ぜひともこの時期に訪れたいところだ。
この山北駅。鉄道好きにとって見逃せないのが、山北鉄道公園に保存されるD52形70号機だ。御殿場線は1968年6月30日まで蒸気機関車が走り続けた。その最後まで残って活躍した中の1両がこの70号機だった。
山北駅の南側、公園内に12mの線路が敷かれ、2016年にはコンプレッサーによる圧縮空気を利用して動かせるように整備された。残念なのは、D52の整備運転が平日に行われること。中心となり活動されていた国鉄OBの方が不慮の事故で亡くなられたため、鳥取県を走る若桜鉄道(わかさてつどう)のスタッフに応援を頼み、月に1回、整備運転を行っている。
走らせる線路を延長させる計画などもあるが、SLともなると誰もが整備し、運転できる乗り物ではない。特殊な技術が必要なだけに難しい課題があるようだ。
【再発見の旅⑤】山北駅から一転してトンネルと橋が連続する
山北駅から車窓風景は一転する。山肌を縫うように酒匂川が右そして左へ蛇行し続ける。山北駅、谷峨駅(やがえき)、駿河小山駅までの8.7km区間は険阻な地形そのものだ。だが、路線は蛇行する河川を無視するかのように、直線路で越えていく。
直線的に線路を通したために、トンネルと橋梁が多い。トンネルは「箱根第1号トンネル」から「箱根第7号トンネル」まで7本が連続する。本流の酒匂川、静岡県に入ると酒匂川の源流、鮎沢川と、そのまた支流を10本の橋梁で渡る。
トンネルは単線用の2本のトンネルを平行して設けた場所が多い。そのため現在も使われているトンネルと、廃線となったもう1本のトンネルが平行して残っている箇所が多い。橋梁も複線当時に利用した橋桁が各所に残る。
山肌を縫って路線を敷くことの多いローカル線とは違い、少しでも列車をスムーズに走らせることができるようにトンネルと橋梁を数多く設け、険路を越えている。建設した明治の鉄道マンたちの“すごみ”が伝わってくるようだった。
それにしてもトンネルがなぜ「箱根第○号」という名前になっているのだろうか。ここは箱根ではないのだが。
江戸時代から東海道で最も難所と言われ続けてきた“箱根越え”。東海道に鉄道を通す時にも箱根越えは大きな課題となった。そして御殿場線が “箱根越え”ルートとして設けられた。路線は箱根山の外輪山にあたる金時山や明神ケ岳の麓を通る。厳密に言えば、金時山や明神ケ岳まで箱根山に含むというのは無理があるようにも感じるが、当時は、険阻な箱根越えルートということで「箱根」の名が付けられたのだろう。
さて写真で見ると橋梁やトンネルは険阻な場所を通っている印象が強い。ところが、周囲を見渡すと、東名高速道路が御殿場線のはるか上空を通っている。
明治期に鉄道マンを悩ませ苦難の末に造られた路線も、現代の技術ならば苦もなくトンネルで通り抜け、谷に広大な橋を造ってしまう。御殿場線は長年かかって培われた土木技術の差を大きく感じさせてしまう路線でもあった。
【再発見の旅⑥】御殿場ではやはり富士山の眺望を楽しみたい
トンネルと橋梁が続いた路線も駿河小山駅で一段落。鮎沢川にそって緩やかなカーブが続く。足柄駅を過ぎれば御殿場線で最も標高が高い御殿場駅も近い。鮎沢川に沿って登ったルートも御殿場が近づくにつれ、視界が開けてくる。そして土地もなだらかになると、目の前に富士山が圧倒的な迫力でせまってくる。
小田急から乗り入れる特急「ふじさん」は御殿場駅どまり。また普通列車も御殿場駅どまりが多い。路線を通して走る列車は少なめながら、御殿場から先へ行く列車も多く運転されているので心配は無用だ。御殿場線を走るJR東海の車両は313系電車のみだが、乗降口の横に開け閉めボタンが付いていて、寒い日や暑い日、駅に停車する時に扉を閉めることが可能なので便利だ。
さて御殿場駅からは、急な坂を下るのみの路線となる。この先も鉄道好きにとっては興味をそそる施設が多く残っている。
【再発見の旅⑦】スイッチバックして登った当時の遺構が残る
古い時刻表を見ると、御殿場駅の次の駅は裾野駅となっている。当時は御殿場駅〜裾野駅間には駅がなかった。現在は、御殿場駅→南御殿場駅→富士岡駅→岩波駅→裾野駅となっている。途中に3つの駅が新設されたわけだ。
この3つの駅の中で富士岡駅と岩波駅が特に興味深い。東海道線として開業した当時は、両駅とも駅はなく信号所だった。この両信号所ともに、スイッチバックするための施設があった。
当時の蒸気機関車が牽く列車は、急坂を一気に登っていけない。そのために、ジグザグに造られた線路を走り、一度、信号所の側線にバックしてひと休み。少しずつ坂をあがり、さらに次の坂道に挑むという運転方法だった。
現在の富士岡駅と岩波駅の2つの駅にスイッチバック施設があった。前述した時刻表の項目で、上り列車が下り列車よりも10分ほど所要時間がかかった理由は、2箇所あったスイッチバックでジグザグ運転を繰り返すためだった。
坂に強い電車での運行となり、スイッチバック施設は不要となった。そのために、線路は取り外されているが、スイッチバック施設は堤となって、残っている。とくに富士岡駅はスイッチバック施設が展望台としても整備されているので、ぜひ訪れていただきたい。非力な蒸気機関車が主力だった時代の列車運行の苦闘ぶりが思い浮かぶような遺構だ。
ちなみに富士岡駅はホームから望む富士山も美しい。たぶん、日本で最も富士山が良く見えるホームでないかと思われる。
岩波駅の近くにもスイッチバック施設の遺構が残るが、こちらは堤の上は立入できないのが残念だ。
御殿場線は東名高速道路とほぼ平行に走っている。そのためもあり近年、工場や倉庫が増えつつあり、合わせて駅の近くは住宅地として開発も進んでいる。古い鉄道写真を見返すと原野の中を走る写真が散見できたが、そうしたイメージは御殿場線に限っては消えつつある。
【再発見の旅⑧】旧三島駅は?さらに沼津も変ろうとしている
岩波駅から先は沼津、三島の郊外住宅地の印象が強くなっている。そのため終着駅の沼津が近づくにつれ乗客が増えてくる。郊外電車の趣が強い。
この先の区間、触れておかなければいけないのは、旧三島駅と機関区があった沼津駅の今だろう。前述した大正期の時刻表では裾野駅の次の駅は「三島駅」となっている。現在、三島駅は東海道本線にあるがさて。
熱海経由の東海道本線が開通するまでは、三島に近い現在の下土狩駅(しもとがりえき)が三島駅とされていた。熱海経由の路線が開通した後は、現在の場所に新たにできた駅が三島駅となった。開業当初、三島と名乗っていた下土狩駅だが、実は今も三島市のお隣り長泉町(ながいずみちょう)に駅がある。
さて御殿場線の旅も最終盤。終点の沼津駅が近づいてきた。駅に入る前に左手にJR東海の車両が多く停められた沼津運転区が見えてくる。かつて沼津機関区だったところだ。
御殿場線は5・6番線に到着。この沼津駅で東海道本線と再び合流する。この沼津駅、現在、静岡県と地元、沼津市により高架化が計画されている(沼津駅周辺総合整備事業)。沼津運転区も別の場所へ移動を計画されている。まだ計画段階だが、10年先には駅や運転区が大きく変貌しているかも知れない。御殿場線が開業してから130年のうちに大きく変っていったように。
【ギャラリー】