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2019/2/23 17:00

【保存版】2019年春に消える夕張支線の旅は、まさにびっくりの連続だった

おもしろローカル線の旅31 〜〜石勝線夕張支線(北海道)〜〜

雪が静かに舞い降りる北海道・夕張駅。19時20分、この日の最終列車が駅に到着した。降りる人は鉄道ファン数人以外にいなかった。

 

この3月いっぱいで廃線となる石勝線(せきしょうせん)の夕張支線。どうしてこの路線が、廃線となるのだろうか? その現実を地元の人たちはどのように受け止めているのだろうか?

 

こうした疑問への答えを探そうと、2月の厳寒のなか夕張を訪れた。

 

*本原稿は2月17日・18日に取材撮影を行っていますが、21日に起きた地震の影響で石勝線および夕張支線の運転に今後、支障が出るおそれがあります。ご確認の上、お出かけください。

 

【夕張支線の歴史】まず採炭地として輝いた歴史を振り返る

夕張支線が走る夕張市と言えば、多くの方がご存知のように、古くは石炭を産出する町として栄えた。まずは夕張支線の歴史を簡単に触れておこう。

↑19時20分、雪が舞うなか夕張駅のホームに下り最終列車が到着した。夕張支線はJR北海道のキハ40系が1両で走る。ちなみに3月16日から3月31日までは増便、車両編成も増やし、“路線最後の日”を迎える予定だ(詳細後述)

 

路線と距離夕張支線・新夕張駅〜夕張駅間16.1km
開業1892(明治25)年11月1日 北海道炭磺鉄道の室蘭線支線として、追分駅〜夕張駅間を開業
駅数6駅(起終点を含む)

 

現在、夕張支線は南千歳駅と新得駅を結ぶ石勝線の一部となっている。しかし、開業当初は新夕張駅(開業時は紅葉山駅)から新得方面への線路はなく、現在の室蘭本線の追分駅と夕張駅を直接に結ぶ路線として設けられた。

 

その後の1906年(明治39)年に国有化された。1981(昭和56)年に新夕張駅と根室本線の新得駅間を結ぶ石勝線が開業、それとともに新夕張駅〜夕張駅間は夕張支線と改称された。1987(昭和62)年には国鉄の分割民営化に伴い路線はJR北海道へ継承された。

 

地図には現在の石勝線夕張支線と、かつて夕張を走っていた鉄道路線を入れてみた。最盛期には夕張支線以外にも下記の路線が夕張を走っていた。

 

北海道炭磺汽船夕張鉄道線1908(明治41)年開業 → 1975(昭和50)年廃止
三菱石炭鉱業大夕張鉄道線1911(明治44)年開業 → 1987(昭和62)年廃止
北海道炭磺汽船真谷地(まやち)炭磺専用鉄道1913(大正2)年開業 → 1987(昭和62)年廃止

 

北海道炭磺汽船夕張鉄道線は、夕張鉄道の名で親しまれた。現在も夕張鉄道株式会社の社名は残り、夕鉄バスの名で夕張市内などのバスの運行を続けている。

 

夕張鉄道や大夕張鉄道線には、貨物列車だけでなく客車列車も走っていた。いずれの路線も昭和期に廃止されている。夕張支線のみが最後の鉄道路線として残されていたわけだ。

 

【夕張支線の現状①】日に5往復で特急との接続も今一つだった

夕張支線の乗車ルポからまずお届けしよう。

 

それは、かなり手間のかかる旅となった。

 

筆者は前の日、釧路にいて「SL冬の湿原号」に乗車、また撮影をしていた。翌日は札幌に用事があり、夕張支線も消えることだし途中にある夕張に寄ってみようと、それこそ思いつきで立ち寄ろうとした。

 

ただ、それほど気軽に立ち寄れるほど甘い旅ではなかったのである。

↑石勝線には「スーパーおおぞら」(写真)や「スーパーとかち」というが特急列車が走る。新夕張駅は現状、停車しない列車もあるが、3月16日のダイヤ改正以降は停車する列車が増える予定だ。ちなみにこれらの特急は夕張支線までは入線していない

 

行くのに手間取る理由の一つは、まず夕張駅まで走る列車が少ないこと。日に5往復の普通列車しか走っていない。さらに最終列車が走る時刻が非常に早い。

 

最終列車は新夕張駅発が18時58分、夕張駅着が19時20分だ。

 

釧路方面からこの列車に乗り継げる特急スーパーおおぞらがないかを調べる。すると、スーパーおおぞら10号が新夕張駅に停車するのだが19時12分の着で、夕張支線の最終列車にわずかに間に合わない。その前に新夕張駅に停まる特急を調べると、なんと釧路駅を朝6時45分に出発する列車以外にないことが分かった。

 

これではその日に釧路で何もできない。ということで次の行程をとる。

 

スーパーおおぞら8号/釧路駅13時39分発 → 南千歳駅17時22分着 → 2633D列車/南千歳駅17時35分発 → 夕張駅19時20分着

 

かかった運賃が6790円+特急券3110円。結局のところ新夕張駅で下車できなかったために、南千歳駅〜夕張駅間を往復せざるをえず、特急券と運賃で1930円も余分に負担することとなった。“えっー!”と驚かざるをえない。

 

3月16日のダイヤ改正後には、新夕張駅を停車する特急が増えるというものの、3月末で夕張支線はなくなるのだから、時すでに遅しという印象だ。

 

 

【夕張支線の現状②】南千歳駅から最終列車に乗車したものの

釧路駅から特急列車に乗車することほぼ4時間。長時間の乗車に飽きつつ南千歳駅に到着した。特急がやや遅れて到着したこともあり、1番線ホームへ急ぎ移動すると17時35分発の夕張駅行きの最終列車がすぐに入ってくる。

 

最終列車が17時台発とは。都会の暮らしに慣れてしまっている筆者には、ちょっと不思議な世界に感じられた。さらに列車の運行はのんびりしたものだった。

↑南千歳駅から追分駅へ。このあたりになると線路に積もる雪が増えてくる。写真右が夕張駅行き最終列車の2633D列車。左の室蘭本線の列車などとの待合せで24分間の長時間停車となる

 

ホームに入ってきた車両は1両のディーゼルカー。1977年から1982年にかけて国鉄時代に大量に造られたキハ40系だ。乗車したのはその1786号車。昭和54年富士重工製とあり、人間でいえば今年でちょうど40歳となる。

 

やや古参車両ながらも北海道仕様で2重窓。デッキがあり外がマイナス10度以下の気温でも車内はぽかぽかしている。そんな車両に乗るのは20人弱の人たち。空いていたこともあり4人掛けボックス席を独り占め。リラックスできた。

 

南千歳駅から石勝線をスムーズに駆けていく。さて次の追分駅。室蘭本線との接続駅だ。この駅で半分の乗客がおりてしまう。

 

さらにこの駅で列車は24分間の停車となる。そうした車内アナウンスを聞いて“えっー!”という思いに。北海道を走る普通列車なのだから、驚いてはいけないのかも知れない。だが、やはり都会の感覚だと驚かされる。

 

ただし、鉄道ファンとしては喜ぶべき待ち時間なのかも知れない。ゆっくりと写真撮影が楽しめる。もちろん筆者もホームに降りて撮影に勤しんだのだった。

↑夕張支線は新夕張駅から石勝線と分岐して夕張駅へ向かう。4月からは、隣駅の「ぬまのさわ」の表示はなくなり「しむかっぷ」のみとなる

 

追分駅での停車中に運転士が交代、室蘭本線の上り下り列車と連絡し、さらに下り特急「スーパーおおぞら9号」が先行していく。

 

最高時速はキハ40系がいくら頑張っても90km台。一方の特急列車が石勝線内を最高120km/hで飛ばす。普通列車は途中の駅や信号場でひたすら待避せざるを得ないわけである。

 

追分駅から各駅に停車しつつ30分で新夕張駅に到着する。新夕張駅の一つ手前の石勝線の滝ノ上駅から夕張市内へ入るが、住まいは夕張支線の沿線に多く、市の中心は終点の夕張駅の先にある。とはいえ新夕張駅まで乗客の多少の乗り降りがあったものの、夕張支線に入ると乗客は10人以下となってしまう。

 

車両を漆黒の闇が包む。途中の駅でまた1人、2人と下車していく。終点の夕張駅に到着した列車に乗車していたのは6人だった。しかし、あれ〜?乗車しているのは、鉄道ファンらしき人たちばかり! 要は終点の夕張駅までは、一般の乗客が誰も乗っていなかったわけだ。まさしく“えっー!”という状況だった。

 

↑雪に包まれた夕張駅に到着した最終列車。19時28分発の最終上り列車となり追分駅へ戻る(追分駅20時22分着)。夕張駅では始業前点検などができないため、このような運行ダイヤにならざるをえないのだろう

 

現在の夕張駅は3代目にあたる。開業当初、夕張駅は現在の位置から2.1km先にあった(現「夕張市石炭博物館」付近)。その後に路線が1.3kmほど短縮され、2代目が夕張市役所近くに移る。現在の駅は3代目で2代目の駅からさらに0.8kmほど路線が短くなった。

 

最終列車に乗車してきたのは鉄道ファンばかりだったが、ほとんどが折り返す上り列車に乗って帰ってしまう。残されたのは自分1人? これまた“えっー!”という思いになる。乗るだけでなく、町の雰囲気も味わった方が鉄道の旅は楽しいのではないだろうか、と思う。これは個人的な感想なのだが。

【夕張支線の現状③】夜明けとともにホテルから夕張駅を目指す

さて、駅から予約を入れたホテルへ行こうと思った。しかし夜道、さらに雪がちらつくなか1.2kmの距離を歩くのはつらい。駅前にタクシーは止まっていない。まあ何とかなるだろうと思い、駅前の食事処へ入る。

 

お店の人に「夕張駅にはタクシーがないのですか?」と聞いたら、「あぁ、夕張駅はもうタクシーが常駐してないから」との答え。ここでまた“えっー!”という感じになった。

↑夕張駅前にある「ゆうばり屋台村」。ラーメン店、ジンギスカン、寿司、カレー店など6軒の店が集い楽しめる。平日は22時までの営業だが、土日祝日はオーダーストップが19時30分と早まるので注意が必要

 

ところが、夕張の人は親切だった。「いいわ! 食べ終わったらウチの人に送らせるから」。ここでまた“えーっ!”に。親切心に甘えて、送ってもらうことにした。

 

車中でハンドルを握るご主人といろいろな会話を楽しんだが、夕張支線がなくなることに関して「まあ廃線は悲しいけれど、人が減ってしまっているし、しょうがないだろうなぁ」と半ば諦め顔だった。

↑翌朝に歩いた夕張市内の歩道。雪かきはされているが、一部の雪が歩道内に崩れて、歩くのが大変だった。右うしろは夕張を代表するホテル「ゆうばりホテルシューパロ」。夕張駅から約1.2kmの距離にある

 

翌朝、やや早く起きて駅へ向かう。到着した夜に見渡せなかったのだが、街中は雪で真っ白に。地元の人たちが早朝から雪かきに追われている。

 

夕張は四方を山に囲まれている。そのために雪が多い。最深積雪量は150cm前後になる。この冬は、特に雪が多いのだそうだ。上の写真は道道38号線の歩道なのだが、すぐ横を通る道路が左手にあるが、雪の壁にはばまれて見えない。場所によっては雪が200cmを越えて降り積もっているように感じた。さらに最低気温は12月から3月にかけてマイナス20度近くまでに下がる。

 

まさに北海道の言葉で言えば“しばれる”寒さのなか、ホテルから駅へ歩く。ちょうど道の左手はかつて多くの貨車が停められていた夕張駅構内あたりだろうか。雪に覆われて全景を見渡すことができないが、採炭された時代はさぞや活況を見せていたことだろう。華やかな時代に夕張へ一度訪れてみたかった。

 

 

【夕張支線の現状④】夕張駅発の始発も乗るのは鉄道ファンのみ

↑時計台付きの夕張駅駅舎。屋内にレストランがある。ホームへは裏手にある通路からが入りやすい。右奥が前述した「ゆうばり屋台村」。駅舎の前にはバス停「レースイリゾート」がある。北海道中央バスが札幌駅を結ぶ高速バスを日に3往復走らせている

 

↑ホームが一つという簡素な姿の夕張駅。駅前に建つのが「ホテルマウントレースイ」で、ホテル前にはスキー場のゲレンデが広がる

 

↑駅の通路には「夕張の鉄路にありがとう!」という垂れ幕がかかっていた。ちょうど6時58分着の始発列車が到着したものの、乗車している人はゼロだった

 

夕張駅の始発列車は7時8分。駅前のホテルに泊っていた旅行客が列車にカメラを向けているものの、乗車する人はわずか。筆者と、こちらも鉄道ファンらしき2人のみだった。

 

さすがに朝は乗る人がいるでしょう、と予想していたのだが甘かった。

↑「夕張⇔千歳」のサボが車体の中央に掲げられる。やはり「サボ」付きの列車は鉄道の旅気分を盛り上げてくれることを実感する。今日の車両はキハ40系の1787号車だった

 

小説や映画でおなじみの「鉄道員(ぽっぽや)」も北海道の終着駅が舞台だった。夕張支線の駅はすでにみな無人駅となっているが、高倉健さんが演じた至高の鉄道マンが今にも出てきそうな趣だった。

 

夜に雪が舞っていたものの、ホームや線路の上の雪は始発列車が走る前までには、きれいに片づけられている。日々の鉄道マンの奮闘ぶりには頭が下る思いだ。

 

定刻の7時8分に静かに出発。次の鹿ノ谷駅を目指す。夕張駅が南に移動したこともあり、隣駅までは1.3kmしかない。同じ町内にある駅といった印象だ。

 

鹿ノ谷駅はかつて、北海道炭磺汽船夕張鉄道線が合流していた駅だが、そうした面影は残っていない。この鹿ノ谷駅で地元の人が1人乗車する。

 

↑雪に埋もれた鹿ノ谷駅。かつては右手に夕張鉄道線が走っていた。駅に隣接する長い跨線橋にその面影が残るぐらいだ

 

次の清水沢駅までは6.6kmとやや距離がある。路線の左手、丘の上に「幸福の黄色いハンカチ想い出ひろば」がある。映画の「幸福の黄色いハンカチ」の舞台となった五軒長屋の炭鉱住宅が残されている。

 

さらに走ると平行して旧トンネルや橋脚の跡が残っている。夕張鉄道の開業以降に、輸送量が減ったことで、国鉄夕張線を複線から単線へ改めたその名残だ。

↑鹿の沢駅のホーム(写真手前)と駅舎はだいぶ離れている。この空き地部分から以前は大夕張鉄道線が発着していた。同路線が走った大夕張という炭鉱町や貨物列車が行き来した路線の一部はすでに人工湖・シューパロ湖の下に沈んでいる

 

 

【夕張支線の現状⑤】新夕張駅に到着した時の乗客は8人のみ

清水沢駅で1人が乗車、鉄道ファンを含めてもここで乗客は5人となった。

 

さらに南清水沢駅で3人が乗る。新夕張駅の一つ手前の駅の沼ノ沢駅で3人が乗車。鉄道ファンを除けば8人が乗り込み新夕張駅へ到着した。

 

平日の7時台に走る列車なのに、通学する学生の姿を1人も見かけなかった。現在、夕張市内の学校は統廃合が進み小中高校とも1校のみとなっている。さらに学生たちはみなスクールバスを利用している。住んでいる地域が分散し、広い。さらに、本数が少ない列車での通学を勧めるのが難しいという現実がある。

↑ホーム側から見た沼ノ沢駅。沼ノ沢地区は雪が少ないとはいうものの屋根などの積もり方はかなりのものだった。右下は夏期の駅舎の様子。駅舎内には31年という歴史を持つ「レストランおーやま」がある。ご主人の話は後ほど紹介したい

 

↑雪に包まれた夕張川を渡れば石勝線と合流する。前方に見える橋梁が石勝線のもの。合流すれば間もなく新夕張駅に到着する。乗車時間約20分の夕張支線の旅も終わる

 

下り最終列車と上り始発列車に乗車したが、いずれも夕張駅〜新夕張駅間を通して乗る地元の利用者は皆無。改めてかなり厳しい現状であることが分かった。

 

JR北海道から出された数字がその厳しさを物語る。1kmあたりの輸送密度の推移を見てみよう。

 

1975(昭和50)年当時は2318人だった。その後、1985(昭和60)年には1187人まで減った。近年となると数字はさらに厳しく2016年には80人までに落ち込んでいる。

 

当然ながら収入は上がらず、平成28年度の収入およそ1000万円に対して、1億7600万円の経費がかかっている。つまり100円稼ぐのに1760円かかる計算になる。

 

ところで、なぜこのような状況に夕張支線は落ち込んだのだろう。ここでいくつかの数字を見ながら整理していきたい。

【廃線に至るまで①】最盛期に比べて人口は93%減という状況に

まずは夕張市の人口の推移を見てみよう。人口が最多となったのは1960(昭和35)年のことで、人口は11万6908人を記録している。

 

沼ノ沢駅の駅舎内で31年にわたりレストランを営む「レストランおーやま」のご主人、大山幹雄さん(66歳)。若いころには帝国ホテルのレストランでフライパンを握った経験を持つ。賑やかだったころのことを、こう振り返った。

 

「私は駒大岩見沢高校へ通っていたのですが、夕張線では最盛期、D51形蒸気機関車が客車6両を牽いていました。混んでいる列車に上り下り揺られて片道1時間半かけて通ったものでした」。高校2年生の時にSLの牽引からディーゼルカーに変ったが、混雑ぶりは相変わらずだったそうだ。

 

しかし、相次ぐ炭鉱の閉山で人口は急激に減少していく。1965(昭和40)年には10万人を切り9万1183人に。1977(昭和52)年には5万人を切って4万8663人となった。

 

歯止めはきかず、1992(平成4)年に2万人を切り、1万9956人となった。その後、20年にわたりかろうじて1万人台を維持していたが、2013年に9968人となり、今年の1月1日には8087人にまで減ってしまっている。

↑夕張市の市役所などが集う本町を道道38号線から望む。町の中心部は空き地が目に付いた。向かいの山にはマウントレースイスキー場があり冬場は海外からの利用者も訪れる

 

現在の人口はピーク時のなんと6.9%という状態で、これでは夕張支線に乗客が乗っていないという現象もおかしくないところだろう。

 

夕張市の面積は763.07平方kmある。この面積は東京の23区がある東京都区部(626.70平方km)よりも広い。その大きな土地に8000人という人口なのだから想像が付き難い。

 

加えて夕張市は道内でも高齢化が著しく進んでいる町となっている。平均年齢は59.3歳(平成27年度調べ)で、道内でランキング1位だ。ちなみに札幌市は46.2歳。つまり働き盛りの若い世代が少ないわけだ。さらに65歳以上の高齢化率は50.55%で全国にある815市区の中で、1位となっている。

 

 

【廃線に至るまで②】北海道新幹線の開業年に列車本数が激減した

今からちょうど10年前の2009年春の時刻表を見ると夕張支線は9往復の列車が走っていた。夕張駅着の最終列車は21時52分着と、地方路線としては“まっとうな”時刻に走っていた。

 

長年、この9往復体制が続いていたが、大きく変わったのが2016年3月26日のダイヤ改正からだった。この年に北海道新幹線の新青森駅〜新函館北斗駅間が開業している。北海道民としては長年の夢だった新幹線が北海道乗り入れを果たした。

 

ところが、当初から北海道新幹線の延伸は、JR北海道の経営を圧迫することになることが予想された。そのためJR北海道では採算が取れていないローカル線の列車本数を減らすなど事前の対策を打ち出した。

 

2016年3月のダイヤ改正以降、夕張支線の列車が9往復から、5往復となっている。列車の減便は市内の人の移動を鈍らせる結果となったことは否めない。

 

↑2016年3月まで夕張着の下り最終列車は21時台だった。ところが2016年3月のダイヤ改正からは19時20分着と2時間半も早くなってしまった。こうした対応も夕張支線の廃線を早めたように感じた

 

乗客が減って稼げないから、鉄道会社も列車を減便していく。減便して不便になった分、さらに乗客が減っていく。負の連鎖を見る思いだった。

 

「レストランおーやま」の店主、大山さんは、その状況をつぶさに見てきた。「乗客がどーんと減っていったわけでなく、徐々に、じわじわと減っていったんです」と話すのだった。

 

 

【廃線に至るまで③】夕張市も“条件付き”での路線廃止に応じた

夕張市の人口が減った一つの要因として市の財政破綻に関して触れておかなければいけないだろう。炭鉱の廃坑がつづいているさなか、夕張市では石炭から観光を中心にした町造りへ、舵を大きく切った。ところが造った施設が思い通りに客を呼ぶことには結びつかず、いつしか巨額の債務を抱えていった。

 

↑1983年にオープンした「石炭の歴史村」(筆者撮影)。約55億円の投資が行われたとされる。写真のアドベンチャーファミリー(遊園地)では夏期しか営業できないなど問題点も多かった。「石炭博物館」を除き、遊園地などの施設は2006年で閉鎖されている

 

2007(平成19)年3月6日には全国で2例目の財政再建団体となった。自主財政再建団体とは自主再建が困難な破綻状態の自治体を指す。夕張市の運営は国の管理下に置かれつつ、財政再建を進めていくこととなった。2027年度に借金の完済を目指しているが、住民サービスの低下や税金などの負担が増えるなど、住人にとって厳しい現実に直面することになった。

 

その後の、2011(平成23)年には当時30歳という若さで鈴木直道現市長が当選する。鈴木市長は自らの給料を低く抑え、退職金100%カットをはじめとするさまざまな施策を取り入れるなどして、積極的な改革を推し進めた。

 

その鈴木市長が率いる夕張市が2016年8月8日、夕張支線の廃止を“条件付き”で容認したのだった。

 

それに合わせてJR北海道から2016年8月17日に夕張支線の鉄道事業の廃止が発表された。すでにJR北海道では複数の閑散路線の廃止の検討を地元自治体に提案しているが、廃止されることになったのは夕張支線が初めてのこととなった。

 

2018年3月23日にはJR北海道と夕張市が廃止について同意。さらに3月26日にはJR北海道から国土交通大臣宛に鉄道事業廃止届が提出された。

 

↑夕張の人気観光スポット「石炭博物館」(冬期は休館)。昨年春にリニューアルオープンした。模擬坑道があり、どのように石炭が採掘されたかを、分かりやすく解説している。昨年は入館者目標を大きく上回り3万1000人以上の入場者を記録している

 

さて前述した「条件付き」の条件とはどのような内容だったのだろう。

 

昨年の3月に発表された内容によると「JR北海道は、鉄道事業廃止後、夕張市において持続可能な交通体系を再構築するために必要な費用として7億5千万円を拠出すること」。さらに、

 

「JR北海道は、夕張市が南清水沢地区に進めている拠点複合施設に必要となる用地を一部譲渡すること」としている。

 

4月から夕張支線に代わる代替バスが新夕張駅から夕張支線沿いに走り始める。バスは夕張鉄道株式会社が運営する夕鉄バスによって運行される予定。新夕張駅〜石炭博物館は日に10往復のバス便が予定されている(夕鉄バスターミナルでの乗継ぎ便も含む)。鉄道好きとしては悲しいことだが、列車よりも俄然、便利になるわけだ。

 

このバスとデマンド交通機関をリンクさせる試みや、高齢者を念頭にしたタクシー乗車料金補助制度などを一部の地区で取り入れている。

 

さらに夕張中学校、夕張高校がある南清水沢地区に、交通の結節点の機能と文化施設の役割を合わせ持つ拠点複合施設の建設が2019年度中の完成を目処に着工されている。

↑石炭の歴史村内にあった「SL館」。1997年に筆者が撮影した館内で、夕張鉄道を走ったSL14号機などの貴重な史料が保存されていた。現在は未公開だが、有志による建物(右下)の雪下ろし作業などが続けられている。こうした人々の地道な活動には頭が下がる思いだ

 

沼ノ沢駅の駅舎で長年にわたり営業を続けてきた「レストランおーやま」はどうなるのだろう。大山さんにうかがうと、

 

「一時は、市が駅舎を買い取って賃貸契約を結ぶという話があったのですが、いつしかそんな話はしなかったという話に。毎月のようにJRの担当者が来られて今後どうするかという話をされていきますが、どうにも結論が出ないのです」。

 

JR北海道としては廃線となることだし、線路や駅舎は危険のないようにしておきたいというところなのだろうか。

 

一方で、沼野沢駅で営業を続けてきた大山さんや、夕張駅近くで商売を営む人たちなど、沿線に住む人々の暮らしは廃線された後も続いていく。路線はなくなっても、まだまだ難しい問題は抱えているようだ。

 

廃線への流れが進むさなか、夕張市を率いてきた鈴木直道市長が、2月1日に北海道の知事選に出馬することを表明した。

 

市民にはやはりそうだったのか、という思いと、「少なくとも借金完済までは面倒を見て欲しかった」という声が聞かれた。所詮、短期間の旅をした筆者に是非を言う権利はないものの、夕張支線の廃線を無念に感じるとともに、やるせなさが残った旅となった。

 

↑3月16日から3月31日までは増発列車が走り8往復となる。編成も平日が2両に、土日曜が3両編成となり運転される予定だ

 

 

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