おもしろローカル線の旅34 〜〜JR相模線(神奈川県)〜〜
JR相模線は茅ヶ崎駅と橋本駅間33.3kmを結ぶ。全線が単線で1991(平成3)年春までは、神奈川県を走る旅客線のうち唯一残っていた非電化路線だった。
そうしたローカル線も2027年には橋本駅にリニア中央新幹線の駅ができる予定で一躍、脚光を浴びつつある。現在は全線単線でローカル線の風情を色濃く残す。乗車すると歴史を含め意外に謎多き路線であることが分かった。
【相模線の謎①】相模鉄道が造った相模線がなぜJRの路線に?
相模線は今でこそJR東日本の路線だが、開業させた会社は相模鉄道だった。さらに現在の相模鉄道のメイン路線とも言うべき相鉄本線は、神中鉄道(じんちゅうてつどう)という別会社が開業させた路線だった。
相模鉄道自らが造った路線がJRの路線となり、一方で別会社が造った路線が相模鉄道となっている。なぜ、そのような不思議なことになったのだろう。
歴史を振り返る前に、相模線の概要を見ておこう。
路線と距離 | JR相模線・茅ヶ崎駅〜橋本駅間33.3km |
開業 | 1921(大正10)9月28日、茅ヶ崎駅〜川寒川駅間が相模鉄道により開業。以降、延伸を重ね1931(昭和6年)年4月29日、茅ヶ崎駅〜橋本駅間が全線開業 |
駅数 | 18駅(起終点を含む) |
相模線を開業させた相模鉄道。1943(昭和18)年4月1日に神中鉄道と合併した。神中鉄道の路線は横浜駅〜厚木駅間(1933年に全通・合併当時は横浜駅〜海老名駅間で旅客列車を運行)で、相模線とは厚木駅で接続していた。ところが両線が相模鉄道だった期間はわずか1年あまりと短かった。
合併した翌年、1944(昭和19)年6月1日に相模線が国有化されてしまう。以降、相模線は国鉄の路線となる。理由は戦時下のため明確にされていないが、相模線内に軍事施設があったことと、相模線、横浜線、八高線と連なる路線を、東京のバイパス路線として機能させたいためだったと推測される。
太平洋戦争が相模線の運命を大きく変えてしまったのだ。
【相模線の謎②】なぜ相模線は相模川沿いに造られたのだろう?
相模線はほぼ相模川沿いを走っている。それはなぜだろう? 相模線は相模川の川砂を運ぶことを目的に路線が敷かれた。
相模鉄道は1917(大正6)年に会社が創立している。1921(大正10)に茅ヶ崎駅〜川寒川駅間にまず路線を開業された。川寒川駅は相模川に近い現在の神川橋付近にあった駅だ。(旧寒川支線とは異なる・支線の詳細は後述)
その後、間もなく1923(大正12)年に関東大震災が起こる。相模線も被災し、路線の復旧まで1か月かかった。一方で復興のため、また東京の山手に新たな住宅地が求められたことなどで、多くの砂利が必要となった。その後に、寒川駅から北へ路線の延長が進められた。
当時は砂利運搬用の貨物列車が多く走ったことから「砂利鉄道」と揶揄された時代もあった。とはいえ関東大震災からの復興を目指す東京、横浜には欠かせない路線だった。
ちなみに1964(昭和39)年に砂利採取法が強化され、相模川などではそれ以降、砂利の採集が禁止され、相模線でも砂利を運搬する列車が姿を消している。
【相模線の謎③】なぜ相模線は相模鉄道に返却されなかったのか?
相模線は太平洋戦争が進む最中、なかば強制的に買収された。買収された私鉄は「戦時買収私鉄」と呼ばれた。首都圏では相模線のほか、南武線、青梅線、鶴見線も国有化されている。買収といっても戦時公債で代金が支払われ、その公債自体はほぼ換金不可能だったというのだからひどい話だ。
実はこの戦時下に買収された私鉄路線は、買収にあたり戦争終了後には元の会社に戻すという条件が付けられていた。そのため路線の持ち主だった元の会社がみな一定期間、存続していたという妙なことになっていた。その一例として現在も会社が残る鶴見臨港鐵道(鶴見線を開業させた)が上げられる。
だが、1線たりとも元の会社に戻されることはなかった。相模線も相模鉄道に戻されることなく、相模鉄道は以前の神中鉄道の路線のみで、戦後はスタートすることとなった。
相模鉄道をはじめ複数の会社から買収路線の払下げ要求が出されたそうだ。ところがまったく返却されることがなかった。戦後まもなく国会に鉄道払下げ法案が提出されたが、審議未了、廃案になってしまう不運も重なった。
戦後間もなく相模線では砂利輸送が活発に行われたものの、旅客面では芳しくなかった。そうした実情もあり、当時の相模鉄道としても本腰で戻して欲しいということを求めなかったのかも知れない。
戦中・戦後を通して相模鉄道自体も経営的に苦しい時期があり、東急グループの支援を仰いだ時期もあった。その後に会社を立て直し、いずみ野線を開業させるなど、大手私鉄として認められる堅実な会社経営を続けてきた。むしろその時に相模線が返却されていたならば、その後の成長はなかった可能性もある。
【相模線の謎④】走る205系に最初からスカートを付けた理由は?
相模線を走る電車は205系。相模線が1991(平成3)年3月に電化されたときに導入された205系の500番台という車両だ。
205系といえば、平成初期の通勤形車両としてはポピュラーな車両で、山手線を始め多くの線区で使われていた代表的な車両だ。相模線に導入された205系車両は、他の路線の205系とは形が違っている。
前面は左右非対称なデザインで、京葉線用205系に取り入れられていたFRP(繊維強化プラスチック)を採用している。さらに205系では初めて、登場当初からスカート(排障装置)が付けられていた。
他線を走る205系には当初、スカートが付けられていなかった。現在、付いている車両もあるが、それは後付けされたものだ。なぜ最初から相模線の205系にはスカートが付けられていたのだろうか。その理由は踏切が多いから。
当時の鉄道誌の解説でもJR東日本の開発担当者は「踏切事故対策としてスカートを新設した」(月刊「鉄道ファン」1991年3月号)と書いている。確かに相模線は高架区間がほぼなく踏切が多い。そのため事前の対策として、スカートを取り付けたということが興味深い。
205系もJR東日本では古参の車両となりつつある。すでに首都圏では武蔵野線と鶴見線、南武支線、日光線や、東北地方を走る仙石線ぐらいのものになりつつある。武蔵野線から205系が消える時期も近そうだ。さらに残る線区も更新された新しい形の205系が主流となりつつある。
相模線の205系に関してはJR東日本から何もアナウンスされていないが、登場してからすでに30年近いだけに、ここ数年のうちに何らかの動きがあるのかも知れない。
【相模線の謎⑤】全線を通して乗車する人が少ないその理由
実際に相模線の電車に乗ってローカル線の旅を楽しんでみよう。相模線は、JR東日本の路線の中で「幹線」という扱いを受けている。
だが、実際に乗ってみると、朝夕を除いて空いているローカル線そのものだ。そして乗った実感としては短い区間を乗車する人が多いことだった。長い区間は乗車せず、自宅に近い駅から乗車、橋本駅、海老名駅、厚木駅、茅ヶ崎駅などで乗り換え、東京や横浜方面を目指す人が多いことを予測させる。
通して乗車する人が少ない理由の一つとして、速度の遅いことがありそうだ。路線には表定速度(「運転時刻表制定速度」の略)と呼ばれる路線スピードの目安がある。例えばJR横浜線は朝8時台の表定速度が44kmに対して、JR相模線の表定速度は32.5kmだ。
単線のため複数の駅で上り下りの待合せ時間がある。そのため表定速度が上げることができない。ちなみに茅ヶ崎駅〜橋本駅間が所要約1時間かかる。そう長い乗車時間ではないのだが、待たされること嫌い、通して乗る人が少ないのではないか、と感じた。
今回は路線の起点となる茅ヶ崎駅でなく、終点となる橋本駅から旅をスタートさせた。
橋本駅では4・5番線ホームが相模線のホームとなる。列車はすべてが4両編成だ。車両にはドアスイッチが付いていて、寒い日、暑い日などにはドアスイッチの開閉ができて便利だ。
列車は平日の朝夕のみ10〜15分間隔、日中や土・休日はほぼ20分間隔で走る。橋本駅発の列車はすべて終点の茅ヶ崎駅行きで、途中駅止まりの列車はない。
【相模線の謎⑥】相模川が長年かけ造りあげた相模原台地って何?
橋本駅は相模原台地(相模野台地とも呼ばれる)の最も上段(相模原段丘)にある。
相模川は山中湖を水源に道志渓谷を造り、橋本付近で急に平野部に出る。その流れが相模川の左岸(東側)に、長年にわたり堆積物を積みあげ、また隆起して広大な河岸段丘形状の「相模原台地」を造り上げた。この相模原台地の南側は、はるか海老名付近まで続いている。
橋本駅付近から遠望がきかず、相模川が直接に見えないため、そのような気配をまったく感じない。だが、相模線の列車に乗ると、そうした相模原台地の地形がわずかながらも見てとれる。
相模線では次の南橋本駅から上溝駅の間に、上段から中段(田名原段丘)に路線が降りていく。さらに番田駅、原当麻駅が中段の地形が続く。その先、下溝駅付近が中段と下段(陽原段丘)のちょうど境にあたる。
上段、中段、下段のそれぞれの段の間には10〜40mほどの急斜面(段丘崖)があり、そこには小河川が浅い谷を刻む。相模線でいえば上溝駅、下溝駅という名は、その浅い谷を表している地名なわけである。
下溝駅から相武台下駅までは相模川と相模線が最も近づく駅区間で、路線の右手に急傾斜があり電車から相模川と川のたもとに広がる住宅街が見える。
相武台下駅から先は相模原台地も徐々に、ゆるやかになっていく。そして路線の左右に田畑が広がり始める。相模線の駅名には上溝、下溝、相武台下、入谷といった、相模原台地そして河岸段丘をうかがわせる地名が多く付いていることが改めて分かった。
【相模線の謎⑦】海老名駅から次の厚木駅まで並走する路線は?
相模原台地を徐々に下り降りてきた相模原線は、海老名駅の手前で左手に見えてきた線路と並走するように走り始める。さてこの路線はなんだろうか?
小田急小田原線や相模鉄道本線の海老名駅は、相模線の海老名駅とやや離れたところにあるからちがう。
答えは、相模鉄道の厚木線だ。
相模鉄道の厚木線は旅客営業をしておらず、一般には馴染みの薄い路線だ。路線の登録上は貨物線となっている。といっても貨物列車は走らない。走るのは相模鉄道に運ばれてきた新造車両や、厚木駅(貨物駅)構内にある留置線を使用する車両のみだ。
海老名駅の自由通路からも見える路線だが、この線路を走る電車をもし見ることができたならば、かなり希少な場面に遭遇したと思って良いかも知れない。
相模鉄道厚木線は、相模線の海老名駅と厚木駅の間の1.7km、ぴったりと寄り添うように走る。
これこそ、相模線が相模鉄道として一緒だったころの面影を残す区間でもある。現在は相模鉄道の厚木駅は、新造車両の導入や、試運転車両の走行、また休車となった車両の停め場所などとして使われている。
2019年の暮れには相模鉄道とJR東海道貨物線との間に新線が誕生、旅客列車の相互乗り入れを始める予定になっている。現在、あまり使われていない相模鉄道の厚木駅も、駅施設の一部整備が行われている。新線開業後は駅構内の様子も変ってくるのかも知れない。
【相模線の謎⑧】次は「社家駅」。さてこの駅は何と読む?
海老名駅と厚木駅で乗車していた人たちが大きく入れ替わる。両駅での乗換えが非常に多いことが良く分かる。
厚木駅の次は社家駅だ。さて社に家と書き、何と読む? 答えは「しゃけえき」だ。難読駅と言っても良いだろう。地名をもとにしている駅名だろうが、どのような意味があるのだろう。
「社家」という言葉は事典を見ると「神職の家柄」とある。世襲していた神社の家柄や神主を指す言葉だ。社家駅は海老名市社家という住所にある駅だが、この社家地区には古くから神職に携わる人が多く住んでいたようだ。なかなか由緒ある地名なのである。
社家駅のすぐ近くで相模線と東名高速道路がクロスする。さらに社家駅付近から右手に相模線と平行して圏央道(首都圏中央連絡自動車道)が延びている。東名高速道路に加えて圏央道は、ここ数年、整備が進み、ジャンクションなどの施設が相模線を絡むような形に設けられている。
社家駅と同じ形の駅舎が残る倉見駅付近では東海道新幹線が相模線とクロスする。倉見駅のホームから、東海道新幹線を通る列車の通過音が良く聞こえる。
【相模線の謎⑨】相模線の踏切の後ろに立つ鳥居はどこのもの?
宮山駅と寒川駅の間、大門踏切という踏切のそばに大きな鳥居が立っている。この鳥居はどこの神社の鳥居なのだろう。相模線を使って参拝客が多く訪れる寒川神社。その最寄り駅は宮山駅のはずなのだが。
相模線の踏切そばにある鳥居は寒川神社の一の鳥居だ。さらにこの先にある入口まで参道が続き、二の鳥居、三の鳥居と続く。参道の長さはなんと850mにも及ぶ。
約1600年の歴史を持つ寒川神社。相模國一之宮と称され、全国唯一の八方除の守護神として崇拝される。この参道の長さだけを見ても、多くの人たちからの崇敬を集めてきたことが分かる。
【相模線の謎⑩】寒川駅の西側、カーブして行く道をたどると
鳥居が立つ大門踏切のすぐ近くに気になる小道がある。その小道の横の空き地はまるで相模線から分かれ、下ってカーブしていていくような線路の跡に見える。道と空き地をレトロな形をしたコンクリートの杭が隔てている。
かつて寒川駅の西側に西寒川駅という駅があった。その西寒川駅まで1.5kmの支線が延びていた。寒川支線と呼ばれた。前述した空き地こそ、寒川支線が走っていた跡だ。路線の開業は古い。西寒川駅は1923(大正12)年2月に東河原駅として開業している。戦後、しばらく休線となっていたが、1960(昭和35)年に旅客営業を再開、1984(昭和59)年3月いっぱいで廃止となった。
寒川駅から旧西寒川駅まで設けられていた支線は、きれいな遊歩道として整備されている。一部に線路も残されている。西寒川駅までは1.8kmほどで25分あれば歩くことができる。旧西寒川駅前からはバス停もあるので、帰りはバスを利用しても良いだろう。
廃線跡には公園もあり、桜の季節などに歩くと気持ちが良さそうだ。ただ、残念なのは、寒川支線の跡地であることが記した案内などが無いこと。線路が何だったのか、やはりどこかに表示して欲しかった。
【旅を終えて】堅調な延びを示す相模線だが残念なことも
寒川駅からは残りあと2駅ほどだ。次の駅は香川駅。香川県でなく神奈川県の駅なのに香川駅とは。ちょっと早とちりしそうな駅名だ。
この香川駅付近にも言い伝えが残る。相模から生まれた一族である鎌倉氏が、香川駅のある茅ヶ崎市香川(香炉が倒れ川に流れ込み、川が良い香りを放つようになったことから香川と呼ばれたとされる)を支配したことで、香川を名乗るようになった。さらに香川氏は讃岐に渡り讃岐香川氏となった。香川という地名も元は茅ヶ崎の方が古いのかも知れない。
相模線の旅もあと少し。北茅ケ崎駅を通り、国道1号の下をくぐれば、東海道本線と合流、茅ヶ崎駅へ到着する。茅ヶ崎駅では相模線のホームの方が1・2番線と数字が若い。ちなみに東海道本線は3〜6番線ホームだ。
この番線の付け方だが、国鉄時代からの名残で、駅長室(駅本屋)がある側のホームから順番に付けられているそうだ。
茅ヶ崎駅付近をぶらり散策。南口前からサザンビーチちがさき方面へ延びる通りは「雄三通り」に「サザン通り」。やはり湘南の海岸には加山雄三氏やサザンオールスターズが良く似合う。
さて相模線。最初に記したように、2027年にリニア中央新幹線の橋本駅が開設される予定だ。乗車する人も以降はより増えそうだ。
さらに調べてみると、非常に沿線開発が進んでいることが確認できた。JR東日本が2017年度に行った調査によると「路線別平均通過人員の推移(在来線)」では、30年前の1987年度を100%とした場合に、相模線は317%と3倍以上に増えている。この数字はJR東日本の在来線ではトップだ。
この数値の延びが大きい横浜線(189%)、武蔵野線(242%)、京葉線(255%)と比べてもダントツの数字を示している。
神奈川県の主導で2016年には「相模線沿線活性化協議会」なる会合も設けられ、相模線の需要を喚起、利便性を向上させる取り組みを行っている。
協議会により沿線住民にアンケートが行われた。
相模線について不便に感じる点は、
①列車の本数が少ない 66.1%
②列車の行き違いに時間がかかる 42.5%
③終電が早い 25.7%
④普段は相模線に乗らないので分からない 22.4%
⑤他の鉄道路線との乗換えが不便 19.5%
相模線に接続する路線といえば、東海道本線に小田急小田原線や相模鉄道、さらに横浜線や京王相模原線。これらの路線は、みな複線で列車の本数も多く便利だ。全線単線の相模線と比べると、その差は歴然としてしまう。
JR東日本としても、沿線人口の増加がこれ以上は見込めない時代、巨額の費用を投下して複線化工事を進めることも難しいだろう。2027年に予定されるリニア中央新幹線の橋本駅開業まで、どのように変わって行くのか気になるところだ。
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