乗り物
鉄道
2019/4/6 18:00

鈴鹿山脈を眺めて走る三重のローカル私鉄−−10の新たな発見に胸ときめく

おもしろローカル線の旅35 〜〜三岐鉄道三岐線(三重県)〜〜

三岐鉄道三岐線は三重県内の近鉄富田駅(きんてつとみだえき)と西藤原駅を結ぶ。車窓からは広々した田園風景や、鈴鹿山脈、そして日本三百名山の藤原岳を望む。

 

三岐線は西武鉄道の古くからのファン、そして貨物列車好きにとっては見逃せない路線だ。さらに今、西武鉄道ファンを喜ばせるような車両塗り替えが行われている。そんな三岐線を旅すると想定以上の新発見が浮かび上がってきた。

↑三岐線の電車の塗装は黄色をメインにベース部分にオレンジ色の絡めたもの。写真の車両は西武鉄道の701系。そのほかの電車もすべてが西武鉄道からやってきた車両だ。写真の803編成は現在、検査中で新塗装に塗り替えられた(詳細後述)

 

【三岐線で新発見①】三岐という名前はどうして生まれたのか?

三岐鉄道三岐線という名前、なぜ「三岐(さんぎ)」なのだろうか。

 

筆者は迂闊なことに、名の由来に気付かず、たびたび沿線を訪れていた。今回、原稿を書くにあたり調べると、この名前は開業させるにあたっての計画が元になっていた。そんな歴史を振り返る前に、三岐線の概要を見ておこう。

 

路線と距離三岐鉄道三岐線・富田駅〜西藤原駅26.5km、近鉄連絡線・近鉄富田駅〜三岐朝明(あさけ)信号場1.1km
開業1931(昭和6)年7月23日、富田駅〜東藤原駅間が開業、12月23日に延伸、西藤原駅が開業
駅数16駅(起終点を含む)

 

賢明な読者の方々は、すでにお分かりかも知れない。三岐鉄道の三岐とは、三重県の「三」と岐阜県の「岐」を合わせたものだった。会社創設当時には、三重県の四日市市から、岐阜県の大垣市を経て、関ヶ原まで結ぶという壮大な路線計画が立てられたのだった。

↑三岐線の終点駅、西藤原駅。ホームから望むとこの先、線路はやや先にまで延び途切れている。実はこの先も線路を延ばす予定で会社名や路線名が決められていた

 

会社の創設には、浅野セメント、小野田セメント(両社はその後に変遷、合併し現在は太平洋セメントとなっている)の2社がそれぞれ取締役を送り込むなどして、大きく関わっていた。セメントの原材料となる石灰石が豊富に埋蔵される藤原岳の開発を見込んでのものだった。

 

また路線を延ばす予定だった関ヶ原には、近くの伊吹山から石灰石の採掘が行われ(現在は、セメント工場は閉鎖されている)、その産出のために鉄道路線を、と計画したのだった。いわば壮大なセメントロードを造ろうとしたわけだ。

 

ところが三岐線が誕生したころは、昭和恐慌と呼ばれる世界的な大不況のまっただ中。岐阜県内まで路線は延ばされることなく、1937(昭和12)年には鉄道路線開業の免許が失効してしまう。関ヶ原まで延ばす計画は頓挫してしまった。とはいえ、岐阜まで線路を敷設したいという先人たちの夢は生き続け、会社名と路線名に、三岐の名前が残ることになった。

 

ちなみに三岐鉄道は三岐線と平行するように北勢線という路線もある。

↑三岐線とほぼ平行して三岐鉄道北勢線の電車。西桑名駅〜阿下喜駅(あげきえき)を結ぶ。こちらの電車は線路幅が762mmと細い軽便(けいべん)鉄道サイズ。小さめの電車がのんびりと走る。電車は三岐線と同じ、黄色にオレンジという三岐カラーだ

 

こちらの路線は、北勢鉄道という会社が設けた路線で、その後、三重交通、さらに近畿日本鉄道(以降「近鉄」と略)が運営した。しかし、近鉄が廃線計画を明らかにしたことから、地元が存続にむけて対応。2003(平成15)年に三岐鉄道に譲渡され、地元自治体の協力を受けつつ運行が続けられている。

 

北勢線は本サイトの「おもしろローカル線の旅」で紹介している。

 

762mm幅が残った謎三重県を走る2つのローカル線を乗り歩く【三岐鉄道北勢線/四日市あすなろう鉄道】

 

 

【三岐線で新発見②】なぜ三岐線は元西武の車両ばかりなのか?

↑保々駅(ほぼえき)に隣接している保々車両区に停まる三岐線の車両。みな元西武鉄道の車両だ。三岐線に移ってからは801系(右から)、101系。左奥に751系という形式に変更されている

 

三岐線の電車に乗っていると、まるで一時代前の西武鉄道の路線に乗っているかのようだ。西武鉄道の元401系は、三岐鉄道101系に。元701系は801系と851系となり走っている。さらに、西武鉄道でまだ現役として活躍している新101系も導入されていて、こちらは751系となっている。

 

かつて三岐線の電車は元国鉄の車両、そして自社発注による新造車両が主体だった。1973(昭和43)年に電気機関車のED457号機を西武鉄道の所沢車両工場(現在は閉鎖)で製造した時から西武鉄道との縁が生まれる。同時期に解体発生品を一部に利用した新車両の製造を所沢車両工場に発注している。

 

さらに1977年には元西武鉄道の501系(三岐鉄道501系)を、1981年には元西武鉄道の451系・571系(三岐鉄道601系)といった元西武鉄道の車両を利用している。

 

現在、所有する車両はすべてが西武鉄道の所沢車両工場製だ。同じ工場で生まれただけに整備や機器類など流用がしやすいということもあったのだろう。西武鉄道と三岐鉄道には資本関係がないにも関わらず、こうした長年にわたる結びつきが西武鉄道の車両のみとなっていった理由だった。

 

【三岐線で新発見③】近鉄富田駅への路線は後から造られた!

では、三岐線の電車に乗車することにしよう。

 

三岐線の電車は近鉄富田駅の3番線ホームから発車する。近鉄の名古屋方面行きの電車が発車する2番線と同じホームで、乗換えしやすく便利だ。

↑近鉄富田駅の3番線は三岐線の専用ホーム。線路は写真の手前で行き止まりとなる。反対側、2番線は近鉄名古屋線の名古屋方面行きのホームとなる。2番線と3番線を遮る柵等もなく、乗換えしやすい。ただし、三岐線内ではICカードが利用できないので注意したい

 

出発するすぐに近鉄名古屋線と別れ、坂を登り始める。そして高架橋でまたぐのがJR関西本線の線路だ。線路をまたぐと電車は最徐行、ここで右から上ってきた線路と三岐朝明(あさと)信号場で合流する。

 

実はこの合流してきた線路こそ、路線開業時に造られた三岐線そのものだ。

↑三岐朝明信号場からJR富田駅へ向かう三岐鉄道の貨物列車。三岐朝明信号場とJR富田駅間は旅客列車が走ることが無く、貨物列車のみが走っている。写真左手の高架線が近鉄連絡線で、この上を近鉄富田駅へ向かう電車が走る

 

↑JR富田駅と平行して三岐鉄道のホームと跨線橋がある。現在このホームは使われておらず、また跨線橋への入口も閉鎖されている。写真右手にはJR貨物のDF200形式ディーゼル機関車の姿が見える。同機関車が三岐鉄道から貨車を引き継ぎ、関西本線を走る

 

概略で触れた三岐線の路線はJR富田駅〜西藤原駅間だ。しかし、電車は近鉄富田駅から出発する。近鉄富田駅〜三岐朝明信号場1.1km区間は、近鉄連絡線という扱いになっている。

 

近鉄連絡線が開業したのは1970(昭和45)年のこと。以降の1985(昭和60)年まで三岐線の電車は近鉄富田駅と、JR富田駅の2つの始発駅があった。

 

ところが、JR富田駅の利用客は近鉄富田駅に比べて少ないことから三岐朝明信号場〜JR富田駅間は、旅客営業は休止、現在、“本線”というべき路線には電車が走らず貨物列車のみが走る路線となっている。

 

近鉄富田駅を発車した電車は、四日市市の郊外住宅地を左右に見て走るうち、2つ先の平津駅(へいづえき)を過ぎた付近から左右に田園風景が広がり出す。

 

 

【三岐線で新発見④】保々車両区で塗装変更が進む電車は何だろう

近鉄富田駅から約16分で保々駅(ほぼえき)に到着した。

 

この駅には隣接して車両の基地、保々車両区がある。車両区を取り巻く道から停めてある電車や電気機関車がすぐ近くに見える。そのためか週末になると付近では鉄道ファンを良く見かける。

↑駅を出て近鉄富田駅側に歩いたところに保々車両区がある。基地と巡る道路の間には写真のような柵があるのみで、気軽に基地内の車両を眺めることができる

 

3月下旬に保々車両区の周囲を歩いていたら、基地の検修庫内で全般検査とともに塗装変更を行う車両を発見した。上下をラズベリーレッド、窓の周りがトニーベージュという色で塗られていた。

 

これこそ、西武鉄道の1960年代から1980年代にかけて西武鉄道の路線を走ったレトロカラーそのものではないか! 通称「赤電」と鉄道ファンに呼ばれ、愛されてきた車体カラーだ。

↑赤電塗装化が進む三岐鉄道803編成。西武鉄道でも新101系を「赤電」塗装を施した車両を走らせているが、新101系の登場した当時はすでに赤電は消滅していた。旧西武鉄道701系を赤電カラーにするとは何とも粋な計らいだと感じた

 

毎回、筆者の経験談で恐縮だが、西武鉄道の沿線で育ち、また通学、通勤に「赤電」を使った世代としては、懐かしさで胸がいっぱいになった。

 

しかも、現在、西武鉄道の西武多摩川線などを走るレトロ赤電塗装車は、古くは赤電でなかったこともあり、形と色に違和感を感じていた。

↑1968(昭和43)年、所沢駅近くで筆者が撮影した西武鉄道701系。当時は膨張する人口に対応するため西武鉄道では車体が新しかったものの、古い台車の再生品利用などして車両増産が図られた。当時の道路はデコボコ、軽トラックにも時代が感じられる

 

それに対して、三岐線で今生まれつつある赤電は、本家そのものの姿形を再現したもの。現実感が違うのである。

 

三岐線の赤電塗装車だが、4月上旬から走りだすべく最終調整中と三岐鉄道では話す。“あぁ、また三岐線に行かなければ!” うれしい悲鳴とともに、早く走る姿に出会いたいと感じたのだった。

↑すでに三岐線ではオールイエローのレトロ塗装車の801系(元西武鉄道701系)も走っている。1980年代の終盤からは西武鉄道701系が黄色一色に塗り替えられていった。その時に冷房化、さらに台車も写真のような新しいものに履き替えて走ったと記憶している

 

 

【三岐線で新発見⑤】不思議な形、レトロな音の踏切警報器を発見

三岐線に乗っていると、懐かしい、そして今となっては聞くことない踏切があることに気付いた。あれ〜、これは最寄りの駅で降りて確かめないと。

 

ということで保々駅から2つめの梅戸井駅(うめどいえき)で途中下車。近くにある古風な警報器が付く踏切へ向かう。

↑梅戸井駅〜大安駅(だいあんえき)間にある梅戸井2号踏切。警報器の上部の突起物の中で鐘を鳴らして、警報音を作り出している。三岐線でもこうしたレトロな踏切は徐々に減りつつある。通り過ぎる電車は101系

 

県道617号線が渡る「梅戸井2号踏切」。警報器の先が見かけない形状になっている。電車が来ると「♪カン、カン、カラン、カラン」と鳴る。現在、全国で多く設置されている警報器は「電子音式」と呼ばれるもので、電子音が鳴り、利用者に電車の接近を伝えている。

 

それに対して梅戸井2号踏切に設置された面白い形の警報器は「電鐘式」と呼ばれるもの。電子音ではなく上に付く発生器の中で実際に鐘を鳴らして音を生み出している。古風な音色でおもしろい。

 

電鐘式の警報器はすでにメーカーも生産を終了させており、三岐線でもこうした古い警報器は減ってきている。つい先頃にも1つの踏切の警報器が電子音式に変更された。残るのは梅戸井2号踏切を含め3か所のみになっているとか。ぜひとも古風な音色を今のうちに聞いておきたい。

【三岐線で新発見⑥】開館している日に行きたい貨物鉄道博物館

丹生川駅(にゅうかわえき)の近くに月に一度しか開館しない博物館がある。その名は「貨物鉄道博物館」。鉄道による貨物輸送が130周年を迎えた2003(平成15)年に開館した。日本で唯一の貨物鉄道専門の博物館で、一般からの寄付と、ボランティアにより運営されている。

 

専従のスタッフがいないためにオープンは月に1度。毎月第一日曜日の開館となっている(1月のみ2週目に変更)。4月は7日、5月は5日の予定だ。開館は10時〜16時で、入館無料だ。

 

月に1日のみと開館日は限られているため筆者も1度きりしか訪れたことがない。保存している車両は、今では見ることが少なくなった貨車を中心に15両。中には国立科学博物館の「重要科学技術史資料」(未来技術遺産)登録」されている車両が残る。次回はまた日を合わせて訪れたいと思った。

↑貨物鉄道博物館の館内には貴重な資料類や部品の展示、貨物鉄道博物館関連商品の販売、さらにNゲージ・HOゲージ模型を走らせることができるジオラマやキッズコーナーなどもあり、親子で訪ねても楽しい

 

↑車両のほとんどが屋外で保存される。写真は1955(昭和30)年に製造されたシキ160形で大型変圧器など大きな機器の輸送に使われた貨車「大物車」だ。貨車の中央に輸送する品物をはさんで走る仕掛けとなっている

 

保存車両が博物館の周囲、そして丹生川駅前の線路に置かれている。屋外で保存しているために風雨による影響も大きい。そのためボランティアの人たちが手弁当で定期的に補修、そして塗装などの作業を進めている。

 

すでに走る姿を見ることができなくかった車両ばかり。そうした車両を少しでも美しく長く保存しようという有志の人たちの思いには頭が下がる。

 

 

【三岐線で新発見⑦】東藤原駅の先に分岐する引込線はどこへ?

丹生川駅付近からは左右に田園風景が広がる。また前に横に位置を変えて鈴鹿山脈や藤原岳が見えるようになる。

↑三岐線の電車から鈴鹿山脈が連なる様子が見える。日本三百名山にあげられる藤原岳は右手の山。花の百名山にも選ばれていることもあり、シーズン中は訪れるハイカーも多い

 

三岐線の旅も終盤、東藤原駅に到着した。非常にきれいなレンガ建ての駅舎に模様替えされていた。2017年に建て替えられたばかりだそうだ。少しずつ変る沿線の風景。こうした新しい発見が楽しい。

 

この東藤原駅は車両区がある保々駅に次いで規模が大きい。ホームに平行して留置線が何本も設けられ、貨車が停まる様子が見える。時にはホームで電気機関車に牽かれた貨物列車が停車している姿に出会う。

 

さて東藤原駅の先、構内から何本かの線路が分岐しているが、この先はどこへ行くのだろう。

↑2017年11月27日に洋風デザインの駅舎が刷新された東藤原駅。駅前にはセメント輸送用のホッパ貨車・ホキ5700形が保存される。同車両は600両以上の車両が生産され、輸送に使われたが、現在はほぼ消滅している

 

↑東藤原駅の北側に太平洋セメントの藤原工場がある。線路は工場へ延びる引込線だ。工場から貨車を牽き、写真手前にある東藤原駅構内で入れ換え作業が行われる

 

上記の写真は東藤原4号踏切という東藤原駅近くの踏切横から撮影したもの。右はしが三岐線の線路で、左側が太平洋セメントの藤原工場への引込線となっていている。右手の三岐線の線路の先にも右手の工場へ入る引込線があり、このあたりの線路の敷かれ方が興味をそそる。

 

ちなみに東藤原4号踏切には注意書きがあり、貨物列車の入れ換え作業などで踏切が閉まってしまう時間がある。ここでは5〜15分ぐらい閉まることもあり、踏切にはその時間が記されている。とはいえ踏切を利用する大半は工場の関係者ということもあり、分かった上で踏切を利用している人が多いようだった。

 

 

【三岐線で新発見⑧】終点の西藤原駅で気になるSLを発見!

東藤原駅からは工場群を眺めつつ終点駅へ向かう。次の西野尻駅は三岐線で唯一の無人駅で、ホーム一つの簡素な駅だ。

 

三岐線はワンマン運転が基本なので、この駅で降車する人がいた場合は、運転士が乗車券を回収する。西野尻駅を発車すると、間もなく、終点の西藤原駅だ。このあたりまでくると、左手に鈴鹿山脈の山並みが迫ってくる。

↑三岐線の終点、西藤原駅。駅舎は蒸気機関車と客車の姿を模している。煙突や前照灯、動輪などが付き、またナンバーもC11-1というかなりのこだわった駅だ。後ろには藤原岳を望む。駅の近くに藤原岳登山口があり、同駅を利用するハイカーも多い

 

東藤原駅が近くに工場が見え、賑やかに感じたのに比べて、終点の西藤原駅は静かな印象の駅だった。駅の背後には藤原岳が間近に見える。藤原岳の登山口が近くにあるたけにハイカーの姿も目立つ。

 

さて鉄道好きとしては三岐線の停車ホームの真向かいに保存される車両たちを見ておきたいところ。

↑西藤原駅のホームにはE101形蒸気機関車と、ED22形電気機関車、そして入換用機関車のDB25形の3台が大切に保存されている。さらに写真手前の公園にはミニ鉄道の線路が敷かれている

 

先頭に置かれる蒸気機関車はE101形蒸気機関車のE102号機。三岐線が開業するにあたって汽車製造(後に川崎重工業に吸収合併)に発注した車両で、開業当時に貨車を牽いて走った車両だ。その後、20年以上にわたり三岐線を走ったが、電化されたのち、大阪窯業セメントに譲渡された。その後、三岐鉄道が70周年を向かえるにあたって里帰りした歴史的な機関車だ。

 

同駅で保存される車両は屋根があり、さらに掃除なども行われようで状態が非常に良い。こうした保存車両の状態を見るにつけ、三岐鉄道のスタッフの方々が、鉄道車両をいかに大切にしているのか、その思いが伝わってくるようでうれしい。

 

なお、保存車両が置かれた前の公園にはミニ鉄道用の線路が敷かれている。2015年3月までは三岐鉄道により「ウィステリア鉄道(地元が藤原であるから付けられた名前・藤=ウィステリア)」が走っていた。現在は県立の桑名工業高校の生徒さんたちが運転を引き継ぎ、庭園鉄道「桑工ゆめ鉄道」を走らせている。次回の運転は4月27日(土)の予定だ。

【三岐線で新発見⑨】貨物は日本で唯一のセメント輸送車両だった

旅客営業とともに三岐線で忘れてはいけないのが、貨物輸送だろう。日に7本の東藤原駅発、富田駅行きの貨物列車が走っている。セメント工場がメンテナンスなどで休業する日以外、変らずに走っているのだから、鉄道好きにはたまらない。

 

さて、この7本のうち大半が黒いタンク車を連結して走っている。このタンク車の中身は?

↑2両連結の電気機関車が黒いタンク車を牽引する。三岐線の貨物輸送は活発で、工場のメンテナンス休みを除きほぼ毎日、貨物列車が東藤原駅〜富田駅間を往復している

 

タンク車の中身はセメント。藤原工場で造られたセメントの粉体をタンクに載せて運んでいる。実は粉体で運ばれるセメント輸送はここだけ。

 

秩父鉄道や、岩手開発鉄道でもセメントに関わる輸送が行われている。だが、2社の輸送は、あくまでセメントの原材料となる石灰石を鉱山近くの中継基地から、工場へ運ぶ貨物列車だ。粉体で運ぶという姿は今や貴重というわけだ。

 

富田駅まで運ばれたセメント輸送列車はその後、JR貨物に引き継がれ、四日市港に運ばれる。港でも貴重なシーンをお目にかかれるので、後ほどお伝えしたい。

 

 

【三岐線で新発見⑩】不思議な形の貨車は何を運んでいるの?

黒いタンク列車とは異なる白い貨車を牽く列車にも出会うことがある。この貨車は三岐線を含め東海エリアでしか見ることができない貴重な車両だ。

↑三岐線内を走るフライアッシュ(石灰灰)の輸送列車。ホキ1000形というホッパ車で運ばれる。ホッパ車とは積載物を上から積み、下から降ろす構造をした貨車のこと

 

↑ホキ1000形を使った輸送は三岐線の富田駅からJRの路線を通り、衣浦臨海鉄道の碧南市(愛知県)まで運ばれている

 

貨車が運んでいるのは三岐線・東藤原駅からは炭酸カルシウム(炭カル)。そして、行った先で載せるのがフライアッシュ(石炭灰)だ。フライアッシュを載せて東藤原駅に戻ってくる。それぞれ何に使われるのかだろう。

 

炭酸カルシウムはセメントの材料となる石灰石を粉にしたもので、火力発電所で石炭を燃やす時に、公害防止用の資材として使われる。一方のフライアッシュは石炭を燃やした時にできる灰で、セメントを造る時に、混合剤として原料に混ぜて使われる。

 

片方向は空荷が多いという鉄道による貨物輸送。この輸送では空荷がない効率的な輸送で、非常に珍しい貨物輸送でもあるのだ。三岐線ではこのように旅客輸送だけでなく、貨物輸送も活発に行われていた。積み荷まで分かると、鉄道とともに資源の流れが見えてきておもしろい。

 

 

【三岐線おまけ】セメント輸送は貴重な橋を渡って行われていた

富田駅まで運ばれたセメント輸送列車はその後、どこまで行っているのだろう。ここからは三岐鉄道の手から離れるが、非常に珍しい輸送が見られるので、触れておきたい。

 

JR富田駅からJR貨物のDF200形式ディーゼル機関車がタンク貨車を牽引、四日市駅まで走る。四日市駅からは四日市港にある太平洋セメントの四日市出荷センターまで引込線を走る。

 

四日市港には日本で唯一、鉄道用の可動橋として残る末広橋梁を渡る。1931(昭和6)年に造られた橋で、「近代化産業遺産群」にも指定された貴重な橋だ。

↑末広橋梁をゆっくりと走るセメント輸送列車。この春からはDF200形式ディーゼル機関車が牽引に使われる。なお末広橋梁では輸送が無い時、中央部分が上がり、船が航行できるようになる

 

↑日本で唯一の鉄道可動橋・末広橋を別角度から見る。左は船を通すために中央部分をはね上げたところ。列車が通る時は右のように下がる

 

↑末広橋梁の先で太平洋セメントの入換機に引き継がれ、四日市出荷センターを目指す。左の機関車はJR貨物のDD51形式ディーゼル機関車。関西本線内でも減ってしまったが、この古参機関車の姿をわずかながらも見ることができる

 

富田駅発、四日市駅行き、セメント輸送列車の最新時刻をここに記しておこう。

 

①富田駅6時53分発→四日市駅7時3分着

②富田駅9時37分発→四日市駅9時47分着

③富田駅12時37分発→四日市駅12時47分着

④富田駅16時49分発→四日市駅16時59分着

⑤富田駅19時23分発→四日市駅19時33分着

 

上記5本が日に走っている。

 

四日市駅から四日市港への時刻は、駅構内の作業にあたるため、時刻は公表されていないが、末広橋梁へは四日市駅に到着したその約10分後にさしかかる。また帰りはその約15分後に末広橋梁を渡ると見ておけば良さそうだ。

 

三岐線から四日市港はそう遠くない。貴重な可動橋を渡るシーンにお目にかかるべく、訪ねてみてはいかがだろう。

 

【ギャラリー】