【武豊線の謎⑤】半田駅に残る跨線橋は本当に日本最古なのか?
亀崎駅の次の駅が乙川駅(おっかわえき)。この駅を発車し、まもなく古い橋脚(きょうきゃく)が残る英比川(えびがわ)橋りょうを渡る。
この橋も時間があったら訪ねておきたい。2本の川が流れるこの英比川(阿久比川とも呼ばれる)。中洲を橋近くまで入ることができ、その橋脚が良く観察できる。
明治の初め、鉄道建設はイギリスの協力を得て始められた。橋りょうは当時、政府に雇われた英国人の技師、C・A・W・ポーナルが設計したものが多い。鉄橋部分は近年になってかけ替え、また橋脚そのものは補修されているようだが、明治期の基本設計がここに生きつづけていること自体おもしろい。
英比川橋りょうを越えると列車は大きく左にカーブして半田市街へ入っていく。次の半田駅も近い。
半田駅も古い駅の建物が残る。中でもホームと駅舎を結ぶ跨線橋は、いかにも古そうだ。この跨線橋は1910(明治43)年11月に完成したもので、国内に残る最古の現役跨線橋だとされている。
とはいえ、こうした駅の構造物に関しての史料は、修復履歴を含めて明確に整理されたものが残っていない。そのため、最古という説は亀崎駅と同じく、絶対的なものではないようだ。
古い跨線橋をじっくり見つつ渡り、半田駅に降り立った。この駅が半田市の中心であるはずなのに、なぜか閑散としている。その原因はあとで説明するとして、他県から訪れた人間としてはちょっとびっくりさせられた。
この半田駅だが、数年後には大きく姿を変える可能性がある。愛知県と半田市が、半田駅を中心とした連続立体交差事業を進めているためだ。
武豊線の2.6km区間を高架化。この工事により12か所の踏切をなくなるという。2020年度からは準備工事、また用地確保を行い、2023年度には本工事に入る予定。完成予定は2027年度を見込んでいる。
明治時代に造られた跨線橋が、これまで良く残っていたものだと感心させられる。そんな武豊線にも都市計画の波が押し寄せてきたわけだ。先々、どのような形になるかは明確ではないが、何らかの形でその足跡が残ることを祈りたい。
半田駅の近くにはC11形蒸気機関車が保存され、隣接して「半田市鉄道資料館」もある。開館日が月に2回と限られるため、筆者は立ち寄れなかったが、興味をお持ちの方はぜひ立ち寄ってみてはいかがだろう。
ちなみに保存されているC11形の265号機は1960年代に地元、名古屋区に配置されていた機関車で、1970(昭和45)年6月30日に、「武豊線SLさよなら列車」(貨物563列車)を牽いた記念碑的な蒸気機関車だ。
【武豊線の謎⑥】終点の武豊駅の駅前に立つ銅像はどなた?
半田駅の先、列車に乗っている乗客が少なくなる。
東成岩駅(ひがしならわえき)での乗降客も少なめ、終点の武豊駅まで乗っていた人はほんのわずかだった。
終点の武豊駅に降り立つ。あまりに閑散としていて、この駅が果たして終点なのだろうか、と不思議に感じるほどだった。駅前に小さなロータリーの中央には「高橋 熙(ひろし)君之像」が立てられている。
像のモデルになっているこの方はどなた? 実は多くの人たちの命を救った勇気ある鉄道マンの像だった。
1953(昭和28)年9月25日。この地を台風13号が襲った。東成岩駅と武豊駅間の線路と線路下の道床が高潮によって流されてしまった。知らずに、東成岩駅を発車した列車。当時、武豊駅に勤めていた高橋 熙氏は、列車を止めようと東成岩駅へ向かって駆け出した。カンテラと発煙筒を持って、近づく運転士に知らせ、無事に列車を止め、さらに列車は東成岩駅に引き返した。勇気ある行動により乗車していた多くの人たちの命が救われたのである。
無事に列車を止めることができた一方で、高橋熙氏は武豊駅に戻らなかった。翌日には遺体となって発見された。像は全国の国鉄職員や全国の子供たちから集められた募金によって、台風に襲われたちょうど1年後に立てられた。
今でこそ安全設備や通信機器が発達して、このような事故が起こり難くなっている。かつて、こうした我が身の危険も省みず、鉄道を安全を守ることに精根を傾けた人々がいたことに感動を覚える。