【武豊線の謎⑦】どのように使った?十字に線路が交わる転車台
閑散とした印象が強い武豊駅だが、開業当初の駅は、もっと港側にあった。開業した1886(明治19)年から6年後の、1892(明治25)年には、現在の場所に移されている。
元の武豊駅は武豊港駅(たけとよみなとえき)という貨物駅にその後なった。そして1965(昭和40)年までこの武豊港駅は使われていた。現在の駅からこの駅までの1kmは貨物支線だった。武豊駅の先に延びる車道に沿って明らかに線路跡とわかる痕跡が残る。線路跡沿いに武豊港駅まで歩いてみた。
線路跡は一部が散策路となっている。散策路以外は車道を歩かなければいけないが、クルマの通行量も少なく散策には快適だった。駅から約1kmで旧武豊港駅の跡地に着く。ここでは不思議な設備を発見した。「転車台ポケットパーク」と名付けられた公園内の中心に転車台が残っていたのだ。
この転車台、通常お目にかかる転車台と形が違う。線路が十字に敷かれているのだ。さて、その理由は?
同公園にある案内板には次のような説明が付けられていた。下記はその要旨。
路線開業当時には木製の転車台がこの駅にあり、その後に転車台が2基もうけられた。今残っている転車台はそのうちの1基で、貨車を方向転向するために設けられたもの。大きな用地が準備できなかったことから、小さいスペースで方向転向が可能なような転車台が設けられた。十字に線路を組んだ理由は、より効率的に作業ができるように考えられたのだろう、と案内にあった。
こうした転車台は、国内ではここだけのものだという。機関車用ではなく貨車用という、その用途がまたおもしろい。
【武豊線の謎⑧】なぜ武豊には味噌蔵が集うのだろう?
「転車台ポケットパーク」向かう途中、複数の味噌蔵が点在していることに気がついた。蔵に近づくと、味噌の香りがほのかに伝わってくる。武豊は古くから「醸造の町」とも呼ばれてきた。
元々、武豊町を含む知多半島では醸造業(酒造り)が盛んだった。その後に酒造りは下火になっていく。江戸末期は小資本でも可能な味噌、たまり(たまり醤油)造りを行う家々が増えていった。
この地は気候も温暖で、良質な硬水が得られることも味噌、たまり造りの後押ししたとされる。武豊町の味噌作りには大豆が使われる。原材料を取り寄せるにあたって、近くに武豊港(衣浦港)があったことも幸いした。
武豊の味噌は大豆を原料にした「豆味噌」。東海地方では岡崎の八丁味噌が知られているが、八丁味噌に比べて、武豊の味噌は水分含有量が多いとされる。今回は駆け足気味の旅だったので、味わえなかったが、このあたりの違いを次回はぜひ探ってみたいと思った。
【武豊線の謎⑨】なぜ武豊線の列車は空き気味なのだろう?
朝夕の通勤・通学時間を除き、武豊線の列車は空いている。特に半田駅〜武豊駅間にその傾向が強く見られる。旅する人間にとって混んだ電車よりも空いた電車のほうが気軽なのだが、半田市などの都市があるのに関わらず、この空き具合は気になるところだ。
この謎の回答を得ようと、武豊線を訪れた翌日、武豊線に平行して走る名古屋鉄道(以降「名鉄」と略)の河和線(こうわせん)に乗車してみた。
名鉄の河和線は太田川駅(おおたがわえき)で常滑線(とこなめせん)と分岐して、知多半島の東岸にある河和駅まで走る。武豊線と河和線は半田駅と武豊駅の間、ほぼ沿って南北に走っている。両路線の距離は約500m〜600m離れた程度で近い。
河和線は便利だ。特急もほぼ30分おきに走っている。この特急を利用すれば、名古屋市内のターミナル駅、金山駅へは31分で着く(34.3kmで運賃660円)。
一方の武豊線を使った場合、JR東海道本線からの直通列車を使ったとしても50分以上の時間がかかる。朝夕こそ直通列車が走るからいいが、日中は大府駅での乗継ぎが必要になる(35.5kmで運賃670円)。朝のみ武豊駅発の列車は15分〜20分おきだが、日中、および夜は、ほとんどが30分間隔での運行となる。
路線の距離数こそ大きな差がないものの所要時間が20分ほど違う。そして何より運行本数に差がある。
この状況は武豊駅だけでなく、半田駅も同じだ。JR半田駅よりも名鉄の知多半田駅のほうが賑わっている。さらに銀行、ホテルなど諸施設が集まる。半田駅〜武豊駅を利用する人たちにとっては、つい名鉄を利用しがちになるのも、この状況を見ると理解がついた。