おもしろローカル線の旅94〜〜JR東日本・青梅線(東京都)その1〜〜
東京の郊外を走る青梅線。立川駅から青梅駅までは住宅地や畑が連なり、その先、奥多摩駅まで「東京アドベンチャーライン」の愛称で親しまれている。130年近い歴史を持つ青梅線には、不思議な短絡線や、謎の引き込み線もある。意外に知られていない一面を持つ青梅線の謎解きの旅を楽しんでみた。
*取材は2019(令和元)9月〜2022(令和4)年7月10日に行いました。一部写真は現在と異なっています。
【青梅線の謎を解く①】戦前発行の路線ガイドに隠された秘密
青梅線の概要をまず見ておこう。
路線と距離 | JR東日本・青梅線:立川駅〜奥多摩駅間37.2km 全線電化、 立川駅〜西立川駅間は三線、西立川駅〜東青梅駅は複線、ほか単線 |
開業 | 1894(明治27)年11月19日、青梅鉄道により立川駅〜青梅駅間18.5kmが開業 1944(昭和19)年7月1日、氷川駅(現・奥多摩駅)まで延伸 |
駅数 | 25駅(起終点駅を含む) |
今から128年前に誕生した青梅線は、青梅鉄道により路線が造られた。開業当時は軽便鉄道で線路幅は762mmだった。拝島駅から分岐する五日市線がそうだったように、東京郊外で産出される石灰石やセメントの貨物輸送を主な目的に造られた。青梅駅から先は多摩川沿いに延ばされていった。
1895(明治28)年12月28日には日向和田駅(ひなたわだえき)まで、1920(大正9)年1月1日に二俣尾駅(ふたまたおえき)まで路線が伸びている。軌間は1908(明治41)年に1067mmに改軌され、また1923(大正12)年に全線が電化されている。
そんな時につくられたのが下記の青梅鉄道の路線ガイドである。当時の人気絵師であり、鳥瞰図作りの作家でもあった吉田初三郎が制作したもので、当時の沿線の様子が非常に分かりやすく描かれている。
今も人気の吉野梅郷(よしのばいごう)が大きく描かれるとともに、終点の二俣尾駅周辺にあった浅野セメントの石灰石採掘所が詳しく描かれている。吉田初三郎は、鳥瞰図を作る場合に、必ず現地を訪れて書いたとされる(本人が行けない場合は弟子が訪れた)。小型カメラなどがなかった時代、大変だったと思われるが、鳥瞰図により当時の様子が再現され、今見てもおもしろい。
青梅鉄道は1929(昭和4)年5月3日に青梅鉄道から青梅電気鉄道と社名を変更。さらに、その年の9月1日に御嶽駅(みたけえき)まで路線を延伸している。そんな青梅電気鉄道時代の春用、秋用のパンフレットが下記のものだ。
吉田初三郎作のパンフレットほど豪華さはないが、それぞれ広げると横幅30cmほどで持ちやすいサイズに作られている。細かさは初三郎の鳥瞰図には劣るものの、秋の紅葉や春の新緑などの表現がしっかり描かれている。
おもしろいのは時代背景が感じられること。秋のパンフレットは表紙が背広姿の男性と和装の女性の2人が川沿いを散策する姿。対して春のパンフレットは景色のみのシンプルなものになっている。秋のパンフレットは、昭和5年〜10年ぐらいのもの、春のパンフレットは昭和10年代以降のものだと思われる。昭和初期の作のほうがデザインもお洒落で、まだ余裕があった時代らしい作りだ。青梅鉄道のパンフレットは、本稿で以前に取り上げた五日市鉄道(現・五日市線)に比べて多く残されている。それだけ観光路線としても、人気が高かったのだろう。
その後、太平洋戦争に突入すると、青梅電気鉄道も軍国主義の荒波にのまれていく。御嶽駅から先は奥多摩電気鉄道という会社が鉄道路線の延伸工事を進めていたが、青梅電気鉄道とこの奥多摩電気鉄道が1944(昭和19)年4月1日に国有化され青梅線になる。当時の国有化は半ば強制で、支払いは戦時国債で行われた。戦時国債の現金化は難しく、戦後は超インフレで紙切れ同然となっている。太平洋戦争後も元の会社に戻されることはなかった。
青梅線の延伸は1944(昭和19)年7月1日に氷川駅までの工事が完了し、全通している。戦時下の物資乏しい中にもかかわらず、軍部がセメントを重要視していたこともあり、路線はいち早く延ばされた。多摩川の上流部に石灰石が多く眠っていたためである。
【青梅線の謎を解く②】50年前に青梅線を走った電車は謎だらけ
戦後、落ち着きを取り戻した昭和30年代となると、青梅線は東京から気軽に行くことができる行楽地として脚光を浴びる。週末は御岳山などに登るハイキング客で賑わった。筆者の父もハイキングが好きで、やや無理やりに連れていかれたが、そんな時には、沿線で電車や機関車を撮ることを楽しみにしていた。そんな写真が下記のものだ。
今から半世紀前のものになるが、青梅線にはまだオレンジの101系などは走っておらず、こげ茶色の「旧型国電」と呼ばれる電車だった。当時の青梅線は、古い電車の宝庫だったわけである。
この旧型電車は、今調べると非常に分かりにくい。現在のように、体系化されておらず、昭和一桁から戦後間もなくの物資がない時代に、車両数を増やすことを主眼に製造された。整理してみると青梅駅〜立川駅では20m車両の72系(73系と呼ばれることも)や40系が多く走り、それより先は17m車の50系が多く見られたように記憶している。何しろ、異なる形の車両が〝ごちゃまぜ〟で走っていることもあり、車両形式をメモするなどしていないこともあり、筆者の記憶もやや怪しい。
青梅線ではこれらの旧型国電が1978(昭和53)年まで走り続けた。他線に比べてもかなり長く生き続けたわけである。旧型国電の姿とともに、青梅線全線で見られたのはED16形電気機関車が牽引する鉱石運搬列車、さらに拝島駅では八高線にSLが走っていたこともありD51やC58の姿を見ることができた。
現在、青梅線を走る電車も見ておこう。主力はE233系基本番台で、区間ごとに6両(一部は4両)、10両の電車が走る。2024年度末以降にはグリーン車付き電車も運行予定で、立川駅〜青梅駅のホーム延伸工事も進められている。
ほか定期列車として走るのがE353系特急形電車で、平日の朝と夜に特急「おうめ」として東京駅〜青梅駅間が運転されている。
青梅線には貨物列車が今も走っている(詳細後述)。石油タンク車はEF210形式直流電気機関車が牽引する。これまではEF65形式直流電気機関車で運転されていたが、最近の運用を見るとEF210に引き継がれたようだ。
また、拝島駅の入れ替えや引き込み線での牽引はDD200形式ディーゼル機関車が使われている。青梅駅までさまざまな臨時列車が入線することもあり、画一化されがちな通勤路線に比べるとバラエティに富んでいて、それが青梅線ならではの楽しみの一つになっている。
【青梅線の謎を解く③】立川駅から分岐する謎の単線は?
前置きが長くなったが、青梅線の謎をひも解いていこう。起点の立川駅から早くも謎の路線を走る。通常の青梅線の発着は立川駅の北側にある1・2番ホームとなる。このホームに停まる電車は主に青梅線(一部は五日市線)の折返し電車だ。
中央線から青梅線に直接乗り入れる電車は、どのように走っているのだろう。乗り入れる電車は5・6番線からの発車となる。青梅線の折り返し電車とは異なるホームだ。ここから発車する電車は「青梅短絡線」と呼ばれるルートをたどる。
「青梅短絡線」は中央線から分岐し、立体交差で越えて西立川駅まで走る単線ルートで、民家の裏手、垣根に囲まれて走るような、ちょっと不思議な路線だ。
この短絡線は青梅電気鉄道と南武鉄道(現・南武線)との間で、国鉄の路線を通過せずに、貨物列車などを通すために設けた路線だった(国鉄の路線を通すと通過料が必要となるため)。その後に国鉄路線となったため、本来の役割は消滅したが、今は青梅線への直通電車の運行に役立っているわけである。さらに拝島駅と、鶴見線の安善駅とを結ぶ石油タンク輸送列車の運行にも役立てられている。
青梅短絡線は1.9kmの距離がある。元々の立川駅〜西立川駅間の青梅線の距離は1.7kmで、青梅短絡線を回ると0.2km長く走ることになる。青梅短絡線は実は少し長く走る〝迂回線〟だったというのがおもしろい。ちなみに、長く走るがその分の運賃の加算はない。
【青梅線の謎を解く④】アウトドアヴィレッジのかつての姿は?
立川駅から拝島駅の間にはレジャー施設が多くある。たとえば、西立川駅の北側には国営昭和記念公園がある。広大な公共公園で、「花・自然」「遊ぶ・スポーツ」など四季を通じて楽しめるエリアに分かれている。西立川駅の次の駅、東中神駅の南側には昭島市民球場や陸上競技場、テニスコートなどがある。
拝島駅の一つ手前、昭島駅近くには大規模ショッピングセンターに加えて、商業施設「モリパークアウトドアヴィレッジ」がある。テナントはアウトドア関連のショップのみで、さらにパーク内に、クライミングジムやヨガスタジオ、ミニトレッキングコースなどがあり、多彩なアウトドアイベントも開かれる。まさにアウトドア好きにぴったりの施設だ。
このアウトドアヴィレッジ、かつては何だったのかご存じだろうか?
ここには、かつて昭和飛行機工業という飛行機を造る工場があった。戦前にはプロペラ機のダグラスDC-3のライセンス生産を開始、終戦までDC-3/零式輸送機の大量生産を続けていた。戦時下には紫電改などの戦闘機もライセンス生産していたとされる。終戦後には国産旅客機のYS-11、輸送機C-1の分担生産を行ったほか、特殊車両の製造などを続けた。飛行機工場のため、飛行場を併設するなど広大な敷地を備えていたこともあり、敷地を活かしてアウトドアヴィレッジが生まれたわけである。
ちなみに、昭島駅(開業時は「昭和前駅」)も、昭和飛行機工業が駅舎用地を提供、建設費も一部負担したとされる。同工場との縁が深いわけである。
前述した国営昭和記念公園は旧立川飛行場の跡地が利用された。この沿線は、広大な武蔵野台地を利用して造られた飛行場や飛行機工場など、飛行機に縁が深い土地である。飛行機との縁は拝島駅ではさらに濃くなる。
【青梅線の謎を解く⑤】拝島駅の東口を通る謎の線路はどこへ?
青梅線は拝島駅で八高線と五日市線、そして西武拝島線と接続している。拝島駅の東口駅前には、引き込み線が設けられている。
この引き込み線は横田基地線と呼ばれる。伸びる先には現在、在日米軍が所有・使用する横田基地がある。元は1940(昭和15)年に当時の大日本帝国陸軍の航空部隊の基地として開設され、太平洋戦争末期には首都圏防衛の戦闘基地になっている。
飛行場は終戦後には米軍に接収された。その後、長く米軍の燃料輸送が行われている。石油タンク車を利用した燃料輸送は鶴見線の安善駅との間を走り、拝島駅でディーゼル機関車に付け替えられる。そして拝島駅の東口駅前を通り、横田基地の入り口フェンスまで約500m走り、そして基地内へ運び込まれている。
なお、青梅線の線路から拝島駅東口に向かう際に、西武拝島線を平面交差して横切っている。そのため、西武鉄道の電車も、このタンク輸送に合わせて、電車のダイヤ調整が行われている。
日本には在日米軍の基地が多くあるが、鉄道による石油輸送が行われているのは、横田基地のみとなっている。輸送は主に火曜日および木曜日に行われている(臨時列車のため確実ではない)。珍しい米軍向けのタンク車輸送ということもあり、鉄道愛好家の間では〝米タン輸送〟の愛称で呼ばれている。
横田基地線の線路には日本語と英語で書かれた「立入禁止区域」の立て札が各所に立てられ、ものものしい雰囲気だ。基地内は日本の中のアメリカで、世界で戦争や紛争などが起こっている時は、張りつめた緊張感が感じられる。ロシアのウクライナ侵攻が始まったころには、通常時に比べて輸送機が数多く離発着していた。
【青梅線の謎を解く⑥】福生駅から伸びる廃線、その開業の謎
現在は、拝島駅〜立川駅間の貨物輸送しか行われていないが、かつては、全線で貨物輸送が行われ、複数の引き込み線が設けられていた。
福生駅から福生河原まで1.8kmに渡り伸びていた貨物支線もその一つである。この路線が造られた経緯も興味深い。福生河原での多摩川の砂利採取のために1927(昭和2)年2月9日、路線が造られた。この砂利は八王子市に計画された大正天皇陵所の造営に必要な多摩川の石を運搬するために造られたものだった。廃線跡を歩いてみると、貨物支線の痕跡が残されている
江戸時代に設けられた玉川上水には加美上水橋が架かる。今は歩道橋として使われるが、以前は貨物支線用につくられた橋だった。橋の入口には歴史を記した碑があり、そこには「日に二回電気機関車が四、五両の貨車を引いて通り、また地域の人々は枕木を渡り利用していた」とあった。
この橋をさらに多摩川方面に歩くと、堤がカーブして河原へ続いている。サイクリングに最適な川沿いの道だが、かつて貨物列車が走っていたとは、利用者の大半が知らないだろう。
この貨物支線は1959(昭和34)年12月に砂利運搬停止、路線を廃止、さらに1961(昭和36)年3月に線路や架線が撤去された、と碑にはあった。
【青梅線の謎を解く⑦】青梅駅の手前で急に単線になる謎
青梅線の運行形態は立川駅〜青梅駅間と、青梅駅〜奥多摩駅間では大きく異なる。青梅駅までは東京の郊外幹線の趣があるが、青梅駅から先は、途端に閑散路線となる。ところが、線路の造りを見ると、こうした運転形態とは、少し異なる。青梅駅の一つ手前、東青梅駅までは複線区間で、郊外線そのものだが、その先で単線となり、そのまま青梅駅へ電車は入っていく。電車の本数が青梅駅までは多いのにかかわらずである。
東青梅駅までは平野が広がる地形で、その先で、急に進行方向右手に山並みが迫ってくる。青梅駅が近づく進行方向左手にも丘陵があり、電車は窪地をなぞるように走り青梅駅へ入っていく。
東青梅駅までは1962(昭和37)年5月7日に複線化された。ところが、その先は複線化工事が行われなかった。山が急に迫る地形が、複線化を拒んだということなのかもしれない。
【青梅線の謎を解く⑧】青梅駅の風格ある駅舎の起源は?
青梅駅へ到着して駅を降りる。駅の地下道には、昔の映画館で良く見かけた映画看板が左右に掲げられている。改札口までの通路には青梅線の古い写真などの掲示もある。駅の案内表示はレトロ風と、昭和の装いがそこかしこにある。ちょっと不思議な駅の装いだが、青梅駅は2005(平成17)年に「レトロステーション」としてリニューアルしている。映画看板もそうしたイメージ戦略による。
青梅駅の駅舎は1924(大正13)年に青梅鉄道の本社として建てられた。青梅鉄道が開業30周年を迎えたことに伴い改築されたもので、すでに改築してから100年近い歴史を持つ。そうした経緯の建物のせいか、重厚感が感じられる。建物の1階部分のみしか見ることができないが、地上3階、地下1階建てだそうだ。
こうしたレトロステーションにあわせて、青梅市内には〝昭和レトロ〟の趣があちこちに。今年の4月末からは駅の隣に「まちの駅 青梅」という青梅市の地場産品を販売する店舗も誕生した。外装には昔のホーロー看板(メーカーそのものの看板ではなく似せてある)が飾られ、昭和期の町の商店のよう。青梅わさびや、地酒、スイーツも販売され、楽しめる店舗となっている。
青梅市街にはほかに映画看板が飾られた施設や店も多く昭和レトロ好きにはたまらない町となっている。
【青梅線の謎を解く⑨】西武鉄道沿線まで走る路線バスの謎
青梅駅からバス好きの人たちには良く知られた名物都営バスが発車している。西武新宿線の小平駅や花小金井駅へ向けて走る路線バスだ。青梅駅と花小金井駅間の走行距離は約30kmもある。この都営バスは「梅70」系統とよぶ路線バスで、都営バスが走る路線の中では最長距離路線とされる。所要時間100分前後で、道が混めば2時間かかることも。
走行する区間は青梅駅近くの、青梅車庫と花小金井駅北口間で、停留所数81もある。ほぼ青梅街道に沿って走り、青梅線の河辺駅(かべえき)、八高線の箱根ヶ崎駅、西武拝島線の東大和市駅、武蔵野線の新小平駅、西武多摩湖線の青梅街道駅を経由して、花小金井駅へ走る。
電車が走らない武蔵村山市や、公共交通機関の乏しい青梅街道沿いを走るとあって、意外に利用者が多い路線である。
この「梅70」系統、1949(昭和24)年に301系統として生まれ、その時には荻窪駅〜青梅(現・青梅車庫)間を走っていた。1960(昭和35)年には阿佐ケ谷駅まで延伸されている。当時は約39.1kmで今よりも長い距離を走った。その後に荻窪駅まで、2015(平成27)年に、現在の花小金井駅北口まで短縮された。
全線乗車するには、かなり忍耐強くなければ難しい路線だが、次回は途中まででも良いので、試してみようかと思った。
【青梅線の謎を解く⑩】青梅鉄道公園に残る悲劇の機関車とは?
鉄道好きならば、青梅駅を訪れたら、ぜひとも寄っておきたい施設がある。鉄道好きご用達「青梅鉄道公園」だ。国鉄が鉄道90周年記念事業として開設した鉄道公園で、明治時代から昭和期まで活躍した10車両が保存展示されている。鉄道好きの子どもたちが安心して遊べる遊具や、古い車両に出合え、鉄道模型などもあり親子揃って楽しめる施設となっている。
鉄道公園だから駅や線路近くかと思うと、これが意外にも青梅駅の北側、永山公園という山の一角にある。駅からは徒歩で15分ほどだ。ハイキング気分で訪れるのに最適と言えるだろう。
展示保存される中で最も珍しいのは動輪5軸というE10形蒸気機関車ではないだろうか。国鉄が最後に新製した蒸気機関車で、奥羽本線の板谷峠越え用に造られた。1948(昭和23)年に5両が造られた機関車で、青梅鉄道公園に残る車両はその2号機が保存される。このE10、高性能だったのだが、技術的な問題が多々あり、製造翌年には、板谷峠が電化され、肥薩線や北陸本線へ転用された。他の路線でも性能は活かされずに1962(昭和37)年には全車が廃車となっている。稼働14年と短く〝悲劇の機関車〟とも呼ばれる。
そのほか青梅線で走った車両も見ておこう。まずはED16形電気機関車1号機。こちらは1931(昭和6)年に鉄道省(その後の国鉄)が製造した電気機関車で、中央本線や上越線用に開発された。青梅線との縁も深く、西立川にあった機関区に数両が配置された。博物館に保存される1号機も、西立川や八王子の機関区に配置されていた期間が長い。同1号機は、国産電気機関車が生まれた当時の歴史的な車両ということもあり重要文化財に指定されている。
こげ茶色の旧型国電クモハ40054という車両も保存されている。この電車の形式名はクモハ40形電車で、車体長20m、国鉄40系のひと形式に含まれている。同車両は青梅駅にあった青梅電車区に一時期、配置され、その後は日光線などで活躍した後に、記念イベントで青梅線を走行した経歴を持つ。
旧型国電は、青梅線などの全国のローカル線を走り、さらに全国の私鉄に払い下げられ長い間、走り続けた。戦中・戦後の日本を支え、さらに昭和期の輸送に役立てられた。このこげ茶色の角張った車両を見ると、お疲れ様と言いたくなるような愛おしさが感じられるのである。