いまや家庭でも当たり前のように飲める「生」ビール。しかし、1970年代までは、「生ビール」はビヤホールや飲食店で飲むのが大半で、一般市場には熱処理をしたびんや缶ビールしか流通していませんでした。
そこに風穴を開けるかのように、一般市場に「生ビール」の道を切り開いたのが、1977年にサッポロが誕生させた「黒ラベル」(当時の名は「サッポロびん生」)。現在の生ビール市場の礎を築いた商品で、その功績はあまりに大きいです。
「サッポロ生ビール 黒ラベル」の誕生40周年を迎える今年、改めて同商品の功績と、誕生前後の逸話を、シリーズで掘り下げていきます。案内していただくのはサッポロビール ブランド戦略部の武田悟季さん。「サッポロ生ビール 黒ラベル」が誕生するまでのサッポロビールの成り立ち、同商品が与えた影響力や今後について話を伺いました。
サッポロブランドグループ・シニアマネージャー 武田悟季さん
1997年入社。家庭用営業、マーケティング部門を経て、2015年より黒ラベルのブランドマネージャーに就任。
サッポロビールのルーツは「開拓使麦酒醸造所」
ーーもともとサッポロビールは、いまから約140年前の1876年に北海道でスタートしたと伺っています。
武田悟季さん(以下:武田) はい。当時、明治政府の開拓使が様々な産業の工場を作っていったのですが、その一環としてビールに着手しました。工場が設けられた場所は北海道で、それがのちのサッポロビールになる、開拓使麦酒醸造所でした。ビールの主原料は麦芽とホップですが、野生のホップが北海道に自生していたんです。
ーー当時からサッポロビールのシンボルの星もプリントされていますね?
武田 当時、ビールづくりをした先駆者たちは、東京から北海道まで開拓使の船で行き来していたですけど、その船には開拓使の掲げた旗に五稜星が描かれていました。もともと北極星をモチーフにした開拓使のシンボルだったのですが、これをコーポレートマークとして商品に入れることになりました。それがいまでも、当社の「ヱビスビール」以外の商品に使われるようになった経緯です。
ーーのちに、その醸造所から会社組織になり、1890年には「恵比寿ビール」が発売されました。
武田 いまの恵比寿ガーデンプレイスがあるあたりに、ビール工場がありました。そこでつくられたのが「恵比寿ビール」です。昔の工場なので引き込み線を作り、貨車によってビールを出荷していたのですが、やがてそこが停車場になり、さらにそのまま商品名の「恵比寿」がそのまま街の名前になったというエピソードがあります。
ーーさらに日本初のビヤホールも開店されますが、当時のビールは庶民にとってどのような存在だったのでしょうか?
武田 「恵比寿ビール」が発売された1890年頃は、いまのお金に換算すると3千円くらいしていたそうです。結構な贅沢品ですから、一般の家庭で飲むというものではなかったと思います。やはり、特別な外食の場に飲むアルコールとして、ビヤホールなどで親しまれていた時代ですね。
「家庭でも飲める生ビール」はアメリカでもシェアNo.1!
ーーやがて、戦時中にビールが配給制となって商標が一時消えてしまいますが、戦後にサッポロブランドは「ニッポンビール」の名でスタート。やがて「サッポロ」の名を懐かしむニーズに応えて、1957年には「サッポロビール」が復活しました。
武田 ビールは製法上、「熱処理されたもの」「非熱処理のもの」と大別できるのですが、この時期の「サッポロビール」は熱処理のものでした。当時、生ビールは“夏の商品”というイメージがあり、ビール消費のメインはびんの熱処理がされたものでした。
武田 “従来の非熱処理のビールも良いけれど、飲食店で飲む生ビールを家でも飲んでいただきたい”という想いから、生ビールをそのまま瓶に詰めてご家庭でも飲んでいただくようにしたのが1977年発売の「サッポロびん生」……いまの「黒ラベル」となる商品でした。
ーー「サッポロびん生」発売以降、輸出も盛んにされるようになったと聞いています。1985年には、アメリカで「サッポロびん生」が日本製ビールのシェアNo.1にもなりましたね。
武田 日本製ビールのNo.1は、1985年が最初だったと思いますが、以降も30年連続でアメリカにおけるアジア系ビールNo.1を維持しています。アメリカにおける日本のビールはプレミアムビールになるのですが、その中ではいまだ一番飲まれているのが「サッポロ」なんです。
お客さんが名付けた「黒ラベル」にも危機が到来!?
ーー日本国内だけでなく、世界にも人気と影響力が飛び火した「サッポロびん生」ですが、1989年には商品名が「黒ラベル」になりますね。
武田 この頃までは「サッポロびん生」という商品名だったのですが、瓶のラベルには黒字にクリーム色の文字があり、星のマークやサッポロのロゴが入っていたことから、お客さまの間では「黒ラベル」の愛称で呼ばれていたんです。その愛称をそのまま商品名にしてしまったんです。だから、この名の名付け親は社長でも当時の担当者でもなく、お客さまだったんです。
ーーサッポロさんはホップの品種開発にも熱心に取り組まれています。かつて、チェコで起こったホップ危機を救った経験もあるそうですね?
武田 当時、チェコからホップを多く買っていたのが日本のビールメーカーだったんですが、1970年頃からチェコのホップの苗に病気が蔓延し、収穫量が低下しました。そんな中で日本のビールメーカーにSOSが来たんですね。当社はウイルスに感染していない苗を大量につくる技術を持っていたので、それを現地に導入し、危機を救ったという経験があります。
何度ものビールの転換期でもゆるがない人気
ーーいわばビールの革命を起こし、新しい道を切り開いた「黒ラベル」ですが、これだけのロングヒットとなると、苦労された時期もあったのではないかと思いますがいかがでしょう?
武田 ビール業界全体の歴史でいえば、80年代後半に他社さんからヒット商品が発売され、我々の「サッポロ生ビール黒ラベル」も含めて、大きな転換期を迎えました。また、90年代の終わりには発泡酒が出てきて、2000年代には第3のビールという新ジャンルも登場しました。つまり、長い時間の中でビールが多様化していったわけですが、そうなると、価格訴求をされたいお客さまは、どうしても離れていってしまう。しかし、「サッポロ生ビール黒ラベル」に関しては、いつも「いろいろあるけど、やっぱりビールが一番。なかでも黒ラベル」というお客さまが多かったわけです。そういったお客さまに支えていただき、今年で「サッポロびん生」誕生から40年を迎えることができました。
ーーすでに国民的支持を得ている「サッポロ生ビール黒ラベル」ですが、これから先、特に飲んで欲しいというターゲットはありますか?
武田 「大人に愛される生ビール」になって欲しいと考えています。これだけ様々なアルコールがあると、必ずしも、ビールがエントリードリンクになるとは限りません。しかし、ある程度大人としての経験値を得ると、やはりビールに帰られる方が多いように思うのです。そういう方にとって「黒ラベル」はきっと愛していただけるものだと思います。また、「黒ラベル」は様々な料理とも合わせていただきやすいとも思います。かつてビヤホールでしか飲めなかった生ビールを、家庭はもちろん色んな場面で飲んでいただけるようにした元々の立ち位置がありますので、これからも、様々な場面で「黒ラベル」を飲んでいただけるよう、努力していきたいと考えています。
今年で40周年を迎えた「サッポロ生ビール黒ラベル」。さすがに様々な変遷、知られざる事象がありました。これから先も「完璧な生ビール」を目指していくという「サッポロ生ビール黒ラベル」。今後もキャンペーンや最新情報などから目が離せませんね。
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