コロナ禍のもと、まだまだ不自由な暮らしが続いています。それでも我慢の日々に光が見えてきました。ワクチンの接種が始まったからです。私も接種票が郵送されるや、すぐにホームドクターに連絡をし、ワクチンを打っていただきました。こんなに早く接種できるとは思っていなかったので、驚くと同時に有り難いと思いました。ワクチンのおかげか、いまだコロナを発症することもなく毎日を送っています。
迅速に、新型コロナワクチンが開発されたわけ
ステイホームの毎日が始まったばかりのころ、私はワクチンを接種するためには、数年待たなければならないと覚悟していました。その間、ずっと家にとじこもっているのは可能だろうかと悩んでもいました。義母が骨折し、退院したばかりで、その後の通院に付き添いが必要でしたし、仕事もあり、家の中に閉じこもってばかりはいられません。かといって、出かけるにはそれ相応の覚悟が必要です。憂鬱だなと思っていたのに、まさか1年足らずでワクチン接種が開始されるとは、信じられないほどの素早さです。
周囲には、あまりに早い開発を不安に思い接種を躊躇する人がたくさんいました。なにせ誰にとっても初めての経験です。不安に思うのも当然でしょう。けれども、『世界を救うmRNAワクチンの開発者カタリン・カリコ』(増田ユリヤ・著/ポプラ社・刊)を読み、コロナワクチンを製作するために欠かせない技術・mRNA(メッセンジャーRNA)が40年も前から既に研究されていたことを知りました。
ご存じの通り、日本で使用されているワクチンは、主にファイザー社とモデルナ社の製品です。どちらもアメリカの製薬会社が製作したものですが、開発の基礎を築いたのは、一人の女性研究者だといいます。彼女の名は、カタリン・カリコ。ハンガリーに生まれ、素晴らしい先生に巡り会い、科学者になる決心をしたものの、難しい政治状況のもと様々な困難に見舞われ、故郷を離れることにします。研究に打ち込むためには、アメリカに渡るしかないと判断したのです。以後、ひたすら研究に打ち込んできました。
アメリカに渡ってからも、苦しい状況が続きます。周囲の理解を得られず研究費が出なかったり、信じていた人に裏切られたりと、悩みはつきません。それでも、博士はひたすらにmRNAの研究を続けました。誰にも顧みられなくても、研究をやめなかったのです。そして、この技術があったからこそ、信じられないほどの迅速さでコロナワクチンを完成させることができたのです。
『世界を救うmRANAワクチンの開発者カタリン・カリコ』の著者・増田ユリヤは、カリコ博士を知ったきっかけについてこう語っています。
私がカリコ氏を知るきっかけとなったのは、自身が出演している「大下容子ワイド!スクランブル」(テレビ朝日系列)で、ワクチンの解説をしたことでした。(中略)カリコ氏を扱った時間は、ほんの2〜3分でしたし、その時点では彼女の存在はあまり知られていませんでしたが、なぜか私は彼女のことが気になって仕方がなかったのです。
(『世界を救うmRANAワクチンの開発者カタリン・カリコ』より抜粋)
著者は自分の勘を信じて、カタリン・カリコの取材を始めました。コロナの影響があり、アメリカに取材にいくのは難しい状況でした。それでも、あきらめることなく、資料を読みこみ、カリコ博士ご本人や彼女をよく知る方々に、リモートによるインタビューを敢行しました。こうした努力が、博士の研究を理解し、彼女の劇的な人生を生き生きと描く『世界を救うmRANAワクチンの開発者カタリン・カリコ』を完成させたのでしょう。
ハンガリーで生まれて
カタリン・カリコ博士はハンガリーの精肉店の娘として生まれました。幼いころから、好奇心が強く、父親が豚を解体するときは、じっと様子を見ていたといいます。小学校に通うようになると、生物学に興味を持ちます。トート先生というカリスマ的な力を持つ師に巡り会い、適切な指導を受け、生物学のコンテストで優勝するなど、その才能を開花させます。さらに、『生命とストレス』という本を著者のハンス・セリエ博士自身から贈られたことが、彼女の将来に大きな影響を与えました。『生命とストレス』には、カリコ博士を導いた珠玉の言葉で満ちていました。
この本全体に貫かれているのが「誰かの頭で考え、誰かの目で見るのではなく、自分自身の頭と目で先入観なしに進んでいけ」ということだ。(中略)自らの目で見るという「簡単な観察」によってなされた経験であることを紹介している
(『世界を救うmRANAワクチンの開発者カタリン・カリコ』より抜粋)
カリコ博士は、セリエ博士はもちろん、他にもたくさんの良き師に出会い、素直に彼らの教えを吸収していきます。私はといえば、「あの人がこう言ってたから間違いないだろう」とか「この人が批判していたから辞めておこう」と、他人の意見になんとなく流されがちです。他人の意見に耳を傾けるのは大切ですが、あくまでも自分がどう思うか、どうしたいかを考え、進むべき道を決めていくべきでしょう。たとえ失敗に終わろうとも、人のせいにすることなく、自分で決めたのだからと納得し、次に進む道を進んでいけばいいのです。
カリコ博士はハンガリーのセゲド大学に進学し、順調にキャリアを伸ばしていきます。しかし、学問の世界にも政治的な影響は色濃くからんできます。第二次世界大戦以降、ハンガリーはソ連の影響を受け、大学も共産主義独裁政権による厳しい取り締まりを受けるようになっていたのです。1980年代に入ると、ハンガリーは深刻な経済危機に陥り、研究のための費用を捻出できなくなります。どんな困難にも耐えてきたカリコ博士ですが、研究を続けることができない環境には耐えられませんでした。
そこで、博士は思いきった行動に出ます。エンジニアの夫とまだ2歳の娘と共に、アメリカに移住する決心をするのです。そこで、彼女は自ら手紙を書き、研究員としてアメリカに渡りたいと訴え、ようやくアメリカのテンプル大学からのオファーを得ることができました。それでも、渡米するためにはまだ大きな問題を抱えていました。当時、個人が所持できる外貨はたった100ドルまでだったのです。アメリカで新生活を始めるには、とうてい足りません。そこで、車を売るなどして、なんとか1000ドルをかき集め、ビニール袋に入れて、お嬢さんのテディベアにしのばせ出国しました。まったくもって、肝っ玉母さんのような剛胆さではありませんか。
金メダリストの母として
今や世界にその名を知られるようになったカタリン・カリコ博士ですが、これまでは、mRNAの研究者としてではなく、金メダリストの母としての方が名前が通っていたといいます。ひとり娘であるスーザンがボート(エイト)の選手として活躍し、2008年の北京オリンピックと2012年のロンドンオリンピック、2回連続で金メダルを勝ち取ったからです。
カリコ博士は研究一筋に生きてきた人ですが、娘の快挙を喜ぶ一人の母親でもありました。
「mRNAの研究ではなく、オリンピアンの母としての方が有名だったわ」と、カリコ氏は笑いながら語る
(『世界を救うmRNAワクチンの開発者カタリン・カリコ』より抜粋)
女性が仕事に打ち込むと、どうしても、子育てや家事などに悩みを抱えるものでしょう。けれども、カリコ博士の場合、夫の深い愛情と理解に支えられ、見事に家庭を守り抜いたのです。さらに、娘が背中を痛めたときは、「自分の身体の声に耳を傾けなさい。身体を壊してまでやらなくてもいいんだよ」と、声をかけたといいます。実験に邁進する研究者としての厳しい顔を持ちながら、娘の身体をただ心配する母親としての顔も持つことに、素直に感動しないではいられません。
『世界を救うmRNAワクチンの開発者カタリン・カリコ』は、人生を丹念に生きていくことの大切さを教えてくれる本となりました。
【書籍紹介】
世界を救うmRNAワクチンの開発者カタリン・カリコ
著者:増田ユリヤ
発行:ポプラ社
新型コロナワクチン(mRNAワクチン)を開発し、世界を救った女性研究者カタリン・カリコ氏に迫る唯一の本。カリコ氏と親交のある、山中伸弥教授のインタビューも掲載! なぜ、驚異的なスピードでワクチンは生み出されたのかーー。