私がはじめて吉本ばななさんの本を手にしたのは1988年に刊行された『キッチン』だった。大学生の主人公は早くに両親と祖父を亡くし、祖母と二人暮らしをしていたが、その祖母までもが亡くなってしまい天涯孤独となり、そこからゆっくりと立ち直っていくストーリー。この本を読んだ2年後に、私は実母を亡くしたのだが、そのときのさまざまな心境は『キッチン』のままで、あらためて吉本ばななさんという作家はすごいなあと思ったものだ。
それから30年以上が経ち、大切な人の死を扱った彼女の最高傑作と思える本に再び出会うことができた。『ミトンとふびん』(吉本ばなな・著/新潮社・刊)だ。
人は癒えることのない喪失を抱えて生きていく
吉本さんは長い間、こういう小説を書きたかったという。あとがきから少し引用してみよう。
いつかどこかで誰かの心を癒す。しかし読んだ人は癒されたことにさえあまり気づかない。あれ? 読んだら少しだけ心が静かになった。生きやすくなった。息がしやすい。あの小説のせいかな? まさかね。そんな感じがいい。そのほうが長いスパンでその人を救える。(中略)よりさりげなく、より軽く。しかしよりたくさんの涙と血を流して。この本を出せたから、もう悔いはない。引退しても大丈夫だ。
(『ミトンとふびん』から引用)
吉本さんの30年間の経験を込め、時間をかけてやっとできたというこの本は、最近大切な人を亡くした人、あるいは、余命いくばくもない家族を世話する人に特におすすめしたい。きっと救われると思う。6つの話が収録されているので、タイトルを紹介しておこう。
夢の中
SINSIN AND THE MOUSE
ミトンとふびん
カロンテ
珊瑚のリング
情け嶋
最愛の母を亡くすということ
6つの短編の中で、いちばん泣けて、また癒されたのが「SIN SIN AND THE MOUSE」だった。主人公は母親を亡くした30歳のちづみという女性。かつて私自身が経験したことであり、辛かった日々が時間の経過によって癒されていったことを思い出させてくれたのだ。
母は長患いしていたので、彼女を失うことに関して気持ちを整える時間は充分にあったはずだった。それでもずっと続いていたはりつめた気持ちでの看病が(入院しているときはお見舞いが)急に失くなったことでぽっかりと穴があいたようになり、母と合えない毎日が思いのほか重く悲しくて、三ヶ月もの間、ほとんど誰とも会わず、なにもできなかった。悪い夢の中にいるようにただ暗い気持ちの中で毎日が過ぎていくだけだった。
(『ミトンとふびん』から引用)
そんなとき、仕事と新婚旅行を兼ねて台湾に行くから、気晴らしに来ないか?と友人に誘われる。旅に出れば環境が変わり、ほっとするかもしれないと思い、同行することにしたものの、その考えは甘かった。どこを歩いていても母親と二人で過ごした日々を思い出し、目に涙が浮かんでくるのだ。
友人はちづみにひとりの男性を紹介してくれた。母親が台湾人、父親が日本人というシンシンだ。
シンシンは女優である母が不在がちで、寂しい幼少期を過ごしており、唯一の慰めは絵本だった。家の壁の向こうには、同じ家族構成のねずみの一家が暮らしているというお話が、彼の淋しさをやわらげていたのだ。ちづみはとても小柄な女性なので、シンシンは「君はほんとうに小さいねずみみたいな生き物だね。」と言うのだが、そこには小さな愛情が込められていた。タイトルのSIN SINはシンシン、THE MOUSEはねずみでちづみのこと。最愛の人を失ったが、もしかしたら、新しく現れた人が次の最愛の人になってくれるかも? そんな素敵な物語なのだ。
ヘルシンキへ新婚旅行にでかけた”ふびんな二人”
表題になっている「ミトンとふびん」も大切な人を亡くした者同士が出会い、結婚し、そして新婚旅行でヘルシンキに向かう話だ。主人公の”私”の母親は、結婚に反対したまま、急な脳梗塞で亡くなった。”私”は十代で大病をし、子宮を失くしていたこと、そして相手の男性が別の誰かを見つめているように感じたことが反対の理由だった。
男性は”外山くん”といい、弟をいじめが原因で亡くしており、母親もわが子の死で精神を病んでいて、やはり結婚に反対のまま亡くなってしまう。
”私”は亡くなった外山くんの弟と瓜二つの顔をしていた。母親が言った別の誰かとは、その弟の影だったのだ。それでも孤独なふたりは結婚し、ヘルシンキへやって来た。
「ああ、私、手袋忘れてきた、最低気温マイナス十六度だっていうのに!」飛行機からヘルシンキの空港を出たとたん、身が引き締まるような空気の冷たさを感じて、私が最初につぶやいたのはその言葉だった。(中略)外山くんが私にお店の紙袋をそのまま渡したので、ぽかんとして受け取った。中にはとても無骨な、黒革の中にもこもこの羊の毛が入っているミトンが入っていた。男物なんじゃないか? と思うくらいごつい。でも、嬉しかった。「ありがとう! 一生使うよ。」私が言い、「一生は使わなくていいよ。」と外山くんが照れた。
(『ミトンとふびん』から引用)
また、訪れたレストランでは、クロークのおじさんと常連客の老夫婦に、「とてもいいご夫婦」と言われ、さらに「あなたの親だったら、誇らしく思うでしょう」という言葉まで贈られる。もしかしたら、母親たちが言いたくとも二度と言えなくなってしまったことを、ヘルシンキの人たちが代わりにちゃんと言葉にしてくれたのかもしれないと”私”は思い、涙を流す。
この上ないふびんさを自明のこととして持つ人類と、その輝かしい幸せを乗せて、いつでもどこでも地球は回っているんだな。
(『ミトンとふびん』から引用)
どんなに悲しい出来事があっても、人生には喜びがあることを教えてくれるストーリーなのだ。
この他の4作も、さすが吉本ばなな!という物語。読んでいると泣けるけれど、同時に心があたたまってくる1冊は、女性男性を問わず、すべての人におすすめしたい。
【書籍紹介】
ミトンとふびん
著者:吉本ばなな
発行:新潮社
愛は戦いじゃないよ。愛は奪うものでもない。そこにあるものだよ。たいせつなひとの死、癒えることのない喪失を抱えて、生きていくーー。凍てつくヘルシンキの街で、歴史の重みをたたえた石畳のローマで、南国の緑濃く甘い風吹く台北で。今日もこうしてまわりつづける地球の上でめぐりゆく出会いと、ちいさな光に照らされた人生のよろこびにあたたかく包まれる全6編からなる短篇集。