写経などでよく使われている「般若心経」。仏教の中でもメジャーなお経として知っている人も多いでしょう。でも、そこに込められた意味を知っていますか? そう聞かれて、答えられる人はわずかかもしれません。そんな般若心経を、身近な「音楽」で表現した僧侶がいます。愛媛県今治市にある臨済宗・海禅寺の副住職、薬師寺寛邦さんです。
2回ほど薬師寺さんのコンサートに足を運んだことがあるというブックセラピストの元木忍さん。初めて聞いた時には「こんなに心地いい音楽があったのか!」と驚いたといいます。今回は、そんな薬師寺さんにお話をうかがうべく、著書『般若心経、私は歌う』を持って京都のカフェ「きっさこ和束(わづか)」を訪れました。歌うようになったきっかけや、これから挑戦したいことについてうかがっていきます。
ミュージシャン? 僧侶? 般若心経を歌うまでの経緯とは
元木忍さん(以下、元木):4〜5年前に薬師寺さんのコンサートで、「般若心経」の音楽を初めて耳にした時、本当に衝撃的でした。これはもう、お経、宗教とかの概念を飛び越えて、音楽として「聴いているのが気持ちいい!」って、素直に感じました。そんな「般若心経」の音楽を、なぜ作るにいたったのか、まずは、今回の書籍を発売するまでの経緯を教えていただけますか?
薬師寺寛邦さん(以下、薬師寺):般若心経の音楽は、2015年頃から作り始めていました。2016年頃には人前でパフォーマンスするようになって、YouTubeにアップしたのもこの頃です。ちょうどこれまでの活動を振り返っていたタイミングに、出版社から「これまでの活動を文章で残しませんか?」とご提案いただきました。ありがたい機会をいただけたと思います。
元木:薬師寺さんの職業はお坊さんですか? それともミュージシャン?
薬師寺:よく「二足の草鞋を履いている」って表現されることもあるんですが、職業は僧侶です。音楽は僧侶の活動を伝える手段であって、それぞれの活動をわけていません。音楽とは徐々に融合していったというか、今のスタイルにたどり着いたって表現が合っているかもしれませんね。
元木:薬師寺さんは、メジャーデビューを果たし、プロのミュージシャンとして活動していた時期もありますよね?
薬師寺:はい、学生時代から大好きだった音楽を大学卒業後も続け、2003年には京都を拠点としたボーカルグループ「キッサコ」として活動を開始し、上京後、28歳でメジャーデビューも果たしました。30歳からはインディーズに戻ることになったのですが、この頃から「禅について知りたい」「いつか仏門修行の道へ進みたい」と考えるように。2011年32歳で修行の道に入り、僧侶になりました。
元木:お寺の子として生まれ育った薬師寺さんは、紆余曲折を経て家業を継ぐことを選んだわけですが、著書『般若心経、私は歌う』には、幼い頃の葛藤も綴られていますね。
“自分にも好きなこと、やりたいことがあるのに、世の中にはいろいろな生き方や職業があるのに、なぜ自分の道は「僧侶」に決まっているのか?
なぜ、将来の職業を自分で決められないのか?
なぜなのかわからないが腑に落ちない。自分はこのまま、中学・高校を卒業した宗門の大学に入って、自動的にお寺の住職になるのだろうか?”
-『般若心経、私は歌う』より引用-
薬師寺:お寺に生まれた人は、おそらく多くの方が、この葛藤にぶつかります。でも振り返ってみると、葛藤があったからこそ今の自分があるとも言えますね。長い間、自問自答してきましたが、それはすべて自分にとって必要な時間でした。
元木:これを読んでいる方の中にも当時の薬師寺さんと同じように、理想と現実の中で、悩み苦しんでいる人もいると思います。乗り越えた薬師寺さんだから伝えられることってありませんか?
薬師寺:自分の経験したことしか語れませんが、悩んでいる時って、結局その原因を突き詰めることでしか、前に進めないんですよね。その原因から逃げて、ダラダラ過ごしている時が一番ツラい。私の場合、東京で音楽活動している時、大好きだったはずの音楽が作れなくなったんです。その理由は、お寺を継ぐことから逃げるために始めた音楽だったからでした。音楽で伝えたい思いが希薄だったのです。大好きだから選んだのではなく、運命から逃げるために選んだ。それを認めることは、本当にしんどい作業でしたが、そうすることで、あらためて「音楽」や「自分」と再び向き合えるようになりました。やはり、何事も自分から逃げずに、向き合うことが大切ですね。
元木:向き合ったからこそ見つけられたと。その過程を経て、般若心経を歌うようになるって不思議な巡り合わせですね。
薬師寺:私にとって般若心経は、幼い頃から身近にあったお経です。さまざまなことを経験し、再び般若心経を唱えてみると、直接心に訴えかけてくるものを感じました。私は禅宗のお経しか詳しく知りませんが、般若心経と他のお経では、明確な違いがあったんです。他のお経は、例えば病気が治るとか、災いが消えるとかの“ご利益”を与えてくれているのに対して、般若心経は、生き方そのものに問いかけていると言いますか……。また修行期間中に毎日一緒だった音楽と離れてみて、「やっぱり音楽が好きだな」と素直に思えるようになりました。だからこそ、般若心経を歌うことにも、自然とたどり着けたのだと思います。
般若心経を現代で解釈すると?
元木:『般若心経、私は歌う』では、薬師寺さんが訳された般若心経が載っています。あらためて、般若心経について教えていただけますか?
薬師寺:般若心経は、一言でいうなら「心のお経」。観音様が舎利子(しゃりし)という釈迦の高弟に、「“空(くう)”という世界を信じれば、悩みも苦しみなくなり、幸せになれるんだよ」と伝える様子が描かれてあるお経です。般若心経には、さまざまな訳や解釈ありますし、どれも素晴らしいものなので、これが正解というものはありません。私は、般若心経を「今の時代にもわかりやすく伝える」ことを意識して訳させてもらいました。
元木:「空」という世界についても、詳しく教えていただけますか?
薬師寺:「空」とは、すべて存在しない世界のこと。でも目の前になにも「ない」世界を想像するのは難しいですよね。今生きているこの世界では、目の前にいろんなものが「ある」ので。だからこそ、一旦リセットして、つながっているものを見直してみませんか? と伝えたいのだと解釈しています。お経を唱えることで「空」を思い浮かべ、今の自分の気持ちを再構築していくイメージです。
元木:本の中では般若心経がジョン・レノンの『イマジン』とも通じるとも書かれてあり、驚きました。どのあたりが通じている部分なのでしょうか?
薬師寺:聞き手に問いかけている部分が同じ構成なんですよね。般若心経では、師匠である観音様が舎利子に「この世には空という世界があって、それを信じてみないか?」と問いかけています。『イマジン』も、「想像してごらん」と訳されているように、まるでリスナーに問いかけ、囁くような歌詞が展開されていきます。また、般若心経では「無」、『イマジン』では「No」がたくさん出てきますが、いずれもポジティブな文脈で使われているんですよね。
元木:つまり、ジョン・レノンは般若心経の意味を知った上で、『イマジン』を作っていたのでしょうか?
薬師寺:私はそう思っています。執筆にあたって、ジョン・レノンさんのことも勉強させてもらったのですが、通じる部分はたくさんありましたよ。
ただ「坐禅」するだけの時間、「空」の世界を感じてみる
元木:また本の中では、瞑想や坐禅についても書かれてありました。薬師寺さんご自身は、普段、瞑想することはありますか?
薬師寺:修行期間ほどの瞑想はできませんが、音楽を作っている時はひたすらお経を読みつづけているので、レコーディングルームにこもっている時間が、私にとっての瞑想の時間かもしれませんね。日常生活の中で気分転換したいなら、「椅子坐禅」がおすすめですよ。椅子さえあればできちゃうので。
薬師寺:「椅子坐禅」なら座を組めない人でもできます。ちなみに瞑想は、宗教よりも以前からあるものなんですよ。最近だと「マインドフルネス」でも注目されていますが、宗教が取り入れただけなので、概念に縛られず、自由に感じてもらいたいですね。
元木:そうだったんですね! 薬師寺さんのこれからの活動についても伺いたいのですが、コンサートなど再開していく予定はありますか?
薬師寺:来年以降、コロナ禍で延期になっていた国内外でのコンサートを本格的に再開できたらいいなとは考えています。まだ行ったことのない国で般若心経を歌い、反応を見てみたいですね。
元木:今は「般若心経」を歌われていますが、別の宗派のお経も歌にするなんてことも考えていませんか?(笑)
薬師寺:私が臨済宗なので、まずは自分の宗派のお経から形にしていくところからですかね。他のお経はその後に(笑)。YouTubeには、世界中の人々から宗派問わずコメントをいただくんです。チャンネル登録者は現在26万人ほどいるのですが、その4割が外国人の方なんです。コロナ禍で急激に増えました。始めたばかりの頃は、「斬新!」とか「現代の琵琶法師!」なんて珍しいと見ていただく方が多かったのですが、コロナ禍以降「癒された」とか「毎日寝る時に聞いています」と日常の中で聞いてくれる人が増えてきたんです。時代と共に求められていることも変化しているので、キャッチボールをしながら、求められているものを出していきたいと思います。
元木:コロナで人の感性や感情が変化したことも影響しているかもしれませんね。
薬師寺:生活のスタイルも大きく変わりましたからね。本書では「ネット苦」についても書きましたが、膨大な情報の中から選ぶことにストレスを感じる人が増えたように感じます。昔は、周りの人たちから「これがいいよ」とか、テレビや雑誌で「これが流行っている」とかある程度の指針がありましたよね? でも今はたくさんある情報の中から自分で選ばなければいけない。そうなると、やりたいことがわからない、そんな人も増えてしまったのだと思います。
元木:たしかに……。たくさんの情報がある時代だからこそ、般若心経の「空」を意識することが大事なのかもしれませんよね。私も自分のペースで、般若心経を聞いたり、歌ったりしてみようと思います! 本日はありがとうございました。
【プロフィール】
臨済宗僧侶・アーティスト / 薬師寺寛邦
愛媛県今治市出身。愛媛県今治市にある臨済宗・海禅寺の副住職。禅僧であり音楽家として活動しており、これまでにアルバム5枚、シングル15枚以上をリリースしている。般若心経にメロディをつけて歌った『般若心経 cho ver.』はYouTubeで350万回以上再生され、YouTubeなど動画サイトの累計再生数は8000万回以上を誇る。日本だけでなくアジアや欧米諸国にもファンが多く、宗教の垣根を超えてたくさんの人を癒す音楽として支持されている。
YouTube動画「般若心経 (cho ver.) at 京都・天龍寺【MV】」(薬師寺寛邦 キッサコ)