おもしろローカル線の旅106〜〜JR西日本・小野田線(山口県)〜〜
かつて小野田セメントという会社があった。誰もが良く知る大企業だったが、会社名の元になった小野田は果たして何県にあるのか、知る人は少なかったのでなかろうか。
小野田は山口県の山陽小野田市の合併前の市の名前で、この街と宇部市を走るのが小野田線だ。セメント製造と石炭の採掘で栄えた街は、産業構造の変化の影響を受けて。やや寂しくなってはいるが、小野田線は昭和の趣が色濃く残り鉄道好きにぜひおすすめしたい路線だった。
*2013(平成25)年9月14日〜2023(令和5)年1月20日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。
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【小野田線の旅①】セメントと石炭の輸送のため設けられた路線
小野田線は2本の路線区間によって構成される。居能駅(いのうえき)と小野田駅を結ぶのが小野田線(本線)で、途中の雀田駅(すずめだえき)と長門本山駅(ながともとやまえき)を結ぶのが小野田線(本山支線)となる。2本の路線の概要を見ていこう。
路線と距離 | JR西日本・小野田線(本線):居能駅〜小野田駅間11.6km 、小野田線(本山支線):雀田駅〜長門本山駅間2.3km、全線電化単線 |
開業 | 小野田軽便鉄道(後の小野田鉄道)が1915(大正4)年11月25日にセメント町駅(現・南小野田駅)〜小野田駅間を開業。 宇部電気鉄道が1929(昭和4)年5月16日に居能駅〜雀田駅間を開業、1937(昭和12)年1月21日に雀田駅〜長門本山駅が開業。 1947(昭和22)年10月1日、雀田駅〜小野田港駅(当時は南小野田駅)間が延伸され小野田線が全通 |
駅数 | 11駅(起点駅を含む) |
小野田線の歴史は複雑だ。ここでは大まかな路線の成り立ちに触れておこう。まず、小野田駅側から小野田軽便鉄道が路線を造り、居能駅側からは宇部電気鉄道(後に宇部鉄道と合併)が路線を延ばした。それぞれセメントの材料や、石炭を運ぶ貨物輸送が盛んだったこともあり、軍需産業強化を図る国が戦時下に国有化し、戦後に一部区間が延長され現在の小野田線となった。さらに、1987(昭和62)年には国鉄分割民営化に伴いJR西日本の路線となっている。
JR西日本が発表した「経営状況に関する情報開示」によると、2021(令和3)年度の輸送密度は1日あたり346人、2019(平成31・令和1)〜2021(令和3)年度の輸送密度は8.5%とかなり厳しい。路線を廃止することなく活かせないかと、地元では接続する宇部線を含めてBRT(バス・ラピッド・トランジット)化構想を掲げるなどしているものの、廃止か存続か結論が出ていない。
【小野田線の旅②】今も主力は1両で走る希少なクモハ123形
次に小野田線を走る車両を見ていこう。2形式が走るが、いずれも国鉄形と呼ばれる車両だ。
◇クモハ123形
小野田線を走る列車の大半が、クモハ123形1両で運行されている。クモハ123形は国鉄が手荷物・郵便輸送用に造った荷物電車を、1986(昭和61)年〜1988(昭和63)年にかけて改造した電車だ。荷物電車だった時代も含めると40年以上の長い車歴を持つ。JR東日本、JR東海に引き継がれた車両はすでに全車が廃車され、残るのはJR西日本に引き継がれた5両のみとなる。そんな希少な電車が今も小野田線と宇部線、山陽本線の一部を走っている。
クモハ123形は左右非対称で、側面窓の形状など車両ごとに異なり鉄道ファンには興味深い車両でもある。
◇105系
国鉄が1981(昭和56)年に導入した直流通勤形電車で、国鉄分割民営化後はJR東日本とJR西日本に引き継がれた。すでにJR東日本の105系は消滅し、JR西日本のみに残っている。JR西日本の105系も近年は急速に車両数を減らし、福塩線(ふくえんせん)と山陽本線の一部区間、宇部線、小野田線のみでの運行が続けられている。なお、小野田線での105系の運行は朝の1往復のみと限定されている。
【小野田線の旅③】山陽本線の小野田駅3番線ホームから発車
小野田線の起点は居能駅だが、山陽本線の小野田駅で乗換えて乗車する人が多いので、本稿でも小野田駅から話を始めたい。
山陽本線との乗換駅となる小野田駅は駅舎、跨線橋、ホームなどすべてがかなりレトロな造りだ。平屋の駅舎は1951(昭和26)年に改築されたもので、改札口にはかつて駅員が立った旧型のステンレス製のボックスが残されていた。そんな昭和の時代を感じさせた改札口だが、1月に訪れるとICカード対応の改札機の工事が始まるとの掲示が張り出されていた。この春からは小野田駅でも交通系ICカードの利用ができるようになる。
山陽小野田市の表玄関にあたる小野田駅だが、通勤・通学客は多く見られたものの、かつての賑わいは薄れているように感じた。
山陽小野田市の人口は1955(昭和30)年の国勢調査で8万2784人とピークを迎えたが、昨年12月末現在で6万209人に減少している。市の看板企業でもあった小野田セメントは太平洋セメントと名を変え、市内にあったセメント工場も1985(昭和60)年に閉鎖された。小野田線の南小野田駅の東側には「セメント町」という町名が残っており、その名がかつての繁栄ぶりを示す証しとなっている。
セメントとともに街を潤したのが石炭採掘だった。小野田線・長門本山駅の近くにあった本山炭鉱では、江戸後期に石炭が発見され明治期に採掘が本格化。1963(昭和38)年まで採掘が続けられた。本山炭坑を含む旧・小野田市・宇部市に点在した炭鉱群はみな海底炭田で、出水事故などトラブルが目立った。石炭といえば燃料としての使用が思い浮かぶが、出炭した石炭の品質が劣っていたこともあり、多くがセメント製造の燃料や化学肥料の原材料として利用された。
いずれにしてもセメント産業や炭田で地域は栄え、鉄道も両産業の影響もあり延ばされていった。セメント工場は現在、石油基地などに変貌し、マンパワーを必要としない産業構造の変化が、人口減少の一つの要因になっているようだ。
小野田駅には1番線と2番線はなく、3番線が小野田線専用、4番・6番線が山陽本線のホームとなっている。小野田駅の長いホームにやや無骨な形のクモハ123形が1両ぽつんと停車する様子は何ともユーモラスで旅心をくすぐる。
【小野田線の旅④】駅および用地、電車がみな小さめに感じる
小野田駅発着の列車は1日に9往復。小野田駅発の列車の大半が宇部線・宇部新川駅行きで、朝の1本の列車のみが宇部線の新山口駅まで走っている。列車本数は朝夕が1時間に1本の割合だが、昼前後10時16分発、13時54分発、16時14分発と時間が空くので利用の際は注意したい。
沿線は、1両および2両編成の電車にあわせたコンパクトな造りの駅や用地、レールの敷設のされ方が目立つ。小野田駅の次の目出駅(めでえき)はその典型だ。急カーブの途中に短いホームが設けられ、駅舎も小さくかわいらしい。
小野田線は切符の自動販売機のない駅が大半だが、かつて切符販売が行われていたころには「目出たい」駅ということで多くの入場券が売れたそうだ。
次の南中川駅も駅はコンパクトそのもの。その次の南小野田駅もホーム一つの駅だ。南小野田駅は小野田軽便鉄道が開業させた駅。小野田セメントの工場に近かったこともあり当初、駅名は「セメント町駅」と名付けられた。後に小野田港駅、小野田港北口となり、そして現在、南小野田駅と名を改めている。駅周辺には商店や民家が集い小野田線で最も賑わいが感じられる。
次の小野田港駅は1947(昭和22)年10月1日に生まれた駅で、西側の小野田港に面して大規模な工場が集まる。小野田線の駅では大きめの駅で、待合室に円柱が立つなどお洒落な駅だった。しかし、残念ながら2021(令和3)年に老朽化のため閉鎖され、現在は旧駅舎の横からホームに入る造りとなっている。
【小野田線の旅⑤】本山支線の起点は三角ホームの雀田駅
小野田港駅の次、雀田駅は本山支線の起点駅だ。雀田駅はホームに何番線といった数字がなく、南側ホームが小野田線(本山支線)の長門本山駅方面、北側ホームが小野田線(本線)の小野田駅・居能駅方面行きに使われている。
ホームは三角形の形をしていて、不思議なのが小野田線(本線)の側の電車がカーブ途中にあるホームに停まることだ。一方、本山支線用のホームは居能駅側から延びる直線路の上にある。
これは本山支線が先に開業し、雀田駅から先は戦後に設けられた〝後付け区間〟だったため、こうした不思議な形になってしまったようである。
【小野田線の旅⑥】1日に3本という本数少なめの本山支線
本山支線を走る列車本数は極端に少ない。朝7時台に2往復、夜18時台に1往復、計3往復しか走らない。
本数が少なく朝早いため、旅人がこの本山支線の朝の列車に乗車するためには、山口県内に宿泊しないと難しい。筆者も山口県内に宿泊し、小野田駅発の始発電車で雀田駅へ着いた。そして始発の6時58分に乗車した。
訪れたのは土曜日だったせいか、始発列車の乗客は筆者を含めて3人あまり。1人は地元の人、もう1人は鉄道ファンのようだった。雀田駅から発車して唯一の途中駅・浜河内駅(はまごうちえき)で1人が下車し、終点の長門本山駅に降り立ったのは2人のみだった。
【小野田線の旅⑦】寂しさが感じられた終着の長門本山駅
到着した長門本山駅はホーム一つに屋根付き待合スペースがある小さな駅だった。朝2本目の列車の乗降客を見ても旅行者が多く、地元の人たちがどのぐらい利用しているのか推測しづらかった。
長門本山駅のホームから外に出ると、駅前には広場(空き地といった趣)があって小さな花壇が設けられている。駅前に商店はなく、周囲に民家がちらほらあるぐらいだった。
駅の南には1963(昭和38)年まで本山炭鉱があり、今は閉鎖された斜坑坑口が残されている。駅の車止めの先に、かつて引込線が延びていて採炭された石炭が大量に運ばれていたのだろうか。今は海岸沿いにソーラー発電所が広がっているが、この一体が貨車を停める引込線の跡だと思われる。曇天の朝に訪れたこともあり、寂しさが感じられた。
長門本山駅のすぐ目の前には路線バスの停留所があり、その時刻表を見るとほぼ1時間おきに小野田駅方面へのバスが出ていた。バス便の多さ見てしまうと、鉄道を利用しない理由が少し理解できた。
【小野田線の旅⑧】妻崎駅では駅舎の軒先をかすめるように走る
長門本山駅から雀田駅へ折り返し、次に小野田線の起点となる居能駅を目指した。
長門本山駅を発車する列車のうち朝夜の2本はそのまま居能駅、宇部新川駅を目指すので便利だ。小野田線にはホーム一つのシンプルな駅が多いが、雀田駅から2つ目の妻崎駅(つまざきえき)には上り下り交換施設がある。
ホームから駅舎へ線路を渡る構内踏切がある地方の典型的な駅の趣で、駅舎のすぐ横を電車が走っていることも気になった。駅や電車がコンパクトにまとまり、鉄道模型のジオラマのように感じられる。
【小野田線の旅⑨】厚東川の河口側に見える大きな橋は?
妻崎駅を発車した列車は間もなく厚東川(ことうがわ)を渡る。山口県の名勝、秋吉台(あきよしだい)を流れる川で、二級河川ながら川幅が広い。河口部には河原がなく、滔々と流れる様子が車内からよく見える。
上記の写真は上流に架かる橋から小野田線の列車を写したものだ。手前に国道190号、後ろに宇部湾岸道路が並行して架かる。さらに奥に立派なトラス橋が見えているが、こちらは宇部伊佐専用道路(旧・宇部興産専用道路)の興産大橋だ。この専用道路は1982(昭和57)年に造られた31.94kmにおよぶ企業の私道で、美祢市と宇部市を結んでいる。運ぶのは石灰石とセメントの半製品で、専用の大型トレーラー(ダブルストレーラーと呼ぶ)が輸送に使われている。
この専用道路ができるまでは、美祢線の美祢駅と宇部線・宇部新川駅近くの宇部港駅(後述)間を貨物列車が走り、1978(昭和53)年度には770万トンの輸送量があったとされる。専用道路完成後には鉄道貨物輸送が激減し、1998(平成10)年に宇部港駅を利用しての貨物輸送は消滅した。
【小野田線の旅⑩】起点・居能駅には始発終着する列車がない
興産大橋を進行方向右手に眺め、厚東川を渡った小野田線の電車は、間もなく左手から走ってきた宇部線と合流して居能駅へ到着した。
小野田線の起点は居能駅となっているが、あくまで起点駅というだけで、列車の運転は宇部新川駅を始発終着としている。居能駅で宇部駅方面へ乗り換える客がいるものの、駅で下車する人は見かけなかった。
ちなみに、宇部市の市街地は宇部新川駅周辺で、山陽本線の宇部駅に代わり、かつて宇部新川駅が宇部駅を名乗っていた時期があったほど栄えていた。シティホテルも宇部新川駅近くに多く設けられている。
宇部新川駅の詳細は宇部線の紹介をするとき(2月25日ごろ公開予定)に詳しく紹介するとして、ここでは小野田線の起点、居能駅を紹介しよう。ホームは小野田駅と同じく1・2番線がなく、跨線橋で連絡する3番線が宇部駅・小野田線方面、駅舎側のホームが4番線で宇部新川駅、新山口駅方面の列車が発車する。
列車が発車した後、人気(ひとけ)が絶えた居能駅前に立ってみた。駅舎の建築・改築年の詳しい資料がないが、今建っている駅舎は1938(昭和13)年11月6日に移転した時に建てられたままのようだ。レトロといえば聞こえはいいが、何とも説明しにくい状態の駅だった。
駅の北にある玉川踏切へ行ってみると駅の裏手が望め、複数の線路やポイントが残されていた。この駅からはかつて近くの工場や、宇部市の港湾部、旧宇部港駅などへの貨物線が分岐していた。居能駅は現在、寂しい姿となっているものの、線路が何本も敷かれ、そこを頻繁に貨物列車が通り過ぎた華やかな時代もあったのである。
【小野田線の旅⑪】かつて路線が延びていた沿岸部を訪れる
小野田線の創始期に路線を敷設した宇部電気鉄道は居能駅の先、宇部市の港湾部に向けて路線を延伸させていた(掲載地図を参照)。沖ノ山旧鉱(後の宇部港駅の近くにあった)、さらに港へ線路が延び、沖ノ山新鉱という駅まで線路が延びていた。旧鉱、新鉱と名が付けられたように、海岸部には沖ノ山炭鉱との坑口が設けられ、多くの炭鉱住宅が建ち並んでいた。
居能駅から港湾部まで走った路線(古くは宇部西線と呼ばれた)の先にあった宇部港駅は1999(平成11)年に貨物列車の運行が廃止となり、駅自体も2006(平成18)年5月1日に廃止となった。
宇部伊佐専用道路の開設により石灰石輸送貨物列車が廃止され、他の工場への貨物列車の輸送も消滅。時代が進み、産業構造そのものが変わっていくことは、街の姿や鉄道、輸送体系も変えてしまうことを痛感した。最後に沖ノ山新鉱駅があった付近を訪れたが、一抹の寂しさを感じた旅となった。