乗り物
鉄道
2023/1/21 21:00

「しなの鉄道線」115系との出会い&歴史探訪の旅〈前編〉

おもしろローカル線の旅103〜〜しなの鉄道・しなの鉄道線(長野県)〜〜

 

北陸新幹線の開業にあわせ、並行する信越本線は第三セクター鉄道の「しなの鉄道」に変わった。長野県の東信地方、軽井沢駅と篠ノ井駅(しののいえき)を結ぶしなの鉄道線は、中山道(なかせんどう)と北国街道沿いに敷かれた路線だけに残る史跡も多い。

 

のんびり散策してみると、史跡以外にも発見が尽きない路線でもある。そんなしなの鉄道線の旅を2回に分けて楽しんでいきたい。

 

*2015(平成27)年1月10日〜2023(令和5)年1月2日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。写真・絵葉書は筆者撮影および所蔵、禁無断転載

 

【関連記事】
乗って歩けば魅力がいっぱい!「上田電鉄別所線」で見つけた11の発見

 

【信濃路の旅①】開業から135年間!東信地方を支える

しなの鉄道の路線は軽井沢駅〜篠ノ井駅を結ぶ「しなの鉄道線」と、長野駅〜妙高高原駅を結ぶ「北しなの線」の2本がある。今回は「しなの鉄道線」を紹介したい。まずは概要を見ておこう。

↑浅間山を見上げるようにして走るしなの鉄道線。軽井沢駅〜御代田駅(みよたえき)間の車窓の楽しみともなっている

 

路線と距離しなの鉄道・しなの鉄道線:軽井沢駅〜篠ノ井駅間65.1km 全線電化複線
開業鉄道局の官設路線として1888(明治21)年8月15日、上田駅〜篠ノ井駅間が開業、同年12月1日、軽井沢駅〜上田駅間が延伸開業し、現在のしなの鉄道線が全通
駅数19駅(起終点駅を含む)

 

前身となる信越本線は、明治政府の威信をかけて建設した関東と信越地方を結ぶ幹線ルートで、軽井沢駅〜篠ノ井駅の区間(開業当時は長野駅まで開通)は路線開業から今年で135年を迎える。

 

同区間は北陸新幹線(当時は長野新幹線)が開業した1997(平成9)年10月1日に、第三セクター経営のしなの鉄道に移管された。

 

現在、しなの鉄道線にほぼ沿うように北陸新幹線が走っており、軽井沢駅、上田駅で乗換えできる。しなの鉄道線の路線は篠ノ井駅までだが、ほとんどの列車(区間運転列車を除く)が篠ノ井駅の先の長野駅まで乗入れ、長野県内、特に東信地方に住む人々の大切な足として活用されている。

 

【信濃路の旅②】横川〜軽井沢間の輸送の歴史と現状は?

群馬県と長野県の県境部分にあたる信越本線の横川駅〜軽井沢駅間は、長野新幹線開業時に廃線となっている。この区間は、しなの鉄道線でないものの、信越本線の成り立ちを語る上で欠かせない区間でもあり触れておきたい。

 

軽井沢駅が誕生した5年後の1893(明治26)年4月1日に横川駅までの区間が開業している。横川駅の標高は386m、対して軽井沢駅の標高は939mで、標高差は約553m、両駅間の距離は11.2kmある。数字だけを見ると険しさが予想できないものの、かつてないほどの非常に厳しい急勾配区間が路線計画の前に立ちふさがった。

 

この急勾配を克服するために導入されたのがアプト式鉄道だった。最大66.7パーミルという急勾配に列車を走らせるために、線路の中央に凹凸のあるラックレールを敷いて、機関車が持つ歯車とかみ合わせて列車を上り下りさせた。当初は専用の蒸気機関車で運行していたが事故やトラブルが目立ち、1912(明治45)年にEC40形という電気機関車が導入された。

↑軽井沢駅に停車する列車を写した大正期発行の絵葉書。先頭に連結されるのがEC40形電気機関車。当時の駅舎が復元され今も使われる

 

EC40形は国有鉄道初の電気機関車だった。電気機関車に変更したものの、アプト式では運行に時間がかかり過ぎるため、1963(昭和38)年に新ルートに変更し、EF63形電気機関車を導入。横川駅側に連結して運転する方式に変更され、1997(平成9)年9月30日まで使われた。

 

横川駅〜軽井沢駅間の急勾配区間の列車運行に活躍したEC40形とEF63形は、現在しなの鉄道線の軽井沢駅構内で静態保存されている。両機関車とも日本の鉄道史を大きく変えた車両と言ってよいだろう。

↑横川駅〜軽井沢駅間で活躍したEF63形電気機関車。横川側に2両が連結され列車の上り下りに活用された 1997(平成9)年9月14日撮影

 

横川駅〜軽井沢駅間の旧路線のアプト区間のうち、群馬県側は遊歩道として整備され、また旧路線の線路も残されている区間が多く、観光用のトロッコ列車などに活用されている。一方、軽井沢側の旧信越本線の路線は、観光用に生かされることなく、北陸新幹線の保線基地や、駐車場などに使われている。

↑しなの鉄道線の軽井沢駅ホームの先の線路は駐車場などの施設で途切れている

 

【信濃路の旅③】国鉄形の115系も徐々に新型電車と置換え

ここからは、しなの鉄道線を走る車両を紹介しておきたい。同線ではちょうど新旧電車の入換え時期にあたっている。まずは古い国鉄形車両から。

 

◇115系

国鉄が1963(昭和38)年に導入した近郊形電車で、同時代に生まれた113系に比べて勾配区間に強い性能を持つ。JR東日本から路線および車両を引き継いだしなの鉄道線では長年にわたり走り続けてきた。

 

115系が生まれてから60年あまり。車歴が比較的浅い車両にしても40年とかなりの古豪になりつつあった。譲渡した側のJR東日本では全車が引退し、東日本で残るのはしなの鉄道のみとなる。

 

しなの鉄道の115系も後継車両が導入され始めたこともあり、すでに多くが廃車となりつつあり、残るのは車内をリニューアルした車両のみとなった。今後リニューアル車両も、徐々に減っていくことが確実視されている。

↑赤色をベースにしたしなの鉄道標準色の115系。開業時は3両編成のみが譲渡され、その後は2両編成も多く導入された

 

◇SR1系100番台・200番台・300番台

しなの鉄道が2020(令和2)年から導入を始めた新型車両で100番台〜300番台まである。100番台はロイヤルブルーをベースにした車両で、ロングシート、クロスシートに座席の向きが変更できるデュアルシートを採用、有料座席指定制の快速「軽井沢リゾート」「しなのサンセット」といった列車に利用されている。

 

車体はJR東日本の新潟地区を走る総合車両製作所製のE129系電車とほぼ同じで、車両製造も総合車両製作所が行っている。車体カラーや内装設備を除き、ほぼE129系と同じというわけである。

↑快速列車として走るSR1系100番台。この車両は2本のパンタグラフがあるが、前側は「霜取りパンタグラフ」として使われる

 

200番台・300番台は赤色ベースの車両で、座席はロングシート部分とセミクロスシート部分が連なる造りで、一般列車用に導入された。番台の数字は2種類あるが、大きな変更点はなく正面に入る番台の数字が変わるぐらいだ。

 

余談ながらSR1系の写真を撮る場合には注意が必要になる。正面上部に付いたLED表示器が速いシャッター速度で撮ると文字が読めなくなるのだ。シャッター速度を100分の1まで遅くしてようやく文字が読めるようになるので、走行中の車両をLED表示器まできれいに撮る場合は「ズーム流し」といったテクニックが必要となる。

 

一方、115系はLED表示器が搭載されていないこともあり、撮影の時に気を使わずに済むのがうれしい。

↑車体の色が赤ベースのSR1形200番台。写真は125分の1のシャッター速度で撮影したもの。かろうじて表示器の「小諸」の文字が読める

 

【信濃路の旅④】人気の懐かしの車体カラー・ラッピング列車は?

しなの鉄道の車両で見逃せないのが、115系「懐かしの車体カラー・ラッピング列車」だ。数年前までは標準色に加えて、複数の国鉄カラーの115系が走り、沿線を訪れる鉄道ファンを楽しませていた。

 

最新の「懐かしの車体カラー・ラッピング列車」は下記の通りだ。純粋な国鉄カラーは、初代長野色と湘南色のみとなっている。残念ながらしなの鉄道に唯一残っていた青とクリームの「スカ色(横須賀色)」や、白と水色の「新長野色」の車両は引退となってしまった。

 

現在走っている列車も、新型車両の投入の速さを見ると、数年で乗り納め、撮り納めとなるのかもしれない。

↑4色残る「懐かしの車体カラー・ラッピング列車」。同車両の運行はしなの鉄道のホームページで毎月詳しく発表されている

 

標準色以外の115系といえば、観光列車の「ろくもん」も忘れてはいけない。2014(平成26)年7月から運行が開始された観光列車で、その名は沿線の上田に城を構えた真田家の家紋「六文銭」に由来している。デザインは水戸岡鋭治氏だ。しなの鉄道と水戸岡氏の縁は深く、軽井沢駅などの諸施設のプロデュースやデザインなども担当している。

 

「ろくもん」の車体カラーは真田家の「赤備え」とされる濃い赤。金土日祝日を中心に軽井沢駅〜長野駅間を1日1往復し、食事付き、軽食付きといったプランもあり、車窓とともに地元の食が楽しめる列車となっている。

↑真田家の家紋にちなむ六文銭をモチーフとした観光列車「ろくもん」。軽井沢駅〜長野駅間を約2時間かけてゆっくり走る

 

【信濃路の旅⑤】復元された旧軽井沢駅前に保存される車両は?

ここからはしなの鉄道線の旅を楽しもう。始発駅の軽井沢は、古くから避暑地として知られ、現在は南口に「軽井沢・プリンスショッピングプラザ」があり、四季を通して多くの観光客が訪れる。

 

本稿では、旧駅舎と駅舎前に保存された小さな電気機関車にスポットを当てたい。軽井沢駅は北口と南口を結ぶ橋上の自由通路があり、しなの鉄道線の改札も自由通路内に設けられている。一方、北口には古い駅舎が建つ。実はこちらは復元された駅舎であり、現在はしなの鉄道線の改札口としても利用されている。

 

旧軽井沢駅には1910(明治43)年築の古い駅舎が残っていたが、新幹線の開業にあわせて解体されてしまった。その後の2000(平成12)年に「(旧)軽井沢駅舎記念館」として復元。その後、しなの鉄道の軽井沢駅としてリニューアルされた。館内にはイタリア料理店もある。自由通路にある改札口に比べて利用する人が圧倒的に少なく、落ち着ける静かな空間となっている。

↑新幹線開業時に一度解体されたが、隣接地に復元された現・しなの鉄道軽井沢駅。近代化産業遺産にも指定されている

 

この古い駅舎のすぐ目の前に三角屋根に囲われ、黒い小さな電気機関車が保存されている。案内板が立っているが、長年の風雨にさらされ文字が消えかかっていて、一見すると何の機関車か分からないのが至極残念である。

 

この機関車は草軽電気鉄道で使われたデキ12形と呼ばれる車両で、アメリカ・ジェフリー社が1920(大正9)年に製造し、発電所建設工事用に日本へ輸入されたものだとされる。その後に同線が電化される時に譲渡されたものだ。草軽電気鉄道の歴史は古く、1915(大正4)年に一部区間が草津軽便鉄道として開業。1926(大正15)年に新軽井沢駅(軽井沢駅前に設けられた)〜草津温泉間55.5kmが全線開業し、その後に草軽電気鉄道と改名している。

↑軽井沢の駅舎前に保存される草軽電気鉄道の古い電気機関車。L字型のユニークなスタイルで1〜2両の客車や貨車を引いて走った

 

当時の資料を見ると、草軽電気鉄道の路線はスイッチバック区間が多い。残された電気機関車を見ても貧弱さは否めず、新軽井沢〜草津温泉間はなんと3時間半ほど要した。ここまで時間がかかると乗る人も少なく経営に行き詰まった。さらに、1950(昭和25)年前後の台風災害で橋梁が流されるなどで一部区間が廃止され、1962(昭和37)年に全線廃止されている。

 

それこそモータリゼーションの高まる前に廃止されてしまったが、大資本が路線を敷設し、高性能な車両を導入したらどのような結果になっていたのだろうか。草軽電気鉄道は現在、草軽交通というバス会社として残り、軽井沢駅北口〜草津温泉間のバスを運行している。現在、急行バスに乗れば同区間は1時間16分で草津温泉へ行くことができる。

↑戦後間もなく発行された草軽電気鉄道の絵葉書。噴煙をあげる浅間山を眺めつつ走る高原列車だった

 

【信濃路の旅⑥】浅間山を右手に見て旧中山道をたどるルート

しなの鉄道線の軽井沢駅発の列車は30〜40分おきと本数が多いものの、日中は長野駅まで走る直通列車よりも、途中の小諸駅止まりの列車が多くなる。しなの鉄道線内のみのフリー切符はなく、軽井沢駅〜長野駅間で使える「軽井沢・長野フリーきっぷ」が大人2390円で販売されている。ちなみに、軽井沢駅〜篠ノ井駅間は片道1470円、軽井沢駅〜長野駅間は片道1670円で、どちらの区間も往復乗車すれば十分に元が取れる割安なフリー切符である。

 

しなの鉄道線は車窓から見える風景が変化に富む。軽井沢から乗車してすぐに目に入ってくるのは雄大な浅間山の眺めだ。3つ先の御代田駅(みよたえき)付近まで浅間山の姿が進行方向右手に楽しめる。

↑軽井沢駅〜中軽井沢駅間から見た浅間山の眺め。右の峰が標高2568mの浅間山だ。写真の新長野色115系はすでに引退となっている

 

景色とともに沿線は史跡が魅力だ。官設の信越本線として線路が敷かれたエリアが、中山道、北国街道と重なっていたせいもあるのだろう。東と西、また日本海を結ぶ重要な陸路だったこともあり、戦国時代には甲州の武田家、上田の真田家といった武将が群雄割拠する地域でもあった。

 

中軽井沢駅、信濃追分駅と軽井沢町内の駅が続く。軽井沢駅から2つ目の信濃追分駅はぜひとも下車したい駅である。

 

駅の北、約1.5km、徒歩20分ほどのところに中山道と北国街道が分岐する追分宿(おいわけじゅく)がある。追分という地名は、街道の分岐点を指す言葉でもあり、この追分宿から佐久市方面へ中山道が、北国街道が小諸市方面に分かれる。現在の追分宿をたどると国道18号から外れた旧中山道の細い道沿いにそば店や老舗宿が点在し、風情ある宿場町の趣を保っている。

↑旧中山道が通り抜ける追分宿。沿道にはそば店(左上)や飲食店が数軒あり、訪れる観光客も多い

 

【信濃路の旅⑦】かつてスイッチバックがあった御代田駅

追分宿に近い信濃追分駅は標高が955mある。標高939mの軽井沢駅よりも高い位置にあるわけだ。信濃追分駅がしなの鉄道線で最も高い標高にある駅とされていて、駅舎にも「当駅海抜九五五メートル」と記した小さな案内がある。ちなみに信濃追分駅はJRの駅以外では最高地点にある駅でもある。

 

信濃追分駅まで坂を上ってきたしなの鉄道線だが、駅から先は右・左へカーブを描きながら坂を下っていく。

↑信濃追分駅〜御代田駅間は浅間山が最もきれいに見える区間として知られる。列車は右カーブを描きながら坂を下っていく

 

次の御代田駅は標高約820mで、わずか6kmの駅間で135mも下っていく。現代の電車ならば上り下りもスムーズに走るが、蒸気機関車が列車を引いた時代は楽な行程ではなかった。

 

横川駅〜軽井沢駅間はアプト式という特殊な運転方法を採用していたために、明治の終わりに早くも電気機関車が導入されたが、軽井沢駅〜長野駅間の電化はかなり遅れ、導入されたのは1963(昭和38)年6月21日のことだった。それまで蒸気機関車が列車の牽引に活躍したわけだが、信濃追分駅〜御代田駅間の急勾配を少しでも緩和しようと、御代田駅はスイッチバック構造となっていた。

 

上り列車はこの駅へバックで入線、釜に石炭を投入して、ボイラーの圧力を高め、煙をもうもうとはきだしつつ軽井沢を目指した。旧御代田駅の構内にはSLが保存されているが、60年前まではSLが走っていたわけである。

↑御代田駅の東側にはスイッチバック構造の旧駅があった。旧駅内の「御代田町交通記念館」にはD51-787号機が保存されている(右下)

 

【信濃路の旅⑧】駅の入口は車掌車のデッキという平原駅

列車は御代田駅を発車すると、ひたすら下り坂を走っていく。水田風景が広がる土地を走り始めると、不思議な地形が見えてくる。

 

進行方向の両側に高くはないが崖が連なり、その上には平たい台地状の土地が広がり住宅地となっている。この付近を流れる小河川によって河岸段丘が造られていたわけである。

 

そんな崖地の間にあるのが無人駅の平原駅で、駅前に民家が一軒のみの〝秘境駅〟の趣がある駅だ。閑散としているが、駅から北東1kmほどのところに旧北国街道の平原宿がある。

↑平原駅の駅舎兼待合室として使われる旧車掌車(緩急車)。元車内は待合室に整備されベンチが置かれる(左下)

 

平原駅はユニークな造りの駅だ。駅の入口には旧車掌車(緩急車)が駅舎兼待合室として置かれている。車掌車が駅舎の駅は北海道ではよく見かけるが、本州ではここのみと言われている。さらに車掌車の前後にあるデッキ部分がホームへの入口として使われているのも興味深い。

 

使われている車掌車は元ヨ5000形で、コンテナ特急「たから号」にも連結された車両だ。今は駅舎となった車両にも輝かしい過去があったのかもしれない。

 

【信濃路の旅⑨】やや寂しさが感じられる小海線接続の小諸駅

水田が広がっていた平原駅を過ぎると、間もなく左手から線路が近づいてくる。この線路はJR小海線のもので、しなの鉄道線に合流した地点に小海線の乙女駅のホームがある。

↑しなの鉄道線に合流するように小海線の列車が近づいてくる。まもなく列車は乙女駅へ到着する

 

乙女駅から並走する小海線は次の東小諸駅に停車するのに対して、しなの鉄道線はこの2駅は止まらない。左右に民家が増え、しばらく走ると小諸駅へ到着する。

 

筆者はこれまでたびたび小諸駅を訪ねたが、かつての賑わいはやや薄れたように感じる。やはり北陸新幹線の駅が、南隣の佐久市の佐久平駅に設けられたからのかもしれない。

↑小諸駅は小海線(右側列車)との接続駅となる。小諸駅の駅舎にはしなの鉄道の社章が付けられている(左上)

 

軽井沢駅発の列車は日中、小諸駅止まりが多いが、到着したホームの向かい側に長野駅行き列車が停まっていて乗り継ぎしやすい(接続しない列車もあり)。

 

小諸駅の駅前を出ると左手に自由通路があり、この通路を渡れば、名勝小諸城址(懐古園・かいこえん)へ行くことができる。元々、信越本線は小諸城址の一部を利用して線路が敷かれたこともあり、駅の目の前に城址があると言ってもよい。

↑小諸城址(左下)で保存されるC56-144号機は小海線で活躍した蒸気機関車。小諸城址は桜や紅葉の名所としても知られる

 

小諸城の起源は古く、平安時代に最初の城が築かれたとされる。戦国時代は武田氏の城代が支配し、その後の豊臣秀吉の天下統一後は小田原攻めで軍功があった仙石秀久5万石の城下となった。徳川幕府となった後は、仙石家は近くの上田藩へ移り、以来歴代藩主には譜代大名が配置された。

 

現在、小諸城址は公園として整備され、小諸市動物園、児童遊園地などの施設がある。さてこの小諸城址、駅の側でなく、西を流れる千曲川を見下ろす側に回ると驚かされることになる。

 

【信濃路の旅⑩】小諸は険しい河岸段丘の上にある街だった

駅付近は至極平坦だった地形が裏手に回ると断崖絶壁になるのだ。小諸は河岸段丘の険しい地形がよく分かる土地だったのだ。

 

明治の文豪、島崎藤村は『千曲川のスケッチ』で小諸を次のように描いている。

 

「この小諸の町には、平地というものが無い。すこし雨でも降ると、細い川まで砂を押流すくらいの地勢だ。私は本町へ買物に出るにも組合の家の横手からすこし勾配のある道を上らねばならぬ」。

↑藤村も上った御牧ヶ原から市街方面を望む。浅間山、黒班山、高嶺山(右から)がそびえる。御牧ヶ原と市街の間に千曲川が流れる

 

藤村は信越本線がすでに開通していた1899(明治32)年から1905(明治38)年の6年間にわたり小諸で英語教師を勤めた。30歳前後を小諸で暮らしたことが大きな転機になったとされている。そして今も多くの人に記憶される詩を詠んだ。

 

「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(ゆうし)悲しむ……」

 

遊子とは、小諸城址に立った藤村その人だとされる。藤村が詠んだ歌は「濁り酒 濁れる飲みて 草枕しばし慰む」と結ばれている。若い藤村は宿で濁り酒をひとり飲みながら、旅愁を慰めたとされる。藤村にとって小諸はふと寂しさを感じてしまう土地だったのかもしれない。藤村が現在の小諸を見たらどう感じるのだろうか。

 

次回は小諸駅〜篠ノ井駅の沿線模様を紹介していきたい。