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2023/1/28 21:00

「しなの鉄道線」沿線の興味深い発見&謎解きの旅〈後編〉

おもしろローカル線の旅104〜〜しなの鉄道・しなの鉄道線(長野県)〜〜

 

東日本で希少になった国鉄近郊形電車の115系が走る「しなの鉄道しなの鉄道線」。沿線には旅情豊かな宿場町や史跡が点在し、興味深い発見や謎に巡りあえる。前回に続き、しなの鉄道線の小諸駅から篠ノ井駅までのんびり旅を楽しみたい。

*2015(平成27)年1月10日〜2023(令和5)年1月2日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

【関連記事】
「しなの鉄道線」115系との出会い&歴史探訪の旅〈前編〉

 

【信濃路の旅⑪】眼下に千曲川を眺めつつ鉄道旅を再開

 

小諸は千曲川が長年にわたり造り上げた河岸段丘に広がる町だ。小諸市街と千曲川の流れの高低差は30m〜50mもあるとされる。

 

河岸段丘の上にある小諸駅を発車した列車は、まもなく左右の視界が大きく開ける箇所にさしかかる。左手のはるか眼下には千曲川が流れており、列車から隠れて見通せないが、布引渓谷と呼ばれる美しい渓谷付近にあたる。また、進行方向右手を見れば浅間連峰の烏帽子岳(えぼしだけ)などの峰々を望むことができる。

↑小諸駅近くを走る初代長野色の115系。背景に浅間連峰の山々が連なって見える

 

千曲川の流れに導かれるように、しなの鉄道線は西に向かって走り、その線路に沿って北国街道(現在の旧北国街道)が付かず離れず通っている。北国街道は江戸幕府によって整備された脇街道の一つで、小諸駅の先はやや北を、田中駅からは線路のすぐそばを並走する。

 

【信濃路の旅⑫】宿場町「海野宿」の古い町並みはなぜ残った?

田中駅から徒歩約20分、約1.9km離れたところに、海野宿(うんのじゅく)という北国街道の宿場町がある。細い道沿いに旅籠屋(はたごや)造りや茅葺き屋根の建物、そして蚕(かいこ)を育てた時代の名残である蚕室(さんしつ)造りの建物が連なる。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されていて、よくこれだけの町並みがきれいに残ったものだと驚かされる。

↑掘割(左下)と細い道筋の両側に古い家が建ち並ぶ海野宿。「海野格子」などの伝統様式を残した家が多い

 

歴史をひも解くと海野宿は1625(寛永2)年に北国街道の宿として開設された。

 

それ以前は、現在の田中駅近くに田中宿という宿場町があったが、大洪水により被害を受けて本陣や多くの宿が海野宿へ移転したそうだ。千曲川は当時からこの地に住む人を苦しめていたわけだ。海野宿へ移った後は伝馬屋敷59軒、旅籠23軒と大いに賑わったそうである。海野宿は今も650mに渡って古い家が連なり、宿や飲食店などもあって訪れる観光客が絶えない。

↑田中駅(右上)から海野宿を目指し西へ。しなの鉄道線に沿って遊歩道が整備されている。同歩道は旧信越本線の廃線跡を利用したもの

 

ところで、しなの鉄道線は海野宿のすぐ北を通り抜けているが、信越本線が開業したときに、最寄りになぜ駅が生まれなかったのだろうか。

 

史料は残っていないが、駅の開業を反対する声が上がったのだろう。当時は、蒸気機関車が排出する煙や煤(すす)、火の粉が好まれず、路線開設にあたり各地で反対運動が起こりがちだった。海野宿では蒸気機関車の煙が蚕の害になるといった声も出たようで、こうした反対運動により駅の建設は中止となった。

 

全国に残された古い町並みの共通点として、大規模な開発が行われなかったことがある。駅が開業すれば開発も進むわけで、駅ができなかったことが、海野宿の町並みを残したとも言えるだろう。

 

なお、海野宿から西にある大屋駅(おおやえき)まで徒歩で約18分、約1.4kmと距離がある。しなの鉄道線を利用して海野宿へ行く場合、田中駅、大屋駅の両駅からもかなり歩かなければいけない。

↑海野宿のすぐ北を走るしなの鉄道線。宿場町は田中駅〜大屋駅間のちょうど中間にあり、観光で訪れるのにはやや不便な立地だ

 

【信濃路の旅⑬】千曲川の濁流がすぐ近くまで押し寄せた

江戸時代に洪水が海野宿という宿場町を生み、繁栄させるきっかけになったというが、今も千曲川の豪雨災害は人々を苦しめている。

 

最近では2019(令和元)年10月12日に長野県を襲った台風19号の被害が大きかった。しなの鉄道線の北側を走る国道18号から海野宿まで、線路を立体交差する海野宿橋が架かっていたが、台風19号による豪雨災害で、橋付近の護岸が約400mに渡って崩れ、海野宿橋と東御市(とうみし)の市道部分が崩落。橋が使えなくなってしまった。この台風による影響で、しなの鉄道線も上田駅〜田中駅間が1か月にわたり運休となった。

↑海野宿橋から望む、しなの鉄道線と千曲川(右側)。ふだんは静かな流れだが、豪雨時には周辺地区が氾濫の脅威にさらされる

 

↑海野宿橋と千曲川護岸の復旧工事が進められた2021(令和3)年1月2日の模様。右上は復旧された海野宿橋の現在

 

その後、海野宿橋の復旧工事は2022(令和4)年3月1日に完了。橋が復旧してから海野宿へ訪れる人も徐々に回復しつつあるようだ。

 

ちなみに、台風19号は海野宿の下流でも大きな被害を出している。しなの鉄道線の沿線では、上田駅と別所温泉駅を結ぶ上田電鉄別所線の千曲川橋梁の橋げたの一部が崩落。そのため長期にわたり不通となり、代行バスが運転された。不通となってから約1年半後、2021(令和3)年3月28日に全線の運行再開を果たしたが、台風19号による千曲川の氾濫被害は深刻なものだった。

 

↑上田電鉄の千曲川橋梁は台風19号による千曲川の増水により橋梁が崩落した。左下は復旧後の千曲川橋梁

 

たび重なる豪雨災害で苦しめられてきた千曲川の流域だが、一方で川の恵みもあったことを忘れてはならない。古代から千曲川は水運に使われてきた。木材の運搬だけでなく、川舟による人の行き来も盛んに行われ、この地の文化や歴史を育んできた。ゆえに、しなの鉄道線の沿線では、古くからの人々の足跡を残す史跡も多い。

 

【信濃路の旅⑭】真田家が造った難攻不落の上田城

大屋駅の一つ先、信濃国分寺駅(上田市)の近くには信濃国分寺がある。現在残る信濃国分寺は室町時代以降に再建されたものだが、しなの鉄道線の線路の南北には奈良時代に建立された僧寺跡と尼寺跡があったことが発掘調査で明らかになった。遺跡が発掘された土地は史跡公園として整備され、園内に信濃国分寺資料館(入館有料)が設けられている。

 

奈良時代に聖武天皇が中心となり、各地に国分寺建立を推し進めたが、中央政権はこの上田を信濃の中心にしようと考えていたのだろう。

↑しなの鉄道線の南北に広がる史跡公園。同地で旧国分寺の遺跡が発掘されている

 

一方、上田で今も市民が誇りにしているのが戦国時代の真田家の活躍である。上田駅の北西に残る上田城は真田信繁(幸村)の父、真田昌幸が築城し、攻防の拠点として役立てた。第二次上田合戦と呼ばれる1600(慶長5)年の戦いでは、兵の数で劣る真田軍が上田周辺の地形を巧みに利用して徳川秀忠(後の徳川2代将軍)軍を翻弄。これにより、秀忠軍は関ヶ原の合戦に間に合わなかったことがよく知られている。

 

その後、真田家は松代(まつしろ・長野市)に領地を移されたが、今でもその活躍ぶりは上田市民の誇りとなっている。

↑上田城址本丸跡の入り口に立つ東虎口櫓門と南櫓(左側)。この櫓門の下には真田石という巨石が今も残る

 

しなの鉄道線の上田駅から上田城の入口までは駅から徒歩で約12分。900mほどの距離だ。この上田城の入口には二の丸橋が架かっており、橋の下には二の丸をかぎの手状に囲んだ二の丸堀跡が残っている。堀の長さは1163mあり、難攻不落の城の守りの要として役立てられた。

 

二の丸堀跡は現在、「けやき並木遊歩道」として整備されているが、この堀をかつて上田温泉電軌(現在の上田電鉄の前身)の真田傍陽線(さなだそえひせん)が走っていた。二の丸橋のアーチ下には、当時に電車が走っていたことを示す碍子(がいし)が残されている。

↑上田城の二の丸堀跡と二の丸橋。ここに1972(昭和47)年まで電車が走っていた。現在は「けやき並木遊歩道」として整備される

 

【信濃路の旅⑮】坂城駅の駅前に止まる湘南色の電車は?

上田駅から先を目指そう。一つ先の駅は西上田駅で、ホームの横に多くの側線があることに気がつく。この駅から先の篠ノ井駅までJR貨物の「第二種鉄道事業」の区間になっており、2011(平成23)年3月まで石油タンク列車が乗入れていたが、今は西上田駅の2つ先の坂城駅(さかきえき)までしか走らない。西上田駅構内にある側線はそうした名残なのだ。

↑石油タンク車が多く停車する坂城駅構内。ホームから入換え作業を見ることができる

 

石油輸送列車が走る坂城駅に隣接してENEOSの北信油槽所がある。この駅まで石油類が輸送され、ここからタンクローリーに積み換えが行われ北信・東信地方各地へガソリンや灯油が運ばれていく。

 

石油輸送列は、神奈川県の根岸駅に隣接する根岸製油所から1日2便(臨時1便もあり)が運行されているが、信越本線の横川駅〜軽井沢駅間が途切れて遠回りせざるをえず、輸送ルートは複雑になっている。根岸駅から根岸線、高島線(貨物専用線)、東海道本線、武蔵野線(南武線)、中央本線、篠ノ井線、しなの鉄道線を通って運ばれてくる。それこそ遠路はるばるというわけだ。

 

ちなみに、坂城駅の北信油槽所と線路を挟んだ反対側には、湘南色の電車が3両保存されている。これは1968(昭和43)年に製造された169系で、信越本線の横川駅〜軽井沢駅間の急勾配区間で、EF62形電気機関車との協調運転が始まったときに導入された。信越本線では急行「信州」「妙高」「志賀」として運行。そのうち「志賀」は現在のしなの鉄道線の屋代駅から先、長野電鉄屋代線(詳細後述)へ乗入れ、湯田中駅まで走っていた列車だ。

↑坂城駅の隣接地で保存される169系S51編成。写真は2018(平成30)年7月14日時のもので塗装もきれいな状態に保たれていた

 

坂城駅の隣接地に静態保存されるのは169系のS51編成で、JR東日本からしなの鉄道に譲渡後に2013(平成25)年4月まで走っていた。ラストラン後に地元の坂城町が譲り受け、ボランティア団体の169系電車保存会会員の手で守られている。3両のうち、「クモハ169-1」と「モハ168-1」は169系のトップナンバーという歴史的な車両でもある。風雨にさらされて保存されているため、車体の状態や塗装が年を追うごとに悪化しがちだが、保存会のメンバーが塗り直しをするなど懸命な保存活動が続けられている。

 

【信濃路の旅⑯】戸倉駅の車両留置線がなぜこんな所に?

坂城駅の一つ先が戸倉駅(とぐらえき)で戸倉上山田温泉の玄関口となる。しなの鉄道線の車両基地がある駅でもあり、鉄道ファンにとっては気になるところだ。

↑しなの鉄道線の車両基地がある戸倉駅。駅前に戸倉上山田温泉の名が入ったアーチが立つ。訪れた日は後ろの山が冠雪して美しかった

 

戸倉駅の車両基地には115系やSR1系が多く留置されていて、周囲を歩くとこうした車両を間近で見ることができる。この車両基地はちょっと不思議な構造になっていて、荒々しい地肌が見える山のすぐ下に電車が留置されているのが興味深い。駅に隣接した留置線から、かなり離れているように見える。

↑戸倉駅構内にある車両基地。周囲を囲む道路から間近に電車が見える。この日は「台鉄自強号」塗装の115系(右側)も停車していた

 

レールの先をたどると車両基地の裏から400mほど2本の線路が延びていて、その先に複数の電車が止められていた。歴史を調べると、この線路は元は駅と戸倉砕石工業の砕石場を結ぶ引込線として使われていたことが分かった。この引込線の跡が今も車両基地の一部として使われていたのだ。

↑旧砕石場への元引込線を利用した線路に115系が停車中。線路のすぐ上の山中では今も砕石事業が続けられている

 

【信濃路の旅⑰】屋代駅に残る長野電鉄屋代線の遺構

戸倉駅の次の駅は千曲駅(ちくまえき)で、この駅はしなの鉄道線となった後に開業した駅だ。しなの鉄道線には西上田駅〜坂城駅にあるテクノさかき駅のように、第三セクター鉄道となってからできた駅が複数ある。なぜ国鉄時代やJR東日本当時に、駅を新たな開設しなかったのか不思議だ。

 

↑屋代駅の年代物の跨線橋。奥までは入れないが、元ホームに向かう跨線橋は台形の形をしていてレトロな趣満点の造りだ(左下)

千曲駅の次が屋代駅(やしろえき)で、地元・千曲市の玄関口でもあり規模の大きな駅舎が建つ。駅舎側1番線ホームと2・3番線ホームの間にかかる跨線橋は、使われていない東側の元ホームまで延びている。

 

この元ホームは2012(平成24)年3月末まで長野電鉄屋代線の電車が発着していた。屋代線は屋代駅と長野電鉄長野線の須坂駅(すざかえき)を結んでいた路線で、スキー列車が多く走った時代には上野駅と志賀高原スキー場の玄関口、湯田中駅を直通運転する急行「志賀」が走った。ちなみに、この列車には坂城駅に保存された169系が使われていた。屋代駅の跨線橋はそんな歴史が刻まれていたわけである。

 

屋代線は屋代駅から先、しなの鉄道線と並行して次の屋代高校前駅方面へ延びていた。今は駅付近のみしか線路が残っていない。なぜ屋代駅構内の屋代線の線路のみが残されているのだろう。

 

これは、屋代駅の隣接地に車両工場があるためだ。長電テクニカルサービスという長野電鉄の別会社の屋代工場があり、屋代線が通っていたときには長野電鉄の車両整備などに使われていた。現在は長野電鉄の路線と離れてしまったために、長野電鉄の車両整備ではなく、線路がつながるしなの鉄道の車両の整備や検査などを主に行っている。そのため、しなの鉄道線との連絡用に元屋代線の線路が生かされていたというわけだ。なお、長野電鉄の車両は、須坂駅に隣接した長電テクニカルサービスの須坂工場で整備が行われている。

 

【信濃路の旅⑱】篠ノ井駅から長野駅までは信越本線となる

屋代駅から北へ向けて走るしなの鉄道線は、次の屋代高校前駅を過ぎると千曲川を渡る。橋の長さは460mあり、列車から千曲川の流れと信州の山々を望むことができる。橋を渡れば間もなく左からJR篠ノ井線の線路が近づいてきて、篠ノ井駅の手前でしなの鉄道線に合流する。

↑篠ノ井駅へ近づくしなの鉄道線の長野駅行き列車。名古屋駅行き特急「しなの」は同位置から分岐して篠ノ井線へ入っていく(右下)

 

しなの鉄道線の下り列車はここから先の長野駅まで走るが、篠ノ井駅〜長野駅間の営業距離9.3kmは今もJR東日本の信越本線のままで、しなの鉄道の電車、JR東日本の電車、JR東海の電車が共用している。長野駅から先の妙高高原駅までは再びしなの鉄道の北しなの線となり、妙高高原駅から先はえちごトキめき鉄道の妙高はねうまラインとなっている。

 

信越本線は高崎駅〜横川駅と、篠ノ井駅〜長野駅、さらに直江津駅〜新潟駅間に3分割されたままの状態で生き続けているわけだ。

 

【信濃路の旅⑲】篠ノ井駅の橋上広場にある〝お立ち台〟

しなの鉄道線の列車は小諸駅から篠ノ井駅まで約40分、長野駅まで約1時間で到着する(快速列車を除く)。

 

しなの鉄道線は篠ノ井駅までということもあり、旅は同駅で終了としたい。改札口から自由通路に出ると、橋上広場のフェンスの前に親子連れの姿があり、手作りの階段に上り、下を通り過ぎる北陸新幹線のE7系、W7系電車を見続けていた。この手作りの階段は、新幹線を楽しむのにはまさに最適な〝お立ち台〟となっている。

↑しなの鉄道線の終点でもある篠ノ井駅。橋上にある広場には新幹線の姿が楽しめる〝お立ち台〟が設けられている。

 

しなの鉄道の路線は長野駅の先にも続いている。また機会があれば長野駅〜妙高高原駅間を走る北しなの線も紹介したい。こちらもしなの鉄道線に負けず劣らず、風光明媚で乗って楽しい路線である。