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2023/2/25 21:00

黄色い電車に揺られ「宇部線」を巡る。炭鉱の町の歴史と郷愁を感じる旅

おもしろローカル線の旅108〜〜JR西日本・宇部線(山口県)〜〜

 

重工業で栄えてきた宇部市は人口16万人と地方の中核都市だ。そんな市内を走る宇部線だが、駅周辺の賑わいは消えていた。車社会への移行によって駅前の風景が大きく変わっていく−−そんな地方ローカル線の現状を、宇部線の旅から見ていきたい。

*2017(平成29)年9月30日、2022(令和4)年11月26日、2023(令和5)年1月21日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

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【宇部線の旅①】宇部軽便鉄道として宇部線の歴史が始まった

まず、宇部線の概要や歴史を見ていこう。宇部線は軽便鉄道が起源となっている。

路線と距離JR西日本・宇部線:新山口駅〜宇部駅間33.2km、全線電化単線
開業宇部軽便鉄道が1914(大正3)年1月9日、宇部駅〜宇部新川駅間を開業。
宇部鉄道が1925(大正14)年3月26日に小郡駅(現・新山口駅)まで延伸し、宇部線が全通。
駅数18駅(起終点駅を含む)

 

今から109年前に宇部軽便鉄道により路線が開設された宇部線だが、「軽便」と名が付くものの官設路線との鉄道貨物の輸送が見込まれたこともあり、在来線と同じ1067mmの線路幅で路線が造られた。1921(大正10)年には宇部鉄道と会社名を変更、1941(昭和16)年には宇部電気鉄道(現・小野田線の一部区間を開業)と合併し、旧宇部鉄道は解散、新たな宇部鉄道が設立された。この〝新〟宇部鉄道だった期間は短く、その後の戦時買収により1943(昭和18)年5月1日、宇部鉄道の全線は国有化。1987(昭和62)年4月1日に国鉄分割民営化によりJR西日本に引き継がれ現在に至っている。

 

ローカル線の利用状況の悪化が目立つJR西日本の路線網だが、2021(令和3)年度における宇部線の1日の平均通過人員は1927人。居能駅(いのうえき)で接続する小野田線の346人と比べれば多いものの、赤字ローカル線の目安となる2000人をやや下回る状況になっている。

 

【宇部線の旅②】国鉄形105系とクモハ123形の2形式が走る

次に宇部線を走る車両を見ておこう。現在は下記の2形式が走る。

↑宇部新川駅を発車する濃黄色の105系。宇部線の105系は2両編成のみだがクモハ123形と連結して走る列車もある

 

◇105系電車

105系は国鉄が地方電化ローカル線向けに開発し、1981(昭和56)年に導入した直流電車で、宇部線には同年の3月19日から走り始めている。誕生して42年となる古い車両で、他の路線では後継車両に置き換えが進めれ、JR西日本管内で残るのは福塩線(ふくえんせん)および、宇部線、小野田線と山陽本線の一部となっている。なお、宇部線を走る105系の車体カラーは濃黄色1色と、クリーム地に青と赤の帯を巻いた2タイプがある。

 

◇クモハ123形電車

クモハ123形電車は、1986(昭和61)年に鉄道手荷物・郵便輸送が廃止されたことで、使用されなくなった荷物電車を地方電化ローカル線用に改造したもの。JR東日本、JR東海のクモハ123形はすでに全車が引退となり、JR西日本に5両のみが残る。5両全車が宇部線、小野田線で走っていることもあり、貴重な電車を一度見ておこうと訪れる鉄道ファンの姿も目立つ。

↑宇部新川駅構内に留置中のクモハ123形。トイレが付く側の側面は窓がわずかしかない。それぞれの車両は細部が微妙に異なっている

 

宇部線、小野田線を走るクモハ123形は1両のみで走る列車が大半だが、105系2両と連結し、3両で走る珍しい列車も見られる。こちらは朝夕のラッシュ時のみ、新山口駅と山陽本線の下関駅を往復(宇部駅を経由)している。

↑2両の105系の後ろに連結されたクモハ123形。同じ車体色のため違和感はないが、ドアの数が異なる不思議な編成となっている

 

【宇部線の旅③】やや離れた0番線から宇部線の旅が始まった

ここからは宇部線の旅を楽しみたい。路線の起点は新山口駅なのだが、路線の3分の2にあたる12駅が市内にあり、路線名ともなっている宇部市の宇部駅から乗車することにした。

 

筆者は宇部駅7時28分着の山陽本線の下り列車を利用したが、ホームを降りると連絡跨線橋を走り出す中学生がいた。接続する宇部線の列車が7時31分と、3分の乗り換え時間しかないのだ。しかも、宇部線の電車が停車しているのが、0番線と連絡跨線橋から遠いことが、中学生が走り出した理由だった。

 

通常、宇部線の列車は1番線からの発車が多いのだが、早朝はこうした接続時間に余裕のない列車がある。走り出す中学生がいたから分かったものの、のんびりしていたら乗り遅れていただろう。こうした例はいかにもローカル線らしい現実だ。ワンマン運転のため、運転士がホームを確認して乗り遅れがないかを確認して発車していたが、慌ただしいことに変わりはない。

↑小規模ながら瀟洒な造りの宇部駅駅舎。とはいえ駅前通り(右下)を見ると閑散としていた

 

宇部駅は1910(明治43)年7月1日に開業した古い駅だが、宇部鉄道が国有化した後に、宇部線の宇部新川駅が宇部駅と改称。1943(昭和18)年5月1日から1964(昭和39)年10月1日までは西宇部駅を名乗った。後に再改称されて宇部駅を名乗っているが、宇部市の中心は宇部新川駅付近である。

 

宇部駅は名前の通り宇部市の表玄関にあたるが、駅前に商店はほとんどなく閑散としてい理由はこのあたりにあるのかもしれない。

↑宇部駅の0番線ホームに停まるクモハ123形。0番線は連絡跨線橋から離れていて山陽本線からの乗り継ぎに時間を要する

 

【宇部線の旅④】厚東川の上をカーブしつつ105系が走る

宇部駅を発車した宇部線の列車は、進行方向左手に山陽本線の線路を見ながら右へカーブして宇部線に入ると、わずかの距離だが複線区間に入る。ここは際波信号場(きわなみしんごうじょう)と呼ばれるところで、朝夕に宇部方面行き列車との行き違いに使われることがある。

 

現在の宇部線は列車本数が少なめで、上り下り列車の行き違いのための信号場は不要に思える。しかし、石炭・石灰石輸送が活発だったころは、美祢(みね)線の美祢駅と宇部港駅(現在は廃駅)間を貨物列車が1日に33往復も走っていたそうだ。際波信号場はそんな貨物輸送が盛んだったころの名残というわけである。ちなみに現在、貨物輸送は全廃されている。

↑厚東川橋梁を渡る宇部新川方面行の列車。橋の途中からカーブして次の岩鼻駅へ向かう

 

信号場を通り過ぎると間もなく列車は厚東川(ことうがわ)橋梁にさしかかる。車窓からは上流・下流方向とも眺望が良い。二級河川の厚東川だが水量豊富で宇部線が渡る付近は川幅も広い。橋梁上で列車は右カーブを描きつつ次の岩鼻駅へ向かう。

 

【宇部線の旅⑤】開業当初、岩鼻駅から先は異なる路線を走った

宇部線の開業当初の岩鼻駅付近の地図を見ると、次の居能駅方面への路線はつながっておらず藤山駅(その後に藤曲駅と改称)、助田駅(すけだえき)という2つの駅を通って宇部新川駅へ走っていた。現在のように路線が変更されたのは国有化以降で、それ以前は現在の小野田線のルーツとなる、宇部電気鉄道の路線が居能駅を通り、宇部港方面へ線路を延ばしていた。

 

国有化されて路線が整理された形だが、宇部市内の狭いエリアで宇部鉄道、宇部電気鉄道という2つの会社がそれぞれの路線を並行して走らせていたわけである。

↑レトロな趣の岩鼻駅(右上)から居能駅へ線路が右カーブしている。戦後しばらくこの先、異なる路線が設けられていた

 

岩鼻駅から右にカーブした宇部線は小野田線と合流して居能駅へ至る。この岩鼻駅〜居能駅間は路線名がたびたび変わっていて複雑なので整理してみよう。

 

【宇部線の旅⑥】レトロな居能駅の先に貨物線が走っていた

国有化まもなく宇部駅(当時の駅名は西宇部駅)〜宇部新川駅(当時の駅名は宇部駅)〜小郡駅(現・新山口駅)は宇部東線と呼ばれた。一方、居能駅から延びる宇部港駅、さらに港湾部に延びる路線は宇部西線と呼ばれた。岩鼻駅と居能駅間は1945(昭和20)年6月20日に宇部西線貨物支線として開業している。終戦間近のころに岩鼻駅と居能駅間の路線がまず貨物線として結ばれたわけである。

 

その後の1948(昭和23)年に宇部東線が宇部線に、宇部西線が小野田線と名が改められた。岩鼻駅から藤曲駅(旧・藤山駅)、助田駅経由の宇部駅(現・宇部新川駅)まで路線が結ばれていたが、この路線は1952(昭和27)年4月20日に廃止され、岩鼻駅〜宇部新川駅間は現在、旧宇部西線経由の路線に変更されている。

↑居能駅(左下)を発車した下関駅行列車。居能駅の裏手(写真右側)には今も貨物列車用の側線が多く残されている

 

何とも複雑な経緯を持つ宇部市内の路線区間だが、貨物線を重用したことが影響しているようだ。宇部市の港湾部の地図を見ると、港内に陸地が大きくせり出しており、この付近まで引込線が敷かれていた。当時のことを知る地元のタクシードライバーは次のように話してくれた。

 

「今の宇部興産のプラント工場がある付近は、かつて炭鉱で働く人たちが暮らした炭住が多く建っていたところなんです。沖ノ山炭鉱という炭鉱があったのですが、私が小さかった当時、町はそれこそ賑やかなものでした」

 

宇部炭鉱は江戸時代に山口藩が開発を始めた炭鉱だった。中でも宇部港の港湾部にあった沖ノ山炭鉱は規模も大きかった。宇部炭鉱は瀬戸内海の海底炭鉱で、品質がやや劣っており、海水流入事故などもあったことから、全国の炭鉱よりも早い1967(昭和42)年にはすべての炭鉱が閉山された。一方で、出炭した石炭を化学肥料の原料に利用するなど、歴史のなかで培ってきた技術が、後の宇部市の化学コンビナートの基礎として活かされている。

↑沖ノ山炭鉱の炭住が建ち並んだ港湾部は現在コンビナートに変貌している。写真は宇部伊佐専用道路のトレーラー用の踏切

 

【宇部線の旅⑦】郷愁を誘う現在の宇部新川駅

炭鉱の町から化学コンビナートの町に変貌した宇部市だが、人口の推移からもそうした産業の変化が見て取れる。炭鉱が閉山した当時は一度人口が減少したものの、その後に増加に転じ、1995(平成7)年の国勢調査時にピークの18万2771人を記録している。今年の1月末で16万183人と減少しているものの、豊富なマンパワーが沖ノ山炭坑を起源とする宇部興産(現・UBE)などの大手総合化学メーカーの働き手として役立てられた。

 

宇部市の繁華街がある宇部新川駅に降りてみた。山陽本線の宇部駅に比べると駅周辺にシティホテルが建ち、また飲食店も点在している。駅前の宇部新川バスセンターから発着する路線バス、高速バスも多い。

↑宇部新川駅の駅舎。宇部市の表玄関にあたる駅で規模も大きい。とはいえ人の少なさが気になった

 

だが、立派な造りに反して駅は閑散としていた。跨線橋は幅広く以前は多くの人が渡っていたであろうことが想像できるのだが、階段の踏み板は今どき珍しい木製で、改札口の横に設けられた小さな池も水が張られず、白鳥の形をした噴水の吹出し口が寂しげに感じられた。

 

一方、駅構内の側線には宇部線・小野田線用の105系、クモハ123形が数両停められていた。駅構内には宇部新川鉄道部と呼ばれる車両支所(車両基地)があったが、それぞれの電車は現在、下関総合車両所運用検修センターの配置となっていて、宇部新川駅の構内は一時的な留置場所として車庫代わりに利用されている。

↑宇部新川駅構内に止められる宇部線、小野田線の車両。同駅の車両基地は廃止されたが現在も車庫代わりに利用されている

 

宇部新川駅前の賑わいがあまり感じられないこともあり、再びタクシードライバー氏に聞いてみた。

 

「若い世代は地元であまり買物をしないし、遊ばないからね。下関までなら電車で1時間、車を使えば北九州小倉へ約1時間ちょっとで行けるから、皆そちらへ行ってしまう……」と悲しげな様子だった。

 

車で移動する人が大半となり、さらに他所へ出かけてしまう。それがこうした駅周辺の寂しさの原因となっているようだ。

 

【宇部線の旅⑧】バスの利用者が大半の山口宇部空港の現状

宇部線の沿線には重要な公共施設もある。例えば宇部線草江駅のそばには山口宇部空港がある。駅から徒歩7分、距離にして600mほどだ。山口県には広島県境に岩国飛行場もあるが、山口宇部空港は山口県内の主要都市に近いこともあり年間100万人を上回る利用者がある。とはいうものの草江駅で降りて空港へ向かう人の姿はちらほら見かけるだけだった。

 

これは、空港へはバスの利用が便利なためと推察する。現在、空港の公式ホームページでも同駅利用のアクセス方法を紹介しているものの、飛行機の発着に列車のダイヤが合っておらず、不便なのだろう。

↑利用者が少ない草江駅。ホームからも空港が見える。山口宇部空港(左上)は県道220号線をはさんで7分の距離にある

 

その点、山口宇部空港が1966(昭和41)年に開設されたときに、駅を少しでも空港近づけるなり方法があったのではと感じてしまう。ちなみに、JR西日本管内の路線では、鳥取県を走る境線では米子空港の改修時に、より近くに駅を移転させて利用者を増やした例がある。それだけに、少し残念に感じた。

 

【宇部線の旅⑨】瀬戸内海の眺望が楽しめる常盤駅

山口県の瀬戸内海沿岸地方を走る宇部線だが、車窓から海景色が楽しめる区間が意外に少ない。唯一見えるのが草江駅の次の駅、常盤駅(ときわえき)だ。

↑常盤駅のホームからは瀬戸内海が目の前に見える。レジャー施設が集う常盤池も徒歩15分ほどの距離にある

 

この駅で下車する観光客を多く見かけた。その大半が海方面とは逆の北側を目指す。北には常盤池という湖沼があり、この湖畔に「ときわ公園」(徒歩15分)が広がる。園内には動物園や遊園地や植物園もあり宇部市のレジャースポットとなっている。また宇部市発展の基礎を作った石炭産業の歴史を伝える「石炭記念館」もあり、併設された展望台からは瀬戸内海が一望できる。

 

筆者は時間の余裕がなかったこともあり、公園を訪れることなく、海へ出て常盤海岸を散策するにとどめた。駅から海岸へは徒歩3分で、瀬戸内海と九州が海越しに望める。山口宇部空港の滑走路が右手に見えて、発着時はきっと迫力あるシーンが楽しめるだろうと思ったが、残念ながら次の列車を待つ間に飛行機の発着を眺めることはできなかった。

↑常盤駅のすぐそばに広がる常盤海岸。今は波消しブロックが並んでいるが、1999(平成11)年までは海水浴場として開放されていた

 

【宇部線の旅⑩】宇部市から山口市へ入ると景色が大きく変わる

宇部市内の宇部線の駅は岐波駅(きわえき)まで続く。宇部線の18駅中、岐波駅までの12駅が宇部市内の駅で、この先の阿知須駅(あじすえき)からの6駅が山口市内の駅となる。宇部市は山口県内でも人口密度が県内3番目ということもあるのか、宇部市内の駅や沿線に民家が多く建つ。一方、阿知須駅を過ぎたころから沿線に緑が目立つようになり、特に深溝駅から先は田畑が沿線の左右に広がるようになる。

↑上嘉川駅〜深溝駅間は水田地帯が広がる。山陽本線は左手に見える民家付近を通っている

 

こうした民家が途絶える山口市内は宇部線の列車を撮影するのに最適なこともあり、深溝駅〜上嘉川駅(かみかがわえき)間で撮影した写真がSNS等に投稿されることも多い。そんな田園の中を走り、上嘉川駅を過ぎると、左側から山陽本線が近づいてきて並走し、今回の旅の終点、新山口駅へ到着する。

 

宇部駅からは1時間15分〜20分ほど、変化に富んだ車窓風景が楽しめる旅となった。

 

【宇部線の旅⑪】かつて小郡駅の名で親しまれた新山口駅

最後に新山口駅の駅名に関して。同駅は1900(明治33)年の駅の開設時に小郡駅(おごおりえき)と名付けられた。小郡村に駅が設けられたためで、その後に小郡町となり山口市と合併した。1975(昭和50)年、山陽新幹線が開業した後もしばらく小郡駅のままだったが、紆余曲折あった後、2003(平成15)年10月1日に山陽新幹線ののぞみ停車駅になったことを機に、小郡駅から新山口駅へ駅名を改めた。

↑新山口駅の新幹線ホーム側にある南口。在来線は北口側近くに改札口があり宇部線のホーム(右上)はそちらの8番線となっている

 

小郡駅といえば、駅弁ファンは「ふく寿司」を製造していた小郡駅弁当という会社を思い出す方もあるかと思う。筆者も安価でふく(地元下関ではフグと濁らずフクと呼ぶことが多い)が味わえるので、駅を訪れた際は欠かさず購入していたのだが、2015年に小郡駅弁当は駅弁から撤退してしまった。

 

しかし、この味を別会社の広島駅弁当が引き継ぎ販売を開始していた。パッケージのフクのイラストも健在で、懐かしの味が復活。新山口駅の「おみやげ街道」で金・土・日曜日のみ限定販売(1200円)するとのこと。次回に訪れた際は必ず購入しようと誓うのだった。