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歴史
2018/2/5 16:30

「殿様が脱藩」「もうひとつの忠臣蔵」――知られざる「お殿様」エピソードが面白い!『江戸三〇〇年 大名たちの興亡』

わたしは石川県に住んでいます。北陸新幹線の終着駅がある石川県金沢市には、本多町(ほんだまち)という地名があります。加賀藩の家老格「本多家」の下屋敷があったことに由来するそうです。

 

加賀本多家の始祖は、徳川家康の参謀として有名な「本多正信」の次男です。つまり、本多正純の弟です。過去と現代は、確かにつながっています。ちなみに、大河ドラマでは活躍している姿ばかりがクローズアップされる正純ですが、最期は罪人として亡くなっています。栄光と没落は、まさに紙一重ということがわかります。

 

江戸三〇〇年 大名たちの興亡』(江宮隆之・著/学研プラス・刊)という本があります。約260年続いた江戸期における武士たちのダイナミックな栄枯盛衰を学ぶことができる1冊です。
83579063 - kochi castle is a japanese castle in kochi, kochi prefecture, japan. kochi castle is a hilltop castle that was built by yamanouchi kazutoyo in 1601 and was completed in 1611.

前代未聞!? 脱藩したお殿様

幕末期の日本では、藩の方針に従うことを良しとせず、自由に行動するための「脱藩」が多く行われました。有名な脱藩浪士としては、坂本龍馬(土佐藩)、吉田松陰(長州藩)などが挙げられます。

 

脱藩とは、武家の主従関係において「藩主」を裏切る行為です。脱藩した本人だけでなく、親兄弟や親戚にまで刑罰が及びました。

 

脱藩浪士に対しては、一国の主である「藩主」が刑罰を命じます。このルールを逆手にとって、悩んだ末に脱藩したお殿様が実在します。請西(じょうざい)藩の藩主、林忠崇(はやし・ただたか)です。

 

藩主に脱藩されて、藩士たちは困惑した。だが、どうにもならない。

脱藩した忠崇らは、幕府海軍とともに館山、箱根、伊豆などに向かって新政府軍と戦った。

(『江戸三〇〇年 大名たちの興亡』から引用)

 

請西藩は一万石の規模でしたが、幕府の重役をつとめたこともある家柄です。徳川将軍家には恩がありました。しかし、藩論は真っ二つに割れていました。

 

旧幕府軍と新政府軍、どちらの味方につくべきか? 20代の若き藩主であった忠崇は、時代の流れをいち早く感じとって、請西藩の軍備を「洋式兵装」に切り替えていました。しかし、徳川恩顧の大名としては、おいそれと新政府軍に恭順するわけにはいきません。

 

意地と義理がある。だからといって、錦の御旗をかかげる官軍と徹底抗戦することを望まない藩士や領民を巻き込むわけにもいかない。苦渋の決断でした。前代未聞である「藩主の脱藩」は、そのような時代背景によるものです。

 

忠崇は、日本各地を転戦したのちに降伏して捕らえられます。死罪を免れたあとには、農業、会社員、役所勤めなどで生計を立てながら……なんと! 昭和16年まで生きたあと天寿をまっとうしています。

 

もしも、忠崇が藩主のまま「徹底抗戦」を選んでいたら、会津藩や白虎隊と同じ運命をたどっていたかもしれません。藩主みずからの脱藩は、本人だけでない多くの命を救いました。
 

知る人ぞ知る「延宝の忠臣蔵」

『忠臣蔵』の元になった「赤穂事件」をご存じの方は多いでしょう。

 

赤穂事件では、浅野長矩(内匠頭)が吉良義央(上野介)に斬りかかりましたが、本懐を遂げることはできませんでした。もしも、浅野内匠頭が上野介を討ち果たしていたならば、大石内蔵助などの優秀な藩士たちは、他の藩に取り立てられて、能吏としての人生をまっとうできたかもしれません。

 

徳川幕府や江戸市中を震撼させたテロ行為である「吉良邸討ち入り」は、お殿様が仕損じたせいで、家来や領民が大迷惑をこうむったという見方もできます。

 

歴史は繰り返します。赤穂事件から8年後に、同じような刃傷事件が発生しました。

 

斬ったのは、前田利家のひ孫である「前田利昌」(加賀七日市藩主)。斬られたのは、織田信長の弟・有楽斎の子孫である「織田秀親」(天理柳本藩主)。歴史通のあいだでは「延宝の忠臣蔵」として有名な事件です。

 

秀親は、蝋燭の下で書類をしたためている。隙だらけである。

利昌は、その背後から飛び掛かった。気配で振り向いた秀親の右手を押さえた利昌は、その胸を脇差でひと突きに突いた。さらに左肩に斬り付け、「あっ」と仰け反った秀親の喉から口を脇差で刺し貫いた。

(『江戸三〇〇年 大名たちの興亡』から引用)

 

赤穂事件では、吉良邸討ち入りの前哨戦として、江戸城内の「松の廊下」にて刃傷沙汰がありました。「延宝の忠臣蔵」の前哨戦は、上野寛永寺でおこなわれる五代将軍・綱吉の法要にまつわる「秀親のいやがらせ」でした。内容は、吉良が浅野内匠頭に行ったイジワルによく似ています。しかし、このとき利昌は「ガマン」しました。

 

ひとりぼっちの討ち入りは、翌日の未明に決行されました。背後から襲いかかったあと、あいさつ代わりの「ひと突き」。さらに斬りつけることによって戦意を喪失させる。フィニッシュは、刀の切っ先を喉元から口にむかってグサリと刺し貫く。プロの仕事です。

 

恨みを果たした前田利昌は、幕府から切腹を命じられます。加賀七日市藩も取り潰しになりますが……幕府は「赤穂事件」の教訓を活かして、旧・七日市藩を本家である加賀藩に返還しています。めでたし、めでたし!?
 

歴史とは「因果応報」である

『江戸三〇〇年 大名たちの興亡』は、歴史好き・歴史通を自認している人にとっても、さらなる学びを得られる歴史ガイドブックです。

 

たとえば、土佐藩の山内容堂を知っていても、おなじ土佐藩分家の当主である「山内豊福(やまうち・とよよし)」を知っている人は多くありません。

 

幕末期の土佐藩といえば、山内一豊以来の徳川恩顧の家柄でありながら、薩長同盟の仲介役をつとめた坂本龍馬を輩出したり、軍事力による倒幕を想定した薩土密約を結んだり、親しかった徳川慶喜に「大政奉還」を建白することで約260年間におよぶ幕府支配にトドメを刺すなど、時代の風向きをうまく読むことに長けているイメージがあります。

 

山内豊福は、麻布山内家の5代当主です。「麻布」の名でわかりとおり、江戸定府の分家であり、本家以上に徳川将軍家に親しみを感じている家柄でした。結論を述べると、幕末~明治にかけての勝ち組・山内一族であるはずの豊福は、非業の死を遂げます。くわしい経緯は、本書『江戸三〇〇年 大名たちの興亡』を手にとって確かめてみてください。

 

 

【著書紹介】

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江戸三〇〇年 大名たちの興亡

著者:江宮隆之
出版社:学研プラス

関ヶ原を生き抜いた大名たちの次なる戦の相手は徳川幕府だった! 大名統制に必死だった幕府は、外様はおろか譜代や親藩も改易に。関ヶ原でもっとも得をした武将から、幕末に家臣を残し自ら脱藩してしまった藩主まで。 大名VS幕府264年の攻防の変遷!

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