綺麗な文字を書く人を私は無条件で尊敬してしまう。なぜなら私の書く文字は時として自分でも何と書いたのがわからなくなってしまうほどの乱筆だからだ。ある編集者から「ワープロやパソコンは君のような人のために生まれたようなものだな」としみじみ言われたこともあるくらいだ。
だからこそ他人の書いた文字にはとても興味がある。『文字に美はありや』(伊集院 静・著/文藝春秋・刊)を思わず手に取ったのもそのような理由からだ。本書は歴史上の偉大な人物たちが書いた文字を一挙に紹介し、伊集院氏がわかりやすく解説した一冊。文字の誕生から現代のロボットによる書まで、すべてを教えてくれる。
龍馬の恋は「龍」の一文字からはじまった
人の手が書く文字、書というものは、そこにその人の気持ちがあらわれるものだという。
幕末の英雄、坂本龍馬は生涯に多くの手紙を書いたが、現存するものは130通あまりだそうだ。龍馬の文字の特徴は躍動感があり、ひらがなは特に自由奔放だと伊集院氏は解説している。本書には龍馬の手による「龍」が載っている。
文字の勢いは義之の書の勢いを感じさせる。龍馬が幼少で学んだ手本の文字が義之の書であったかは定かではない。定かではないが、『千字文』(子供が書を学ぶために作られた異なる千字の漢字で構成された手習い文)を見て書いていれば、その基本は遣唐使たちが持ち帰った王義之の文字である。
(『文字に美はありや』から引用)
さらに、お龍との恋も「龍」の一字からはじまったらしい。お龍が茶を運んできた折、龍馬が彼女に名前をたずねると、お龍は龍馬の手のひらに”龍”の文字を書いたとの逸話があるそうだ。
英雄はくすぐったくも嬉しくもあったろう。「そいはわしの”龍”と同じじゃきい」龍馬が叫んだかどうかは知らぬが、 義之の”龍”を医者の娘である龍も手習っていたことは十分考えられる。
(『文字に美はありや』から引用)
さて、龍馬もお龍も手本としたらしいのが王義之の書。“書聖”と呼ばれている人は、今も昔もこの王義之ただ一人だそうだ。
王義之の前にも後にも彼を超える書家はあらず
今、私たちが目にする高級料理店のメニューの文字、仕舞ってある卒業証書の文字、麻雀牌の“九萬”の字……、などなどの手本になっているのが王義之が書いた文字と言われている。
“書聖”と呼ばれるのは世界で彼一人。西暦303年に生まれた人だからおよそ1700年後の今日まで彼の文字は峰の頂にいるのだ。音楽、絵画、小説などの創作分野で一人の作品が範であり続ける例は他にはない。王義之の生きた時代が書の草創期だったこともあるが、楷書、行書、草書のすべての字を残し、以後、現代に至るまで皆がこれにならってきたのだ。
ところが、その真筆は世界中のどこにも存在しないという。それは中国の歴代皇帝が彼の書を欲しがり、唐の太宗などは中国全土に散在していた義之の書の収集を命じ、手に入った名品を宮中の奥でかたときも離さず、没すると陵墓に副葬させてしまったのだそうだ。このような愚行が王義之の書を幻にしてしまったというわけだ。
しかし、その模写は残った。唐時代の初期、模写専門の職人が素晴らしい模本技術を開発、髪の毛1本の細さを重ねて書の筆の勢い、カスレまでを再現したのだそうだ。これが大評判となり、日本からやって来ていた遣唐使たちも持ち帰った。こうして王義之の文字が海を渡り、日本における書、字体の手本となったというわけだ。
この本では王義之の最高傑作と呼ばれる『蘭亭序』についても詳しく解説されている。
信長、秀吉、家康。天下人の書とは?
伊集院氏は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の自筆の書を比較し、独自の解説をしているのだが、この項もとてもおもしろい。それぞれの一部分を引用してみよう。
信長は書というものを自分らしいかたちで書くことを本望としていたのかもしれない。伝信長所用の陣羽織同様に、デザインというものが、当時、理解できていた唯一の武将かもしれない。それが秀吉、家康との違いとも言える。自筆の書から見えるのは、信長のモダニズムと言ってもいいだろう。
(『文字に美はありや』から引用)
秀吉の書は自由でおおらか。当時はすでに書には流派、手習いの風習があったが秀吉の書にはその形跡がないという。おそらく独学で書のトレーニングをしたのだろうと伊集院氏は見ている。
天下人まであとわずかとなった秀吉の書は、実に堂々としているし、あきらかに筆遣いが達者になっている。紙質も上質になったであろうが、墨の入れ方も修練をしている。ここに秀吉の生きざまがうかがえる。
(『文字に美はありや』から引用)
家康の自筆は、孫娘、千姫に送った手紙が取り上げられている。
家康の他の書状の字を見ると、文脈も簡素で要点をまぎれがないように伝えてあり、正直、固い文字が多い。ところが千姫に宛てた書はまことに丁寧で、思いが込もる。
(『文字に美はありや』から引用)
さて、天下を取ったこの三人の戦国大名に共通するのは、書は重要なものではなかったことと、伊集院氏は結論づけている。その証拠に書が達者であったと言われる武田信玄、上杉謙信は天下を取ることができなかった、と。
本書では、この他にも、“弘法も筆のあやまり”の空海、スペインの画家ジョアン・ミロの書を題材にした絵画、水戸黄門、大石内蔵助、近藤勇、西郷隆盛、松尾芭蕉、夏目漱石、井伏鱒二、太宰治、高村光太郎、立川談志、ビートたけし、など偉大な人々の書いた文字を取り上げている。
また、巻末では伊集院氏が書道ロボット“筆雄”と対面したエピソードもあり、これもとてもおもしろい。
書、文字は何であるのかを深く掘り下げた読み応えのある一冊だ。
【著書紹介】
文字に美はありや。
著者:伊集院 静
発行:文藝春秋
歴史上の偉大な人物たちは、どのような文字を書いてきたのか。1700年間ずっと手本であり続けている”書聖”の王羲之、三筆に数えられる空海から、天下人の織田信長、豊臣秀吉や徳川家康、坂本龍馬や西郷隆盛など明治維新の立役者たち、夏目漱石や谷崎潤一郎、井伏鱒二や太宰治といった文豪、そして古今亭志ん生や立川談志、ビートたけしら芸人まで。彼らの作品(写真を百点以上掲載)と生涯を独自の視点で読み解いていく。2000年にわたる書と人類の歴史を旅して、見えてきたものとは――。この一冊を読めば、文字のすべてがわかります。「大人の流儀」シリーズでもおなじみの著者が、書について初めて本格的に描いたエッセイ。