幸福な偶然
共通の知り合いを通して出会った二人は、すぐに意気投合し、互いをパートナーと考えるようになる。その経緯は『ここから始まる 人生100年時代の男と女』にも記されているが、猪瀬は亡き妻と蜷川が誕生日と血液型が同じという偶然を「運命だと思う」ととらえた。
そして「あなたを理解できるのは、僕しかいません。なぜなら僕は、作家で評伝を書いている人間です」と、静かに告げたという。自信家だという猪瀬らしい言葉だ。
猪瀬直樹事務所は本でできた塔
私は蜷川が2010年に2回目の個展をしたときからの知り合いだ。彼女の作品は華やかで、妖艶で、悲しく、そして、危うい。描いた本人そのものだと私は思う。
婚約パーティの前々日、猪瀬事務所にお邪魔して猪瀬直樹に初めて会うことができた。そして、驚いた。私は彼を騒がしい方だと勝手に思い込んでいた。しかし、その日書庫を隅々まで案内してくれた彼は、穏やかで、静かな湖のような人だった。海のように波が打ち寄せるでもなく、川のように流れてもいない。鏡のように動かない静かな湖面を見ているような接し方…。
案内された書庫にもびっくり仰天した。3階まで吹き抜けになっている空間を埋め尽くす本、本、そして、膨大な資料の数々。ビルそのものが書棚になっているような作りだが、それでも場所が足りずに毛細血管のように横へ横へと広がる本、本、本。
書棚の一番上から下にいる私たちをのぞき込みながら彼は言った。「10メートルあるんです。飛び込み台と同じ高さですよ」と。
私の隣にいた蜷川が彼を見上げて笑うと、その時、初めて彼も首をかしげてにっこりした。なんともいえない恥ずかしげな表情だった。
静かな湖面にさざ波が立ったようで、私はどうしていいかわからず、上に向かって元気よく手を振った。
ここから始まり、どこへいくのか
『ここから始まる 人生100年時代の男と女』のあとがきで猪瀬はこんな言葉を綴っている。
人生一〇〇年時代、誰もが長い旅の途中にいる。(中略)
しかしそこでの人との運命的な出会いが互いに道案内と成り得ること、ではないだろうか(『ここから始まる 人生100年時代の男と女』より抜粋)
運命的な出会いの後、これから何が起こるのか。二人はどこを目指すのか。私にはわからない。けれども、二人が表現者として生きるため、懸命の努力をすることはわかる。
今回の婚約は、結婚の約束というより、「二人で一緒に意見をぶつけ合い、良い仕事をしましょう」と、指切りげんまんしているように、私には思えてならない。
人生は長い。答えが出るまで、もう少し時間が必要だろう。それこそが、人生一〇〇年時代の醍醐味である。
【書籍紹介】
ここから始まる 人生100年時代の男と女
著者:蜷川有紀、猪瀬直樹
発行:集英社
作家・猪瀬直樹と、画家・女優の蜷川有紀。男と女の最初の出会いから恋が深まっていく日々を、第一部「春よ、来い。」では、猪瀬直樹がふたりの対談形式で物語のように綴っていく。第二部「薔薇日和」では、蜷川有紀が自らの美しい挿画も多数加えつつ、日記形式のエッセイで鮮やかに描き出した二部構成。人生100年と言われる時代にあって、いつまでも好奇心やチャレンジ精神を失わずに人生を楽しむことの喜びや大切さを伝えてくれる一冊。