本・書籍
2018/10/11 6:00

ゴールの見えない介護に奮闘する女たち――『私が誰かわかりますか』

2012年に『おしかくさま』で文藝賞を受賞してから、『断貧サロン』(2014年)、『四月は少しつめたくて』(2015年)、『世界一ありふれた答え』(2016年)と、次々と話題作を発表してきた作家・谷川直子。そんな彼女の最新作は『私が誰かわかりますか』(朝日新聞出版・刊)…。老人介護を扱った小説だ。

 

 

谷川直子になるまでの日々

高齢化が進み、多くの人が悩んでいる題材を長男の嫁という立場から描いたものだという。本が届くや、すぐに読み始めた。そして、思った。「これまでの作品とは違う」と…。

 

私は谷川直子がまだ高橋直子の名前で作品を発表していた頃から、彼女のファンだった。高橋直子の人生にも興味があった。直子は、家族に慈しまれ、のびのびと神戸で育った女の子だ。大学に進学し、東京で就職を果たし、編集者として働きながら恋をして結婚。そして、作家の妻となって生きるようになった。

 

自分自身も書きたい欲求を抑えられなかったのだろう。高橋直子として作品を発表し始める。

 

高橋直子時代、彼女は『競馬の国のアリス』(1991年)や『芦毛のアン』(1992年)、『パドックのシンデレラ』(1993年)などの競馬ものや、『お洋服はうれしい』(1994年)など、読んでいる私がうれしくなるような本を書いていた。

 

 

突然の離婚

しかし、ある日、突然、離婚という選択を余儀なくされた。彼女は深く傷ついた。その後に続くつらく、暗い日々…。

 

彼女はスランプに陥る。書くどころか、生きる力さえ失ってしまった。

 

暗闇の中を歩いた数年後、彼女はかつての同級生と出会い、笑顔を取り戻し、再び筆を持つ力を得た。その同級生こそ、今はご主人となった谷川さんだ。無類の読書家でもある彼は、彼女を必死でサポートし、理解しようとした。その優しさが『おしかくさま』を完成させる助けとなったのだと、私は思う。

 

 

桃子と直子

『私がだれかわかりますか』の主人公・桃子は、東京から長崎県五島市に嫁いできたイラストレーターだ。著者と重なるキャラクターだといえよう。桃子と夫の隆行は再婚同士で子どももいない。桃子は二人でいられたらそれで幸福だと思い、五島での新しい生活を始めた。ボチボチとイラストの仕事も続けているし、それだけで十分満足…のはずだった。

 

ところが、舅の守がアルツハイマー病を患ったのを境に、状況は一変する。東京から来たイラストレーターの妻でいればよかったはずが、急に介護をになって奮闘努力する長男の嫁になるよう強いられるようになったのだ。

 

 

桃子をとりまく女性達

ふと気づくと、同じような境遇の人たちが桃子を取り巻いていた。皆、長男の嫁だからという理由で老人介護をすることになった女性達だ。これでは、ろくな訓練もしていないのにいきなり前線に立たされた新米兵士のようなものではないか。

 

たとえば桃子の親友の恭子は、わがままな義父を在宅介護している。徘徊癖のある義父を見張りながらの毎日はストレスでいっぱいだ。さらに、瞳は自分でのぞんで産んだはずの赤ん坊の世話が楽しくない。仕事に早く復帰しようと焦る日々を過ごしているが、夫はそれに気づこうともしない。それどころか少し呆けた義母を急に連れてきて、「頼むよ」と言うのである。

 

死んだ夫の両親にふりまわされる静子という女性も登場する。未亡人になってもなお、彼女の「お役目」は終わらない。家事はすべて静子がすることになっている。彼女たちの毎日には「ちょっと考えてから決めます」という余裕はない。あるのは延々続く空しい会話、ひっきりなしのおむつ替え、食事づくり、山のような洗濯物…。これらが彼女たちに次々とふりそそぐ。いや、強襲すると言うべきか。これではまるで千本ノックではないか。

 

 

これから始まる大レース!?

それでも、『私が誰かわかりますか』は、陰々滅々とした小説ではない。不思議なほどの明るさに満ちている。何かこう、全力疾走しながら借り物競走をしている女たちを見ているようだ。もしかしたら、介護とはヒトが生きるためにどうしても必要なレースのようなものなのかもしれない。

 

走りながら叫ぶ彼女たちの会話が聞こえてくるようだ。

 

「ねえ、桃子さん、どこなの? ゴールは?」
「こっちよ、こっち」
「どこだってば?」
「えーーっと、たしか、ここ…。あ、ごめん、お父さん、小便したいて言ってるから~。私、ちょっと抜けるわ」
「え~~!! 今、どこか行くわけ? ま、いいか。じゃ、またね」
「またね~。けどさ~。そもそもゴールなんてあるのかな~」
「……」
「なくちゃ困るけどさ~」

 

 

着いたところ、そこがゴール

頑張る女達にゴールがあるのか、ないのか。『私が誰かわかりますか』に、その答えが書いてあるわけではない。おそらく誰にもわからないのだ。ゴールがあるのか? それはどこか?

 

わからない方がいいのである。わかったら、人は皆、生きる力をなくしてしまうに違いない。老いという暗いトンネルの先にゴールがあろうがなかろうが、私たちは目をつぶってでもそこを駆け抜けていかなくてはならない。時には誰かの手をひいて。

 

そして、時には、自分ひとりで。着いたところ、そこがゴールだ! きっと。

 

【書籍紹介】

わたしが誰かわかりますか

著者:谷川直子
発行:朝日新聞出版

文藝賞受賞作『おしかくさま』で本格的にデビューした実力派作家が、実体験にもとづいて「世間体」の影響力を描いた新たな「介護・看取り」小説。

再婚を機に東京から地方都市に移住した桃子を待っていたのは、長男の嫁としてかかわる義理の父の介護だった。アルツハイマー病の夫を三年老々介護した義理の母がついに白旗を上げたとき、「長男だからおやじを引き取るべきだ。ホームに入れたら世間がなんと言うかわからない」と夫に言われて桃子は悩む。介護の押し付け合い、グループホーム入所後のケア、入院先での付き添い、老健施設への移行。何が正解かわからないまま、しかたなく介護を続ける桃子の前に、必ず世間体が姿を現す。

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