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2018/12/19 21:45

天才棋士はいかに「うつ」と向き合ったか?――『うつ病九段』

うつ病九段』(先崎 学・著/文藝春秋・刊)は将棋のプロ棋士である先崎 学が、2017年に突如発症したうつ病に対してどんな手を打ったか? 克服のために何をしたのか? について、自身の思いを書いたものだ。

 

先崎 学といえば、故米長邦雄永世棋聖の弟子としても名高い棋士だ。将棋を知らない私でさえも「天才先崎」として著名な方だと知っている。

 

 

マルチな才能を持つ先崎 学

先崎 学は多才な方だ。文筆の才能があり、週刊誌で連載を持ち、数多くのコラムを書き、もちろん著書もある。タレントとしても人気を集め、将棋解説も面白くわかりやすいと評判だ。そして、映画製作にも協力するようになるなどまさに八面六臂の活躍を続けていた。

 

それだけではない。綺麗な奥様もいて、破天荒ながらも幸福な家庭を築いている。公私ともに充実している。これが私の彼に対する印象だった。

 

もちろん、勝負の世界に生きる方だから辛いことも多いだろう。しかし、先崎学ならその明るさと頭の良さと、そして良い仲間や家族に助けられ、これからもその才能を惜しみなく発揮していくことだろう。ところが……。

 

 

先崎 学に何が起きたのか?

さらなる活躍を期待されていた先崎 学が、突如、病に倒れる。それも「うつ」という病に……。病状は重篤で、彼は休業にまでおいこまれた。2017年、夏のことだ。

 

棋士になって30年間、千を超える対局を戦い抜きながらも、彼は一度も不戦敗をしたことがなかった。勝っても負けても、とにかく指し続けたのだ。そんな彼にいったい何が起こったのか?

 

『うつ病九段』は、棋士から急転直下病人となった先崎学が、自らを観察し自分を鼓舞しながら描き切ったうつ病との戦いの記録である。

 

 

発病の日

うつ病を発病したときのことを先崎は以下のように記す。

 

私ははっきりとその日を書くことができる。それがはじまったのは、六月二十三日のことだった。なぜ、わたしのようなずぼらで日記などつけたことのないような人間が、こうしてピンポイントに日付を書けるかというと、その前日が私の四十七回目の誕生日だったからである。

(『うつ病九段』より抜粋)

 

発病初日、47才の誕生日を彼は幸福に過ごしている。家族でインド料理を食べてビールも飲んだ。自分は元気で楽しく余裕ある生活を送っているという自覚もあった。

 

ところが、翌朝、事態は急変する。ひたすらだるく、頭がぼーっとして、ソファから起きあがることができない。疲労が体中に充満しているという感じだ。

 

 

死への誘惑

7月中旬、とうとうその日が来た。「うつ病とは死にたがる病気だ」と、思い知るその時が……。

 

対局にいくため家を出た彼は、電車に飛び込みたくなる誘惑にその身をゆだねたくてたまらない焦燥感に苦しんだのだ。ホームから身を投げる何十回もイメージが頭の中をかけめぐり、さあ、実行しろという誘惑が背中を押す。

 

その事情を本人でなければ書けない筆致で彼は見事に描いている。

 

健康な人間は生きるために最善を選ぶが、うつ病の人間は時として、死ぬために瞬間的に最善を選ぶ。苦しみから逃げるためではない(少しあるかもしれない)。脳からの信号のようなもので発作的に実行に移すのではないだろうか。

(『うつ病九段』より抜粋)

 

背中がぞくっとする。きっとそうなのだろうと思うからだ。「良かったですね、誘惑に負けずに、本当に良かったですね」と、言いたい。

立派なうつ

先崎 学は幸運な人でもあった。兄が優秀な精神科医だったので、すぐに正しいサポートを受けることができたからだ。弟の様子を知った兄は、はっきり言い切ったという。医者らしい率直さで。

 

「これは軽うつ状態とか精神的不調なんかじゃなく、立派なうつ病なんだ」と。

 

うつ病は病気である。だったら治さなくてはいけない。そのために彼がしたこと。それは、しばらく将棋を休むと決心することだった。絶対にしなかった不戦敗をも受け入れなければいけない。幼いころから、将棋一筋で生きてきた彼にとって、1年近く将棋から離れることは、想像するだけでまさに死に匹敵する苦行であったろう。

 

しかし、彼は選択した。兄の「将棋を指すなんて無理だよ。全然無理」という言葉が、迷いを払拭してくれた。さらに、碁のプロ棋士である奥様の支え。家族の大きなサポートを受け、彼は精神科に入院した。

 

 

徳俵を行ったり来たり

もちろん、入院すればうつ病がすぐに治るというわけではない。それでも、投薬と休養によって彼は少しずつ元気になっていった。色を失っていた世界も次第に元の色彩を取り戻していく。

 

ただし、「はい!よく頑張りました! これで完治ね」というほどうつ病は簡単なものではないようだ。良くなったかと思うと、またどん底へ落ちそうになる。

 

うつには、まるで徳俵があるようだった。もう治ったんじゃないかと思ったら軽くぶり返してくる。

(『うつ病九段』より抜粋)

 

 

天才的な病人

『うつ病九段』を読んでいる間、幾度となく私は涙を流した。必死でうつ病から抜け出そうともがく先崎学。何とかして弟を助けようとする兄の血みどろの戦い。その記録は涙なしでは読めない。

 

兄は言った。

 

うつ病患者というのは、本当に簡単に死んでしまうんだ。(中略)究極的にいえば、精神科医というのは患者を自殺させないというためだけにいるんだ。

(『うつ病九段』より抜粋)

 

もし、あなたがなぜだかわからない憂鬱にとらわれ、それが長く続いていたら専門医に診せた方がいいと思う。たとえ精神科医のお兄さまがいなくても、誰かの助けを得ながら、なんとかうつ病を克服していくしかない。死の誘惑に身をゆだねるその前に。

 

うつ病で入院したことを隠さず天下に公表し、闘病の様子を詳しく描ききった先崎 学。天才棋士は、天才的な病人でもあったのだと、私は思う。

 

 

【書籍紹介】

うつ病九段

著者:先崎 学
発行:文藝春秋

「ふざけんな、ふざけんな、みんないい思いしやがって」。空前の藤井フィーバーに沸く将棋界、突然の休場を余儀なくされた羽生世代の棋士。うつ病回復末期の“患者”がリハビリを兼ねて綴った世にも珍しい手記。

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