本・書籍
2021/12/7 6:15

16世紀、リスボンからウィーンまで歩いて旅をしたインド象がいた——『象の旅』

象の旅』(ジョゼ・サラマーゴ・著、木下眞穂・訳/書肆侃侃房・刊)は、ノーベル賞作家のサラマーゴが最晩年に書き上げた史実に基づいた物語だ。ジョゼ・サラマーゴはポルトガルの小さな村アジニャガの貧しい農家に生まれ、学校に通ったのは小学4年までだという。さまざまな職業を経て、60歳で作家になり、80歳になった1998年ポルトガル圏の作家として初のノーベル文学賞を受賞した。

 

本書を書くきっかけになったのは、オーストリア・ザルツブルグの「象」という名のレストランの店内に並べられた木製の彫刻を目にしたからだそうだ。

 

列の端には、リスボンのべレンの塔があった。それに続いてさまざまなヨーロッパの建造物や史跡が並んでいたのだが、それは明らかに何かの旅程を示していた。そして、あれは象の旅程である、十六世紀、正確には一五五一年、ジョアン三世の治世時にその象はリスボンからウィーンまで連れてこられたのだ、と教わった。

(『象の旅』から引用)

 

サラマーゴはここに物語があるとピンときたのだと、前書きで記している。

ポルトガル国王からオーストリア大公への婚儀の祝い

物語は、ポルトガル国王のジョアン三世とその妻であるカタリナ王妃との語らいから幕を開ける。国王は4年前に従弟のオーストリア大公マクシミリアンに贈った婚儀の祝いが、彼の家柄にふさわしくなかったと考えていた。もっと高価な、その目を驚かせるような贈り物はないかと探り当てるべく話しているとき、王妃が象のソロモンが結婚のお祝いにふさわしいとひらめいたのだ。

 

その象は、インドからポルトガルにやってきて2年が経っていたが、鎖につながれているばかりで、食べて寝るだけで何の役にもたっていなかった。だったらウィーンに送ってしまい、あとはマクシミリアン大公に任せようと思いついたのだ。当時、象は誰も見たことがない動物で、皆の目を驚かせることは間違いなかった。幸い、マクシミリアン大公はそのときスペインの摂政としてバリャドリードにいた。リスボンからバリャドリードまでポルトガル軍がソロモンを連れて行けば、その後の旅はあちらに任せればいいというわけだ。

 

こうして、象のソロモンとその世話係で象遣いのインド人スブッロの波乱万丈の壮大な旅がはじまることとなったのだ。

 

旅程での出来事はサラマーゴの創作

サラマーゴは本書を書くにあたり、必要な史料を集めようとした。しかし、リスボンを出発し、スペインのバリャドリードに向かったこと、カタルーニャの港からイタリアのジェノヴァまでは船で渡ったこと、そして、ウィーンに着いてからの逸話は見つかったものの、道中の出来事に関しての史料は何も見つからなかったという。リスボンからウィーンまではおよそ3000キロ弱もある。その途方もない距離を歩いた象と通り過ぎた町々で巻き起こる事件はとてもおもしろく読めるのだが、それらはサラマーゴの創作なのだそうだ。

 

護衛をする騎馬隊、象の食料である飼葉や水樽を乗せた荷車を引く牛や人、そして象の背中に乗り3メートルの視界から景色を眺めつつ象に指示を出す象遣い、それぞれの人の行動や心情が詳細に描かれている。物語のクライマックスは、パドヴァの聖アントニオ大聖堂の前で象のソロモンが前脚を折って跪くシーン、冬のアルプスで雪崩の危険がある中を黙々と進むシーン、そしてウィーンに着いてからは母親の手を振り切って象の前に飛び出した幼い少女を長い鼻で抱きかかえるシーンだ。象がいかに賢く、従順で優しい動物であるかをサラマーゴは読者に伝えているのだ。

 

ジョゼとピラール

訳者である木下さんは、1本のドキュメンタリー映画を観たことが本書を手に取ったきっかけだったと、あとがきで記している。「ジョゼとピラール」と題されたこの映画は2006年から2009年にかけてサラマーゴとその妻であるピラールの日常に密着して撮影された作品で、公開されたのはサラマーゴの死後だ。

 

冒頭ではサラマーゴが象の旅を書こうと決意するシーンがある。人間の話ではない象の話を書くのだとはっきり言っている。80歳を過ぎているのにサラマーゴは講演会、サイン会などイベントへの参加で世界中を妻とともに駆け回る。その合間に象の話を執筆していたのだ。途中、サラマーゴは病に倒れ、『象の旅』は未完のまま終わってしまうのかと思われたが、献身的な妻の支えで復活し、物語を完成させた。本書の最初には、”私を死なせなかったピラールに”という妻に捧げる一文がある。

 

私は本書を読み終えてから、このドキュメンタリー映画をYouTubeで観た。映画の監督が自ら公開しており、日本語字幕は本書の訳者である木下さんが担当している。「jose e pilar japanese subtitles」で検索すれば、無料で見られるので、本書を読んで、さらに映画を観るとサラマーゴが伝えたかったことがよく理解できるだろう。

 

象は大勢に拍手され、見物され、そして忘れられる

映画の中でサラマーゴは、「もっと書く時間がほしい」と語っていたことが胸を打ったが、この本の主人公である象のソロモンにも、生きる時間は少なかった。長い長い旅をしてやっとウィーンに着いたものの、2年後には死んでしまったからだ。

 

ソロモンは皮を剥がれただけでなく、前脚を切られ、それは、洗ったり皮をなめしたりといった必要な処理を施されたあと、宮殿の入り口に置かれて杖や雨傘や日傘を立てるものとなった。跪いたところで、ソロモン自身にはなんのご利益もなかったのはご覧の通りだ。

(『象の旅』から引用)

 

3000キロも歩いたソロモンの脚が死後に受けた扱いに、サラマーゴは憤り、そこに文学があると確信したという。

 

象は、大勢に拍手され、見物され、あっという間に忘れられるんです。それが人生というものです。

 

本書の帯にある一文は、人の一生も象と同じように不条理なものであるという作者の思いが凝縮されているのだ。

 

動物が好きな人、歴史が好きな人、そしてサラマーゴをもっと知りたい人にすすめたい一冊だ。

 

【書籍紹介】

象の旅

著者: ジョゼ・サラマーゴ(著)木下眞穂(訳)
発行:書肆侃侃房

ノーベル賞作家サラマーゴが最晩年に遺した、史実に基づく愛と皮肉なユーモアに満ちた作品。1551年、ポルトガル国王はオーストリア大公の婚儀への祝いとして象を贈ることを決める。象遣いのスブッロは、重大な任務を受け象のソロモンの肩に乗ってリスボンを出発する。嵐の地中海を渡り、冬のアルプスを越え、行く先々で出会う人々に驚きを与えながら、彼らはウィーンまでひたすら歩く。時おり作家自身も顔をのぞかせて語られる、波乱万丈で壮大な旅。

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