エンタメ
2020/12/29 20:30

ガースーこと菅 賢治プロデューサーが今考える「バラエティ番組」のこと。

『踊る!さんま御殿!!』『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』『太田上田』などなど、数多くのバラエティ番組を手がけてきたプロデューサー・菅 賢治。明石家さんまやダウンタウンといったレジェンドたちとの出会いから、テレビのバラエティ番組の未来についてまで大いに語ってもらった。

(構成・撮影:丸山剛史/執筆:猪口貴裕)

 

日本テレビを卒業して圧倒的に自由になった

――2014年3月31日付で日本テレビを退職されましたが、現在はどのような活動がメインなのでしょうか?

 

 番組は『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系)をそのままやらせていただいて、日本テレビ卒業後に新しく始めたのが中京テレビの『太田上田』です。テレビのレギュラーはその2つで、最近だとNETFLIXの『Jimmy〜アホみたいなホンマの話〜』を(明石家)さんまさんとプロデュースしました。まだ詳細はお話できないのですが、さんまさんとアニメの制作も進めています。あと今年はコロナでほぼなくなってしまいましたが、例年は講演会で日本中を飛び回っています。

 

――バラエティ以外でも多方面で活動しているんですね。

 

 「テレビを卒業」と言ったらおこがましいんですけど、テレビ以外のことを、いろいろやってみたかったんですよね。

 

――『踊る!さんま御殿!!』は総監督という立場ですが、どのように番組に関わっているのでしょうか。

 

 キャスティングやラテ欄の最終決定、収録の立ち合いなどです。会議などには一切参加しないで、結果だけを送ってもらってます。

 

――『太田上田』はどのようなきっかけで始まったんですか。

 

 もともと二人(太田光・上田晋也)とはそれぞれ仲良くさせてもらっていて、楽屋で二人が仲良く話しているところを昔から見ていたんです。楽屋話を、このまんま番組にできないかなと思っていて、僕が卒業させてもらうときに、それぞれの事務所に挨拶に行きました。「ただただ二人が話すだけの番組をやりたいんですけど」と相談したら、どちらも快くOKしてくれました。最初の9か月はBeeTVでやらせていただいて、僕も二人ももっと続けたいねという話になったんです。年数が長くなればなるほど面白くなっていくし、一過性で終わるような番組ではないなと。それで幾つかのテレビ局にご相談させていただく中で、中京テレビさんに手を上げていただいて、もう5年以上になります。

 

――普段の太田さん、上田さんとは違う空気感が番組全体に流れていますよね。

 

 お互いに新鮮なんじゃないですかね。上田さんは自由にボケられる番組が他にないじゃないですか。過去に僕がチーフプロデューサーとして関わっていた『おしゃれイズム』にしても司会業ですからね。だから『太田上田』のときは、お互いに好きにボケて。やっぱり芸人さんってボケたいんですよ。太田さんも田中(裕二)さんのツッコミとは違う面白さがあるでしょうし。昨日も収録だったんですけど、二人が楽しそうにやっているのを見ると、やってよかったなとつくづく思います。

 

――『太田上田』の企画はどのように決めているんですか?

 

 僕は「〇〇のコーナー!」みたいなのが苦手で、自分の番組では1回もやったことがないんですよ。コーナーが当たると、そのコーナーが番組全体を引っ張ってくれるので楽なんですけど、外した場合に「次のコーナーどうするの?」ってなるんです。それよりも番組全体にパワーがあるほうがいい。だから二人が面白くなるようにゲストやロケ場所を決めます。『踊る!さんま御殿!!』も一緒なんですよ。さんま師匠が面白くなるようにゲストを決めるんです。『太田上田』のゲストでフワちゃんに来てもらった回があるんですけど、それも太田さんとの関係性が面白かったからで、時の人だからってゲストを呼ぶ気は全くないんですよね。

 

――『太田上田』はHuluのほかに、YouTubeの公式チャンネルで過去回を見ることができるので、幅広い層が見てるのではないでしょうか。

 

 僕は15年ぐらい前からローカル番組というのはないと言い続けているんです。公式じゃなくても、翌日にはYouTubeなどに動画が上がったり、Yahoo!ニュースの記事になったりするので、ローカル番組がどうこうという概念は、とっくの昔に捨てています。『太田上田』も開始当初は若い人の視聴者が少なかったらしいんですけど、今はYouTubeでたくさん見てくれているみたいです。電車移動中などに見るには尺もちょうどいいんでしょうね。

 

『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』以外で自分の番組に出ようとは思わなかった

――かつて総監督を担当していた『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』(以下、『ガキ』)についてお伺いしたいんですが、ダウンタウンに出会ったのは日本テレビの同僚だった土屋敏男さんがきっかけだったそうですね。

 

 そうです。つっちー(土屋)が面白いコンビがいるということで、一緒に見に行ったのがコンサートで、いわゆるアイドルとしてのダウンタウンでした。もちろん事前に漫才も見ていたんですけど、楽屋や移動中のロケバスで話をしていく中で、とんでもない人たちだなと思いました。

 

――当時のダウンタウンは尖ったイメージでしたけど、一般ウケする確信はあったんですか?

 

 ないですないです。『ガキ』も僕とつっちーが最前列で、彼らの漫才を生で見たいだけで始めましたから。当初は深夜枠でしたしね。やるからには長く続けたいとは思ってましたけど、当時の深夜番組は長くても2クールでしたから、長寿番組になるとは思いませんでした。

 

――途中からオープニングとトークの二部構成になったのは、どうしてですか。

 

 漫才もコントもやり切って、もうないですよと二人に言われたんです。だったらスタンドマイク1本でトークしましょうと。それだけだと大変ですから、こちらでオープニングを考えますということから、その形が生まれていきました、途中からは松っちゃんが中心になってオープニングも決めていくようになりましたけどね。

 

――『ガキ』のオープニングと言えば、菅さんをはじめ、スタッフが出演することも多いですが、何かきっかけはあったんですか。

 

 きっかけはヘイポー(斉藤敏豪)ですね。彼は僕と同じ年なんですけど、確か40歳手前ぐらいのときですかね。みんなでオープニングを考えていたときに、「斉藤さんは結婚しないんですか?」という質問があったんです。そしたらヘイポーが「僕だって結婚したいですよ」と言うので、どういう人がいいのか聞いたら、「そりゃあ芸能人と結婚したいですね」と。一番好きなタイプの芸能人を聞いたら、「網浜直子さんが最高ですね」と言うから、すぐにプロデューサーが連絡したらOKが出て、じゃあお見合いしようということになったんです。

 

――そんな何げない会話から企画が成立するんですね。

 

 会議が終わって、帰りがけに二人でメシを食いに行ったら、「俺ら裏方が出ることってどう思う?」とヘイポーが聞いてきたんです。というのも、実はヘイポーも僕も自分が出るのは好きじゃないんですよ。そこで僕は「このお見合いは、あんたが一番面白いと思う」と答えました。若手のディレクターやADをチョイスしたところで、年齢的に切羽詰まってないから面白くない。タレントさんを呼んで、お見合い企画をしてもウソになる。

バラエティのきっかけはウソじゃダメなんです。きっかけがリアルだからこそ、訳の分からないことを足していけるんです。どういう気持ちで臨めばいいのか聞いてきたので、「本気で結婚したいと思ってやればいいんだ」と。視聴者に本気が伝わることで、僕たちが邪魔をしたときに面白くなるんです。だから、ちゃんと役目があればスタッフが出ても面白いということから始まったんですよね。僕自身、番組に出るときは、ぞんざいな態度で「俺が育てたのを忘れたのか。言うことを聞け!」みたいな役目があるから出ていたんです。

 

――『ガキ』以前は、どうして番組に出るのが好きではなかったんです?

 

 素人がバラエティに引っ張り出されて何かをするのって、ものすごく難しいんですよ。まず何で俺がこんなことをやらされているんだろうという気持ちを持ってなきゃいけない。かといって嫌々やっちゃいけない。やるんだったら一生懸命やりますと。でも芸人さんのように、はっちゃけちゃいけない。そんなのスベるに決まってますから。だから他の番組では、自分が出ようとは全く思わないです。

 

――『ガキ』のスタッフは、みなさん痛々しさがなくて、ちゃんと笑えるところがすごいですよね。

 

 みんな上手いんですよね。当然、ダウンタウンの二人がいるので、少々スベろうが何とでもしてくれますからね。でも、中には面白くならなくて出なくなった奴もいました。笑いって空気感ですから、出てきただけでツマらないって空気の奴もいるんですよ。そもそも裏方だから面白い空気もいらないですしね。

 

日本テレビのコント番組がスキルアップしたのはさんまさんのおかげ

――さんまさんとの出会いを教えてください。

 

 30年前ぐらいですね。僕は中途採用で日本テレビに入れてもらったんですけど、昔からさんまさんのことが大好きで、ずっと一緒に仕事したいなと思っていました。でも当時のさんまさんは“フジっ子”と言われていて、日本テレビには絶対に出ませんと公言していたんです。

 

――日本テレビで多数の冠番組をやっているので、今となっては信じられないですね。

 

 ある日、さんまさんがやっていたTBSのラジオ番組を聴いていたら「フジテレビで社長賞をもらって全自動麻雀卓をいただきました。この際、各局からいろんなものを持ってこさせようか。寒い季節だから日本テレビには電気ストーブを持ってこさせよう。テレ朝は金がないから湯呑でええわ。電通は金を持ってるから庭にプールを作らせよう」とか好き勝手に言ってたんです。これはいいことを聞いたぞと。

1月の終わりぐらいだったと思うんですけど、まずはストーブを買って。さすがに日本テレビにプールを作る金はないから、簡易型の大きなビニールプールも買って。その放送の翌週、同僚と一緒に「日本テレビです。ストーブとプールを持ってきました」と持って行ったら、すごく喜んでくれたんです。「日本テレビにも、お前らみたいにシャレの分かる奴がいるんだな」と言ってくれて。そのことをラジオでも話してくれたんですよ。それから、当時は暇だったのでラジオの収録がある毎週金曜日の夕方に一人でTBSに通ったんです。

 

――他局の社員なのにTBSは受け入れてくれたんですか?

 

 そうなんです。TBSの人も親切で、差し入れのケーキをくれたり、コーヒーを出してくれたりしました。でも、そのうち針の筵みたいな気持ちになったんです。他局の人間が毎週あつかましく通っている訳ですから、僕としては「迷惑だからやめてください」と言ってくれないかなと思っていました。やめるきっかけがなかったんですよね。

 

――その間、さんまさんとは会話があったんですか?

 

 最初はあったんですけど、徐々に話すこともなくなって、挨拶を交わす程度でした。それで通い始めて2か月ぐらい経ったときに、ついに鈴木さんというラジオの責任者から「放送が終わったらお話いいですか?」と声をかけられました。渡りに船だと近くの喫茶店に行って、「毎週すみませんでした」と謝ったんです。そしたら「さんまさんは挨拶しかしてないようで、菅さんのことはよく見てます。だから諦めずに来てください」と。

 

――出入り禁止を言い渡されるどころか、これからも来てくださいというお話だったんですね(笑)。

 

 その後も「また行かなきゃいけないのか……」と思いながらも毎週通っていたら、さんまさんから「菅君、これ終わったら空いてる?」と声をかけられました。鈴木さんを見たら、「ほらね」という表情を浮かべてました。それで収録後に二人きりで喫茶店に行ったら、開口一番、「とりあえず企画書見ようか。番組をやりたくて毎週来てるんだろう?」と言われたんです。でも番組のオファーのために通っていた訳ではないので、本気で「友達になりたくて来てます」と言ったら、「は?」って反応で。「俺ら大人やんか。友達になりたいのは分かるけど仕事ありきでしょう。それから友達になっていくのはいいことだけどさ」ってバカを諭すように仰って。「とにかく特番を1本やるから来週まで考えてきて」と言われたんです。

 

――急展開ですね!

 

菅 さんまさんと別れて、すぐに会社に電話をかけて、「さんまさんが特番やってくれますと仰ってました」と報告したら、「本当かよ?」と。それまでは何のために菅は毎週通ってたんだって不審に思われていたのが、さんまさんが日本テレビに出てくれると大騒ぎになりました。そして翌週、3本ぐらい特番の企画書を持って行ったんです。その企画書に目を通して、「これはこれとして」と仰ったんですけど、後で分かったのは、さんまさんの「これはこれとして」はダメってことなんです。

 

――じゃあ特番の話はなくなったということですか?

 

 それが「1週間考えたんだけど、菅君は俺と友達になりたいんだから、1回限りの特番じゃなくてレギュラーをやろうか」と仰ったので、「マジですか?」と。「レギュラーだったら仲良くなれるやんか。それにレギュラーだったらやりたいことがある」と言うので、会社に戻って編成局長に報告したら、前回以上の大騒ぎです。特番と違って、レギュラーだと番組を1本終わらせないといけないですからね。でも、さんまさんが十数年ぶりに日本テレビでレギュラーをやってくれるんだったら絶対にやろうと。それで始まったのが『さんま・一機のイッチョカミでやんす』というコント中心のバラエティ番組で、さんまさん、小堺一機さん、ラサール石井さん、松尾伴内さんがレギュラーで、準レギュラーでジミー大西さんなどが出演しました。

 

――さんまさんと縁の深いメンバーですね。

 

 ただ日本テレビにコントのノウハウがなかったんです。もともと日本テレビは『シャボン玉ホリデー』を制作していただけあって、コント番組はお家芸だったんです。でも、こういう芸事って伝承芸ですから、番組が終わると受け継ぐ人がいない。僕も含めて、カメラマンさんも美術さんもコントをやったことがなかったんですよ。スタッフは台本通りにやろうとするけど、もちろん芸人さんはアドリブも入れてくる。そうするとチーフカメラマンが「台本と違うけどどうするの」って戸惑ってしまうんです。見かねたさんまさんが「本当にみんなコントの作り方を知らないんだな。じゃあ次の打ち合わせからは技術さんも一緒にやろう」と提案されて、みんなで打ち合わせをするようになりました。技術も美術も含めてさんまさんに一から教えてもらったようなもので、あれで日本テレビのコント番組はスキルアップしました。

 

新入社員には行儀だけを厳しく教える

――80年代から93年まで、フジテレビは三冠王(※ゴールデンタイム:19時-22時、プライムタイム:19時-23時、全日:6時-24時で視聴率トップを取ること)を独占していましたが、94年に日本テレビが四冠王(※上記の3つにノンプライム:6時-19時、23時-24時を加えて視聴率トップを取ること)に輝き、10年間に渡って君臨します。

 

 初めて四冠王を取ったときは、めちゃめちゃうれしかったです。一方では今でもなんですけど、フジテレビさんを目標にしたいし、いつまでもバラエティの王者でいてほしいという思いもありました。それを追っかけるのが楽しかったんですよね。その後も日本テレビの天下が続きましたけど、そうすると番組改編も少なくて、ほぼ番組が一緒になるんです。これでは、若い連中はバッターボックスに立つこともできないなと。このままだと次の世代に伝わっていかないぞという危惧がありました。

 

――その状況を打開するために何かしたことはあったんですか?

 

 個人的にやったのは、『踊る!さんま御殿!!』には必ず若手のディレクターを入れて、一通りの業務を覚えてもらいながら、「自分の企画書を出しなさい」と言ってました。それで企画が通ったら卒業して、ダメだったら戻ってきてもいいと。戻ってくる場所がゴールデンで、さんまさんの番組なら、誰も文句は言わないですしね。だから『踊る!さんま御殿!!』から育ったディレクターはたくさんいますよ。

 

――若手を指導する上で何を大切にしていましたか。

 

 新入社員で僕のところに入ってきたら、とにかく行儀だけは厳しく教えます。1年間、行儀だけ学べばいいんだよと。行儀がいいと、どんな人に対してもちゃんと接することができるから結果的に可愛がられるんです。若手じゃなくなってからも、僕は行儀に厳しいですよ。たとえば芸能事務所のマネージャーさんがプロフィールを渡しに来るんですけど、座ったまま「あいよ」なんて受け取ったら、「ちょっと待てよ! 立ち上がって両手でもらえ」と注意します。

その昔、僕らの先輩はふんぞり返って、「そこ置いといて」なんて言ってました。その経験をしたマネージャーさんが後になって、「菅さんの先輩には、ずいぶん厳しくされて悔しい思いをしました」と言ってくるんですよ。丁寧に受け取るだけで、どれだけマネージャーさんはうれしいだろうかと。丁寧に接すると後々、ブッキングなどで無理を言っても融通してくれますし、結局は自分に返ってくるんです。

 

――若いころに優しく接してもらった恩って忘れないですしね。

 

 よく僕が若手に言うのは、「今のお前が、10年後のお前を助けるかもしれない」ということです。たとえば太田光代さんが芸人になる前にモデルをやっていた時代、僕の関わっていた番組に出てくれたらしいんです。モデルさんを10人ぐらい集めたロケで、厳しく接するスタッフがいたらしいんですけど、僕はゴハンのときに「今日はありがとう」と一人ひとりに伝えて、光代さんとも話したらしいんです。僕としては無意識に接していたんですけど、光代さんは「この人のことは一生裏切らないようにしよう」と思ったそうです。その後、僕がブッキングで困っていたときに、光代さんは差し迫っていた時期にもかかわらず、快く爆笑問題を司会に出してくれたことがあります。僕が日本テレビを辞めてからも、前より仲良く付き合ってくれています。

 

――たとえば『踊る!さんま御殿!!』を若手に任せるときに不安はないんですか?

 

 もちろん心配はありますけど、僕は任せると言ったら絶対に任せるんです。口出しはしませんし、編集所にも行きません。僕自身が先輩に干渉されるのが嫌でしたからね。任せるときに言うのは「俺に向けて編集するなよ」と。失敗するのは構わないけど、お前が番組をやる意味は、俺を意識した瞬間でなくなるよと言ってます。番組を守っていくのは若手。『踊る!さんま御殿!!』が長く続いているのも若手のおかげなんです。

 

――なるほど。長寿番組も若手の台頭が必要不可欠なんですね。最後の質問ですが、フリーになって番組の関わり方も変化しましたか?

 

菅 圧倒的に自由ですよ。訳の分からない会議に出なくていいんですから。人間って60分以上を超えると頭が働かないと思っているので、僕の会議は社員時代からえらく短かったです。何時間も会議をやって、何の結論も出ないのに、それで満足して帰る人も多いじゃないですか。ただ何時間も座ってやった気になるのは錯覚です。僕の場合は60分会議をやって、結論が出なかったら宿題にするんです。「明日までに書いて送って」というと、やるしかないんです。あとは役職に就くと、いろんなトラブルが舞い込んでくるんですけど、今は自分さえしっかりしていれば問題ないですから楽ですね。

 

【プロフィール】

菅 賢治(すが けんじ)

テレビプロデューサー。1954年、長崎県生まれ。1980年、日本大学芸術学部放送学科卒業後、アメリカ放浪の旅に出る。帰国後、日本テレビエンタープライズに契約社員として入社。渡辺徹と榊原郁恵の結婚式の総合演出を担当し、視聴率40.1%を叩き出す。それを機に日本テレビ入社。その後、「踊る!さんま御殿!!」「おしゃれカンケイ」など数多くの人気番組を手がける。