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2022/5/8 20:00

撮影現場で20年目の結婚記念日。愛をつぶやくも「すぐ削除しろ」と妻に怒鳴られる映画監督の日常

「足立 紳 後ろ向きで進む」第25回

 

結婚20年。妻には殴られ罵られ、ふたりの子どもたちに翻弄され、他人の成功に嫉妬する日々——それでも、夫として父として男として生きていかねばならない!

 

『百円の恋』で日本アカデミー賞最優秀脚本賞、『喜劇 愛妻物語』で東京国際映画祭最優秀脚本賞を受賞。いま、監督・脚本家として大注目の足立 紳の哀しくもおかしい日常。

 

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4月1日(金)

撮影6日目。今日は主人公の家で撮影。底冷えする。私は極端に寒がりだ。だがスタッフの皆様は皆薄着。動いているからか?それじゃ私は動いていないみたいだが。

 

主人公の両親役の俳優さんは私の望み通りの方々で、私の演出力は皆無だが、面白い家族に見える。家族の雰囲気を出せるかどうかは、実は演出よりも脚本の時点でほぼ決まっているのではないかと感じる。活躍されている俳優さんは、ほぼどなたも演技力はおありだ。あとはその俳優さんにどれだけの脚本を提供できるかにかかっていると思う。どんなに素晴らしい俳優さんでも、つまらない脚本をとても面白いシーンに生まれ変わらせるのは不可能だ。つまり、今回の作品はとりあえず脚本の段階では面白いと私は自画自賛しているのだ。自己愛だけは深い。

 

4月2日(土)

撮影7日目。本日は終日学校の撮影。特に体育館の撮影は寒くて死にそうだったが、宿に戻ると飛騨市からラーメンの差し入れ。温まる。2杯ぺろりと食べてしまった。やばい。

 

4月3日(日)

撮影8日目。本日も終日学校での撮影。この日もとても寒かったが、昼に薬草ビレッジ構想推進プロジェクト「山水女」の皆さまから参鶏湯の差し入れをいただく。あまりに美味しくてがぶ飲みしてしまい、午後からの撮影で頻尿になる。

 

夕方、いったん帰京していた妻が再び飛騨に到着。歩きながら飲んでいたみそ汁のカップを廊下にポイ置きしていたら開口一番、「おい、ゴミ捨てんな!」と怒られた。捨てたわけではなく一時的に置いただけなのだが、現場で誰かに怒られるというのは久しぶりだ。

 

学校での撮影では地元のお子さんたちに何日もエキストラで協力していただいたのだが、みんな楽しそうに演じているどころか演技もとても上手で驚いた。出演者の子どもたちとも仲良くなって楽しそうにおしゃべりしていたから本当に良かった。もしかしたら恥ずかしがってしまうかも?と思っていたが完全に取り越し苦労だった。皆さま、本当にありがとうございました。

 

4月4日(月)

撮影9日目。本日も終日学校での撮影。この日も寒さに震える。

 

今日は飛騨市の都竹市長が陣中見舞いに来てくださり、その都竹市長と高校の同級生でもある「喜劇 愛妻物語」の代情プロデューサーも一緒に来てくださった。代情さんからは高級な飛騨牛ステーキ弁当の差し入れをいただいた。その弁当が2個余った為、仁義なきジャンケン争奪戦が繰り広げられた。私はもう49歳だが、この弁当ならもう1個は楽勝で行けるので若手に譲ることなく参戦したが、初戦敗退。悔しい。その悔しさを晴らすかのように岐阜新聞映画部の方からいただいた差し入れのお菓子を貪り食っていたら、急激な血糖値の上昇のせいか、麻酔銃に打たれたかのような睡魔に襲われ、午後の撮影が大変だった。

 

ちなみに、今日は20回目の結婚記念日だ。妻とは26年前に映画の撮影現場で出会ったのだが(私は助監督で大学生だった妻はお手伝いで来ていた。私の『使える助監督』の振りに妻がコロっとまいってしまったのが付き合いの始まりだ)、20回目の結婚記念日にもこうして一緒に撮影していることができてうれしくて、その旨をツイッターで呟いたら、私の呟きをつぶさに確認している妻から「お前、気持ち悪い呟き大至急削除しろ」とLINEが来たので削除した。

 

※妻より

つぶさに確認などしてるわけありません! たまたま見たらアホなことを呟いていたので。

 

 

4月5日(火)

撮影10日目。本日は電車のシーンの撮影だ。実際に電車を動かして撮影できるのは貴重だ。出演者はほとんど子どもたちだから撮影の終わる時間はマックスで20時と決まっている。テキパキと撮らねばならないのを本当にテキパキと撮ってどうにか19時くらいに終わる。

 

宿舎に帰って子どもたちと明日の撮影の打ち合わせを少しだけする。明日撮影するシーンがめちゃくちゃ泣けるシーンになるような気がして15分ほどだがリハーサルをさせてもらった。このリハも含め20時までに終わらなければならない。子どもたちは私の意図を瞬時に理解したようだった。みんな賢く、そしてかわいい。

 

その後、自分の宿にもどり(子どもたちとは別の宿なのだ)、気絶するように眠った。2日くらい前から宿に戻ってくるとほとんど気絶状態で、夜中の1時くらいにふと眼ざめ、風呂に入って、その日に撮るシーンの予習をするという日が続いている。宿の大浴場は24時間いつでも入れるので本当にありがたい。

 

4月6日(水)

今日も線路、電車の撮影。本日は電車を追いかけたり、並んで走ったりと今回の撮影でもっとも大変な撮影だ。カットもたくさんある。正直「これ、どうやって撮るのだろうか……?」と思っていたが、チーフ助監督の松倉君の準備と仕切り、そしてスタッフキャストの頑張りによってなんとか撮り切った。そして、昨夜15分だけリハーサルしたシーンは案の定、良いシーンになったと自画自賛しておく。いや子どもたちのおかげだ。ああ、早く見たい。

 

にしても今日の撮影はあまりにも大変で、正直後半はほとんど記憶にはない。とにかくひとつの山場は終わった。

 

4月7日(木)

撮影12日目。今日は朝が遅いので、少しゆっくり過ごした。昼は武正晴監督からの差し入れ飛騨牛朴葉焼き定食だった。暖かい食事が身に染みる。朴葉焼き、うまいなー。今回の撮影はある意味武正晴監督の差し入れ祭りのような状態になっており、昼飯だけであと2回ある。本当にありがたい。

 

昼食後、4時間の中空き。今回はふたりの19歳を筆頭に若いスタッフも多いのだが(各部署に大学生もしくはこの3月に大学を卒業したという人たちがいる)、彼らがこの撮影中に良い感じにカップルになっており、まるで修学旅行のように楽しんでいる(ように見える)。

 

自分が19歳のころのことを思うと、彼らの足元にも及ばないから修学旅行気分だろうがなんだろうが現場にいればそれでいいんじゃね? と思うが、直属の上司となるとやはりそうはいかないようで、何度か叱られている姿も目にした。叱ることは決してパワハラではないと思う(もちろん暴力は論外だが)。叱る姿も叱られる姿も私には眩しく見えた。それにしても、私のようにまったく叱らないというのもある種のパワハラかもしれない。あなたは冷たい人間だと妻から言われた。なぜ叱らないかを考えるとその通りだと思う。

 

そんな私も中空きに、妻にデートを申し込んだが秒で断られたのでマッサージに行った。撮影に猫を貸して下さった方がマッサージ店を営んでいらっしゃるので、お礼がてらに疲れた身体をほぐしていただきに行く。私がマッサージをされている間、出演してくれた猫のテンちゃんがずっと私の足元で寝ており大変癒された。マッサージもとても気持ち良かった!

 

その後、町をウロウロしていると、妻が女性スタッフと歩いているのを発見して、音をたてずに30センチ真後ろを歩いていたら、ふと振り返った妻がものすごい悲鳴をあげた。

 

中空き後、中華料理屋さんで撮影。ロケハンの時にいただいたのだが、かなり美味しいお店だ。こちらでの撮影は地元の強烈なエキストラさんのおかげで面白いシーンになり、笑ってカットがかけられなかった。よく撮影中に「奇跡が起きた」みたいな話を聞いたりするが、まさに今日は奇跡だったのではないか。きっと他の方の奇跡とは大きく意味合いが違うだろうが。

 

撮影後、消え物として作っていただいた中華料理の品々を若いスタッフたちが仕事そっちのけでたいらげている姿が美しく、頼もしいものだった。

 

妻が明日、帰京してしまうので寂しい。子ども担当の妻とは宿も別々なのだが、夜ごと地酒の一升瓶を持ち廊下をウロウロしていたという噂もある。

 

 

※妻より

夫は生き生きと楽しそうに撮影に臨んでおりました。ドカ雪やコロナなど問題てんこ盛りでしたが、無事撮影ができて良かったです

エキストラ出演してくれた大きなヒキガエルさんを連れて(夫から「絶対、絶対死なせないでね!」と願掛け扱いの無駄にプレッシャーあるミッション)、バカでかいスーツケースとバカでかいリュックで帰宅すると、最初はカエルに興奮していた息子が、数分で我に返り、力づくて私をトイレに押し込め、トイレの外には脚立、スーツケース、椅子などの要塞を作り、「トイレから一生出るな!」と泣き叫ぶこと3時間。

鳥取のおじいちゃんとおばあちゃんが居てくれましたが、新学期の緊張感が爆発したのかと思います。飛騨から自宅に戻って一瞬で現実に引き戻され、これもなかなかに大変でした。

そしてこの日から毎朝毎晩近所を徘徊しミミズとダンゴムシを捕獲しつつ、ネットで生きたコオロギを注文し、カエルさんたちにせっせと生餌を与えています。買ったコオロギも死なせないように一生懸命飼育しています。でも彼らの愛で方が、夫の愛で方同様にわかりません……。

 

4月9日(土)

撮休。のんびりする予定だったがそれどころではなかった。大きな出来事があり激しく動揺した。

 

4月10日(日)

臨時の撮休。いろいろと対策会議。

 

4月12日(火)

撮影14日目。またまた山場の撮影に緊張するが、どうにか無事に終わって良かった。数日前から毎晩撮影から戻ると、宿の方が温かい野菜スープやら、餃子やらを差し入れしてくれる。毎日寒い現場で冷たいお弁当なので(コロナ対策で蓋つき個食となる)、心から有難い。

 

4月13日(水)

撮影15日目。主人公ふたりのクライマックスシーン。長台詞だったし、感情が爆発するシーンだったので敢えてリハーサルをせずに臨んだが、ふたりは最高のお芝居を見せてくれた。飛騨に来てから役の人間として生きているのを目の当たりにしていたので、お芝居に関してはきっとうまくいくだろうと感じていたが、素晴らしかった。ふたりには直接言えなかったので、この場を借りてお礼を言いたい。ありがとうございます。

 

そんないい気分だったのだが、妻からのLINEで現実に引き戻される。4年生になった息子が絶賛行き渋り中とのこと。新しい学年になったときは毎度のことだが、やっぱりかぁ……と思うとやや気が重くなる。

 

4月14日(木)

撮影16日目。電車のトンネルの中や石だらけの線路を、スタッフが何往復も走る。サード助監督の小西君(25歳)は靴の底がすり減って、足への負担がハンパなかったのだろうが、先輩スタッフたちにむかって「いったいぜんたい僕が何往復したと思ってるんですか!」と言ったのには腹を抱えて笑った。初老に近い先輩たちは小西君以上に走っていたからだ。歩いているだけの私ですら腰と膝にきた。宿に戻ってまた温かい野菜スープをいただきながら、宿の若女将も我々のバカ話に付き合ってくださる。この若女将のお子さん(5歳の男の子)が宿内をチョロチョロ走り回っているのだが、その姿がとてもかわいくて癒される。

 

そして、若女将のなかなかに苦い人生の一端などもお聞かせいただいて、なんだか少し良い夜だったような気がする。写真は学生時代の同級生(だけど3つか4つ年上)の太田ちん。彼とは30歳前後のころに数年同居をしていたのだが、今回久しぶりに一緒に仕事をした。相変わらずの仕事ぶりに私は可笑しくて癒されたが、他のスタッフはどうだったかは知らない(笑)。

にしても宿のロビーは居心地が良く、毎夜ここで気絶してしまうスタッフもいる。東京の喧騒や家庭の悩みからも少し解放された気分になってしまう。間もなく飛騨の撮影も終わりを迎えるが、東京に帰りたくないなあ……とちょっとだけ思う。

 

4月16日(土)

撮影18日目。今日はまたまた山場の子どもの対決シーン。出演者も多いし、アクション部もいらっしゃるしで賑やかな現場に。対決シーンの最後がまさかこんな感じになるとは思わなった。撮影してみるまでわからないものだ。

 

夜、息子から電話。この1か月弱の飛騨生活の中で息子から電話がかかって来たのは初めてだ(妻には毎日何十回も電話していたらしいが)。母親に怒鳴り散らされた、死んだほうがマシだと言って泣きながらかけてきた。そんな内容でも向こうからかかってきたことはうれしかった。ちょっと東京に帰りたくなった。

 

それにしても、撮影をしていると毎度のことだが世の中の情勢がほとんどわからなくなる。ふと思い出したようにネットニュースなど見ると、ロシアが化学兵器を使ったかもだの、禁じ手などと出てくるが、戦争に禁じ手って……。戦争自体が禁じ手なのに、まるでイジメにもルールがあるみたいな感じで気持ち悪い。あとは映像業界ハラスメント大爆発のタイムラインをぼんやりと見つめたりもする……。

 

4月17日(日)

撮影19日目。飛騨は最終日。朝早くから支度して、またも線路・トンネルの撮影へ。子どもたちは元気に走るが、撮影にくたびれ果てたオッサン集団は、まぁまぁ死にそうになりながらデコボコの線路を今日も走りに走った。皆さんの足腰がマジに心配だ。

 

深夜の3時、眠い目をこすりながらマイクロバスで東京に向けて出発しなければならない。そして着いたらその足で撮影しなければならない。飛騨の余韻に浸っている暇はまったくなし……。

 

4月18日(月)

朝3時に飛騨出発。そのまま埼玉県の撮影現場へ。私は車酔いが激しいので酔い止めを年の数だけ流し込んで、鬼門の山越えのときはぐっすりと眠れていた。

 

6時にどっかのサービスエリアで朝食。9時に現場に到着。諸々準備して12時より撮影開始。主人公家族は本日クランクアップ。あっという間だった。

 

夜、約1か月振りに家に帰ると、いつもは寄って来ない娘と息子が寄って来てベラベラ話し始めた。うれしかった。でも30分ほどで漫画とスマホに戻っていった。

 

4月19日(火)

撮影21日目。朝7時集合、池袋シネマロサで撮影。多くのエキストラの方に来ていただき助かる。初めて息子と娘もエキストラで私の映画に参加した。ここはカッコいいところを見せねばといつもは2度ほどしかしないテストを4回くらいした。

 

10時にロサを完全撤収して、都内のスタジオへ。色々あったが、どうにかクランクアップ。

 

主人公の子ども7人には、飛騨市の名産の升と、造形の飯田さんが作ってくれてたオオサンショウウオのマグネットをプレゼントした。いつか一緒にお酒を飲めるとよいなと思う。その時は「あの映画がきっかけで僕はブレイクしました!」と言ってほしい……。

 

それにしても彼らは3月23日から飛騨入りして1か月近く親元を離れて本当によく頑張ってくれて、その姿に私も頑張らなければと励まされた。そして病気もケガもせずに乗り切ってくれた。感謝しかない。本当にすごい。ありがとうございました。

 

スタッフの方々も4日に一度の抗原検査をよく切り抜けてくださった。皆さんどんな手を使ったのだろうか。私は陰性の写真を様々な角度から撮ったものをプロデューサーに送って切り抜けた。というのはもちろん冗談だが、冗談抜きで毎回ロシアンルーレットをしているような気分だった。

 

あと、今回は何人かのスタッフから「いつも股間触ってますね」と指摘されてしまった。まったくその意識はないが、オーディションのときにも妻に指摘されていたから私は本当によく触っているのかもしれない。いずれセクハラ行為になる可能性があるとも指摘された。

 

股間が痒いとか違和感があるとかでもないのだが、癖なのかもしれない。息子もよく触っているし。女性スタッフもきっと気づいていたのだろうな……。それはまあいいとして(よくないけど)出演者の子どもたちに気づかれていなければいい。

 

4月20日(水)

疲れはまったく取れていないが朝、娘と息子を途中まで送る。しばらく家を空けたからふたりとも私を慕う。うれしい。

 

家に戻って次の仕事の資料を読もうとしたが、3ページほど読んで気絶。目覚めると息子が帰ってきたので、民間療育に連れて行く。クランクアップの翌日からまたこの日常が始まる。療育帰りにドン・キホーテによって、ホラー映画のマスクを買ってやる。

 

4月21日(木)

疲れはまったく取れないが妻と町中華でランチ。が、くれぐれもこれは打ち上げではなく、ただのランチだ! と何度も念を押す。そうでないと、町中華のランチが打ち上げになってしまう。私は打ち上げでは普段は行かないような値の張るお店に行って心行くまで贅を尽くしたいタイプだが、妻は私の真逆で、普段行かないところには一生行きたくないという考えだ。

 

しかし、この店は前菜の盛り合わせも、紫蘇とチーズと海老の春巻きも、小籠包も、黒酢豚も、何もかも美味しい。そしていつも通りそれだけでは足りず、濃厚担々麺を追加注文し、平らげてしまった……。撮影で3キロ太ったというのにまだまだ太りそうだ。

 

4月22日(金)

疲れはまったく取れないが午後から新しい仕事の打ち合わせに行く。資料も読めていないし頭がまったく追い付いていない。早く切り替えねば。

 

帰宅後、息子と「ドント・ブリーズ2」(監督:ロド・サヤゲス)を見る。

 

4月23日(土)

疲れはまったく取れないが久しぶりに妻と映画を見に行く。「チタン」(監督:ジュリア・デュクルノー)。撮影していたから1か月以上劇場で映画を観ていない。

 

映画は面白かった。疲労から寝てしまうかもしれないと思ったが、撮影明けにはぴったりの作品で、目をそむけたくなるシーンが多々あるが大変面白い映画だった。

 

久しぶりの映画に気持ちがあがったのでションベン横丁の「朝起」で、子宮とキンタマのポン酢和え、サメの心臓刺身、なんかの脳天とサーモンのユッケを食らい、最後はとなりの「岐阜屋」でラーメンと炒飯と餃子を食べ17時帰宅。夜、息子と「エルム街の悪夢」2010年度版を見る。

 

4月24日(日)

朝、坂井プロデューサーが編集機材をウチに持ってきて、編集助手さんと編集部屋を2階に作る。その後時間があまったので、坂井Pと一緒にカエル小屋の屋根を作る。

 

午後、顔合わせもかねて編集助手さんと坂井Pと妻と私で近所のイタリアンへ。編集助手さんは3月に東北芸術工科大学を卒業したばかりの女性だ。よく食べよく笑う素敵な女性……と書くのもセクハラかもしれないが、そういう第一印象だ。今回の作品には東北芸術工科大学の学生さんが、この編集助手の方も含めて3人いた。3年生の女性が撮影部の見習いに、中退予定の1年生男性が衣装部の見習いにいた。かつては石を投げれば日本映画学校の学生ばかりだったが、今は東北芸術工科大学が多いのだろうか。

 

カエルさん達、めちゃくちゃ元気でして、そして力も強くて、すぐ脱出を企てます。で、隙間に挟まって身動き取れなくなると切ない声でキューキュー鳴くので、ごめんねと言って檻に戻します。カエルがこんなに鳴くのは知りませんでした(BY妻)

 

4月25日(月)

疲れはまったく取れていないがロケハンやら撮影のために全然できなかった送迎ボランティアを2か月ぶりに。2年生になったXちゃんが「そろそろ来ると思ったよ」とはにかんでくれた。

 

Xちゃんを学校まで送り、家に戻ってくると息子がまだいる。月曜日は行き渋りが週の中でいちばん激しい。今日は無理かもしれないと思ったがどうにか遅刻すれすれの8時20分に家を出てくれた。朝の7時から30分だけ友達とフォートナイトをして気持ちを上げたのだが、こんなやり方だとどんどんゲーム漬けになっていく気がしなくもないのだが……。

 

その後、6月に撮影予定の映画のシナリオ会議。こちらは共同脚本なのだが、先日まで撮影していた自分は一緒に書いている方にほとんどお任せ状態だ。いない間に進んでいた改稿を読ませていただいたが面白くなっていた。

 

4月26日(火)

今日も疲れはまったく取れていないが(疲れからの復活の遅さに年を感じる)、日中はひたすら資料を読む。

 

夜は演出部打ち上げ。衣装メイク部さんも。皆さん、とても頑張ってくださったのでささやかながらのお礼。撮影が悪い思い出にはなっていないようなので良かった。良い作品を作ることは当たり前だが、参加してくれたスタッフが現場を楽しんでくれたかどうかは私にとっては良い作品を作ることと同じくらい大切だ。

 

羊と兎を食いまくって帰宅した夜中、佐々木史朗さんが亡くなったことを知る。佐々木史朗さんは、映画学校の先生以外では私が初めてお会いした映画業界の人だ。

 

地下鉄サリン事件の起きた数日後の1995年3月、私は日本映画学校を卒業してすぐ、恩師の武重邦夫さんに、その時はまだ赤坂見附にあったオフィス・シロウズに連れて行かれた。

 

佐々木史朗さんのお名前は当然、私のような小僧でも知っていたので、「佐々木史朗のもとで働けるのか!?」と内心喜んでいたがそうは甘くなく「君はどうしたいんだい?」とニコニコした笑顔で聞かれ「助監督がしたいです」と答えた。「誰につきたい?」と聞かれ、史朗さん(私は周囲の先輩のマネをして史朗さんと呼ばせていただいていたが、とても身近な方々には佐々木さんと呼ばれる人も多くいらした)とよく仕事をされていた大森一樹監督のファンだったので、「大森一樹さんです」と答えた。すると史朗さんはその場で大森監督に電話してくださった。

 

大森監督は新作のクランクインを3日後に控えていた。「3日前だとさすがに勉強にならないから、少し待ってろよ」と言われ、2週間後くらだったかまた電話をいただいた。「君は相米慎二という監督を知っているかね」と言われ、「はい」と答えた。「相米が若い奴を探しているから一度会ってみないか」と言われ、またオフィス・シロウズに行った。史朗さんと相米さんが囲碁をしていて、私は相米慎二監督のもとでとりあえずお世話になることになった。相米さんが映画を撮っていない時期で、次に撮る映画も決まっていなかった。

 

相米さんのもとに1年間ほどいて、自分は映画を作ることなど到底できない、と元々なかった自信を完全に失くした。その後、私はしばし映画業界を去った。

 

史朗さんともずいぶんお会いすることもなかったが、またこの世界で仕事をできるようになってくると、理事長をされていた日本映画大学の特別授業に呼んでくださったり、私のデビュー作の「14の夜」をご覧になった後、食事に連れて行ってくれて感想をいただいたり、「喜劇愛妻物語」の原作となった「乳房に蚊」を読んで「いや、笑った。切なさとおかしさ」と言ってくださったりして、とてもうれしかった。史朗さんの口からは「切なさ」と言う言葉をよく聞いた気がする。

 

そして去年、「監督してみないか? 読んでほしい原作があるんだよ」と電話をいただいたとき、私は「ああ、俺ももしかしたらこの世界で少しはいっちょ前になれたのかもしれない」とウソ偽りなく、この業界に入って初めてそう思った。残念ながらその原作は権利を押さえることができなかったが、私は史朗さんに認めてもらえたと思った。以前、ちょっとした思い出話をしている時に、「若者を相米に売り払うなんてそんなひどいこと俺はしないよ」とニコニコとおっしゃっていたが、売り払ってよかったかもなと思ってもらえたのかもしれない。認めてもらいた人だったのだ。

 

先日まで撮影していた映画の台本も読んでいただいていた。完成品を見てほしかった。心よりご冥福をお祈りいたします。

 

4月27日(水)

息子、今日はとうとう遅刻。朝のゲーム後に癇癪が出てしまい、ついつい私も「じゃあお前はもうなにもしなくていい!学校に行くな!」と言ってしまった。ゲームを30分したら文句を言わずに学校に行くという約束をしていたからだ。

 

しかし、私の吐いたようなセリフは絶対に言ってはいけないと療育のペアレントトレーニングなどでも何度も言われているのに、なんと私は未熟なのだろうか。約束を反故にされ、癇癪を目の当たりしてしまうと、ついついこんな言葉が口から出てきてしまう。

 

妻は仕事で出ねばならず、私と息子の気まずい時間だけが過ぎて行ったが、私も頭を冷やすために、2階へ行き息子と距離をとった。

 

9時半くらいに下に降りて行くと、息子は漢字の練習帳のような本を読んでいた。もしかしたら「学校に行かなきゃ」と思っているのかもしれないと思い、「行こうぜ」と言うと「……わかったよ」と答えたので学校まで送って行く。

 

教室に行くと、担任の先生が出てきてくれた。4月から新しく赴任してこられた年配の男性の先生だ。先日まで撮影していたためにまだ新しい先生とは息子のことを話せていないのだが、息子は新しい先生のことは好きだ。まず、まったく怒らないらしい。そして金曜日は宿題を出さない。ランドセルを軽くする為に積極的に置き勉させてくれる。なので息子のランドセルは1、2、3年生のころと違ってとても軽い。ほぼ何も入っていない。今までは体を壊すのではと心配になるくらい重かった。

 

新しい先生はある程度引き継ぎもできているのか「4年生になってどうですか? 忘れ物や遅刻はどんどんしてください。大丈夫ですから」と言ってくださり、気持ちがとても楽になる。春休みの習字の提出物などもでてきていなくても「絶賛準備中!」などと書いて廊下に貼ってくれていたりする。息子にとっては先生に恵まれた4年生の生活を送れるのではないかと思った。

 

とりあえず近日中に面談する約束をする。1年生の時に同じような年配の女性の先生から宿題や忘れ物、漢字の書き取りのことでこっぴどくやられて、不登校になった時期もあったので、正直、年配の先生方は発達障害にも詳しくなく、息子のような子は、単に「しつけのできていない甘やかされた子」にしか見えないかもという偏見があったのだが、私も見方を変えねばならない。

 

昼にほぼ新品のビデオデッキが届く。『通販生活』という雑誌の非断捨離特集でVHSテープを片手に無駄口をたたき、ビデオデッキも壊れそうだと語ったところ、読者の方から新品同様のデッキを譲っていただけたのだ。断捨離派の妻は顔をしかめたがありがたく頂戴した。大切に使わせていただきます。

 

4月28日(木)

久しぶりに妻と国会図書館へ行き、朝一番から資料を漁りまくる。が、案の定そうなると思ったが、ここへ来ると目的とは関係のない資料ばかり漁りだし、倉吉北高校野球部の歴戦の戦いを延々と調べていた。12時過ぎ「ランチは半蔵門のイタリアンにする?」と妻に聞きに行くも(エリオという美味しいお店があるのだ)、「資料集め、半分も終わってない!」とのことですぐに却下された。仕方がないので国会図書館のカフェに赴く(食堂は休みだった)。釧路名物のスパカツが推されていたのでそれを注文。熱い鉄皿の上で、カツレツとミートソースが絶妙なコラボ。なぜゆえ釧路名物なのか知らないが、とても美味しかった。

 

満腹になった私は新聞部屋へ戻り、いつのまにか気絶。16時過ぎ、鬼の形相の妻に起こされる。とりあえずの目的の資料のプリントアウトが終わったのでダッシュで帰宅し、妻は息子を習い事に連れて行き、その間に私が夕飯の支度をして、お迎えは私が行く。本来は迎えも妻に行ってほしいところだが、妻はその間にジム。ジムから戻るなり缶ビールを2本は立て続けにあけるから、ジムは何の意味もない。というか、ジムに行かなければそのビールはないから、ジムに行っているほうが太る。それを指摘すると激怒するのだがあまりに意味がない……。

 

4月29日(金・昭和の日)

日中、資料を読み漁る。

 

夕方、息子の友達が4人泊りに来る。足の踏み場がない。良き父親をアピールすべく、小雨の中、乗り気でない子どもたちを無理やり銭湯に連れて行ったら休みだった。

 

夜、シナリオ講座の講師をしていた時の生徒さんと若手のライターさん3人が飲みに来る。昨今のパワハラ・セクハラ話で盛り上がる。ただ、自分も彼らに手伝ってもらったりした仕事や紹介した仕事で、まっとうな対価を払えているのか、貰えているのかを思うと大ブーメランな部分もある。

 

彼らのひとりと書いた数年前のプロットが未払いだったので、思い出したようにプロデューサーに連絡をとり、挙句電話で非常に後味の悪い話をしてしまう。

 

この件、私に非はないのだが、明らかに非がある相手と話す時のパワーバランスを自分で感じながら話している自分自身の態度がものすごく嫌だった。

 

私はそういう醜い部分のある人間なのだとわかってはいるが、自分の嫌いな部分なので直したい。が、プロットで止まってしまった時のギャランティというのは先輩脚本家の方々もさんざん辛酸をなめてきた大きな問題だ。プロットというのは書くのに非常に苦労する(色んな人に理解できるように分かりやすく書かねばならない)。できればプロットとシナリオでギャラはわけてほしいというのが私の希望だが、プロット料の相場というのがないし、プロットは商品ではないので、あやふやになってしまっている。

 

【妻の1枚】

 

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【プロフィール】

足立 紳(あだち・しん)

1972年鳥取県生まれ。日本映画学校卒業後、相米慎二監督に師事。助監督、演劇活動を経てシナリオを書き始め、第1回「松田優作賞」受賞作「百円の恋」が2014年映画化される。同作にて、第17回シナリオ作家協会「菊島隆三賞」、第39回日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞。ほか脚本担当作品として第38回創作テレビドラマ大賞受賞作品「佐知とマユ」(第4回「市川森一脚本賞」受賞)「嘘八百」「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」「こどもしょくどう」など多数。『14の夜』で映画監督デビューも果たす。監督、原作、脚本を手がける『喜劇 愛妻物語』が東京国際映画祭最優秀脚本賞。現在、新作の準備中。著書に『喜劇 愛妻物語』『14の夜』『弱虫日記』などがある。最新刊は『したいとか、したくないとかの話じゃない』(双葉社・刊)。