第11回「さすがに柔道着は捨てられない」/燃え殻「もの語りをはじめよう」連載

ink_pen 2025/7/17
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第11回「さすがに柔道着は捨てられない」/燃え殻「もの語りをはじめよう」連載
燃え殻
もえがら
燃え殻

1973(昭和48)年神奈川県横浜市生まれ。2017(平成29)年、『ボクたちはみんな大人になれなかった』で小説家デビュー。同作はNetfliexで映画化、全世界に配信、劇場公開もされ、大きな話題に。小説の著書に『これはただの夏』、『湯布院奇行』エッセイ集に『すべて忘れてしまうから』『夢に迷って、タクシーを呼んだ』がある。

第11回「さすがに柔道着は捨てられない

 母から「押し入れを整理してたら、中学校の頃の柔道着が見つかったんだけど、これはさすがに取っておいたほうがいいわよね?」とメールが入った。どういう基準のもとに分別をしているのかわからないが、完全にいらないので即、「捨ててください」と返信をした。

 母は自分が癌になり、体調を崩してから、「もうわたしには時間がないから……」と言って、家の中の片付けをずっとしている。いまは治療方法もいろいろあり、ありがたいことに癌とは一進一退のいい勝負で、まだまだ問題なく元気にやってくれている。

 寛解は難しい。ただ、年齢を考えたら、癌と付かず離れず、いい関係を築きながらやっていく感じが現実的だし、理想的だ。

 母は、たまに僕が実家に顔を出すと、「病気になると、昔のつまらないことを思い出して、あのとき幸せだったんだなあって気づくのよ」としみじみと言う。

 そして、家の片付け中に見つかった、僕が子供の頃に描いたどうでもいい絵画とか、可ではなく限りなく不可な通信簿、名前の刺繍が入った変な色の学校指定のジャージなどをテーブルに並べ、「いくらなんでもこれは取っておいたほうがいいわよ?」と言う。いくらなんでも、取っておく理由が見当たらない、と毎回のように説明するが、「そう……。わかったわ」と言いながら、押し入れのある部屋にそれを持っていき、きっとどこかにしまい込んでいる。

 母にとっては、その一つひとつに「思い入れ」どころか、僕も忘れてしまっている、明確な「思い出」が刻み込まれているのかもしれない。

 柔道着について、「捨ててください」とメールを送ってから、ふと思い出したことがあった。それは中学一年の夏休みのことだ。

 夏休み中に、柔道の受け身のテストに不合格だった生徒たちが、一日登校をして、体育教師から指導を受けるという追試があった。すべての受け身が不合格だった僕は、問答無用で出席を命じられた。集合時間は朝の七時。いま考えると、朝練並みに早朝だ。

 出席した生徒は僕を含めて五名。夏だというのに涼しい雨の朝だった。道場に敷かれた畳は、ひんやり冷たい。道路に面した道場の窓はすべて全開にされ、絶え間なく冷たい風と霧雨が吹き込んでいた。柔道着からしてもう似合わない五名は、体育教師が取る受け身を、一生懸命に見よう見まねで試みるが、誰もが迫力に欠けていた。

 僕たちのたどたどしい受け身を見ていた体育教師は、すこぶる機嫌が悪くなって、「早くやれよっ! もっと畳を強く叩けよっ!」と怒号が飛ばす。僕は肩で大きく息をしながら、道着の乱れを直し、もう一度受け身を取ってみせた。「下手くそ!」そこに体育教師の怒号がもう一度飛んだ。

 そのとき、僕がふと窓の外に視線を感じた。揺れるビニール傘がふたつ見える。道場と歩道を分ける塀ギリギリのところまで近づいて、母と妹がビニール傘をさし、こちらを見守っているのが見えた。妹は何度も小さくジャンプを繰り返していた。

 母は、僕と視線が合うと笑顔で頷く。他の生徒も母と妹がいることに気づき、僕は冷やかされる。「ったく……」恥ずかしさを隠しながら、僕はまた下手くそな受け身を取った。「バタンッ」その迫力のない音に、体育教師から問答無用の怒号がまたまた飛ぶ。怒られながら、僕はチラッと母と妹のほうにもう一度目をやった。

 揺れるビニール傘がふたつ。妹は元気にまだジャンプを繰り返し、嬉しそうに笑顔でこちらに手を振ってきた。母は、僕に向かって大きく口を開け、なにかを伝えようとしていたが、どうしても解読できない。そこにまた体育教師の怒号。僕は慌てて受け身を取った。

 僕の人生で、もう二度と柔道着に袖を通すことはないだろう。でも、母から柔道着のことを訊かれなかったら、あの夏の朝の出来事を一生思い出さなかった。僕は、母に慌ててメールを送った。

「さっきの柔道着の件なんだけどさ、やっぱり取っておいてもらっていい?」

 すると返事はすぐ届いた。

「そうよね、さすがに取っておいたほうがいいわよね」と。

【燃え殻「もの語りをはじめよう」】アーカイブ

イラスト/嘉江(X:@mugoisiuchi) デザイン/熊谷菜生

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