80年にわたる厚木基地の歴史を振り返る
ここで少し、厚木基地の歴史を振り返っておこう。厚木基地の正式な名前は「厚木海軍飛行場」だ。太平洋戦争前の1938(昭和13)年に着工し、開戦後の1942(昭和17)年に飛行場が完成。首都東京の防衛のための海軍基地として造られた。引込線に関しての史料は探し当てることができなかったが、鉄道輸送が主流な時代のため、当然のごとくこの引込線も一緒に造られたと推測される。
太平洋戦争終了後に武装解除された厚木基地は連合国軍に接収され、アメリカ陸海軍の基地として使用されることになる。戦後、アメリカのダグラス・マッカーサー連合軍総合司令官が、最初に下り立ったのが厚木基地だった。あのコーンパイプを片手にタラップを下りるマッカーサーの姿は、歴史の教科書に掲載されているので、覚えておられる方も多いのではなかろうか。
現在、厚木基地はアメリカ海軍と、海上自衛隊の航空隊が共用する飛行場となっている。
石油輸送列車は自転車ぐらいのスピートで引込線を走った
相鉄本線と厚木基地を結んだ引込線は厚木航空隊線、または相鉄厚木基地専用線と呼ばれていた。タンク列車の走行ルートは、東海道本線・茅ヶ崎駅 → 相模線・厚木駅 → 相鉄・厚木操車場 → 相鉄・相模大塚駅 → 厚木基地というルートをたどり運ばれた。そして1998(平成10)年9月をもってこの石油輸送は終了した。
石油輸送が行われた当時を知る益子真治さんは次のように話す。
「列車を牽く機関車のモーターは、戦中戦後に造られた国鉄63型電車の物を使い回していました。それだけに、厚木操車場〜相模大塚間では古い電車独特の、雄叫びのようなモーターの大音響を発しながら走っていましたね」(益子さん)
茶色い電気機関車ED10形を2両連ねた重連スタイル+タンク貨車の運行だっただけに、さぞや豪快だったことだろう。
一方で、相模大塚駅からの運行はゆっくりしたものだったようだ。益子さんは「自転車並みの速度で最徐行して走っていました」と話す。
輸送の頻度はばらつきがあり、横須賀港に米海軍の空母が入港したときは、演習用の燃料が必要になるためか、毎日のように輸送があったようだ。一方で週に1回程度ということもあり、「結構、列車の撮影が空振りすることもありました」と、益子さんは当時を懐かしみつつ話してくれました。
この引込線は今後は線路が外され更地となり所有者に返還の予定
長い間、使われていなかった厚木基地への引込線。実は2017年6月30日に大きな動きがあった。日米合同委員会で、厚木海軍飛行場の「軌道及びその他雑工作物」が日本へ返還されることが決まったのである。
石油輸送列車の運行が終了してから、ほぼ20年という年月を経て戻されることになったわけだ。引込線の土地は約13000㎡にも及ぶ。
返還業務を行う防衛省南関東防衛局によると、この土地は国有地と民有地に分けられると言う。今後は更地にしたうえで、国有地は財務省へ、また民有地は所有者に戻される。現在はまだ調査の段階で、具体的な工事計画やその期間は未定とのことだった。
80年前に着工され、厚木への石油輸送を長年担ってきた厚木航空隊線。その面影を見聞きしたい方は、線路が残るいまのうち、早めに訪ねておいたほうがよいかもしれない。