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2018/4/29 17:30

あの線路はどこへ行く? 相鉄車内から見える“謎の廃線”を探索!

横浜駅から相模鉄道に乗り、相模大塚駅を過ぎたあたり。外を何気なく眺めていたら、引込線らしき線路が住宅街へと延びていた。あれっ?こんなところに線路があるぞ。相模鉄道(以下、相鉄と略)は貨物輸送はやっていないし。乗るたびに、疑問に思った。

しかもその引込線、車内から見る限り、線路や架線がしっかりと残っている。一般的に、貨物輸送に使われなくなった引込線は、線路や架線は早々と撤去されることが多い。なのに、その気配すら感じられない。実際に現場を歩いてみよう、と最寄りの相模大塚駅に降り立った。

↑相鉄本線から延びる引込線のMAP。写真で紹介する①〜⑧のポイントをMAP上で示した

 

相模大塚〜さがみ野間の踏切から線路は南へと向かう

相模大塚駅からさがみ野駅方面へ歩くこと5分。「相模大塚2号踏切道」という警報器付き踏切がある。この踏切内から引込線が始まる。相鉄本線と引込線は、相鉄本線に平行して造られた折り返し線(引上げ線)を通して、いまも線路がつながっている。

↑相模大塚駅〜さがみ野駅間にある相模大塚2号踏切道。この踏切付近から引込線が設けられている。写真の右側に写るのが今回、探索した引込線だ(MAP① ※冒頭の地図内の番号と対応。以下、同様)

 

↑踏切があいているときに撮影した引込線。木が生い茂っているが、線路はしっかりと残っている。踏切の先へ行き来を防ぐように柵が設けられている(MAP①)

 

やや回り道をして、引込線の先を目指す。柵の先にあったのは、まさにノスタルジーを感じる廃線跡の世界。線路内の雑草は茂り、脇の樹木が線路側に出ばり、一部は線路にかぶさるように生える。レールは赤錆びているが、枕木や架線柱、架線はしっかりと残されている。整備すればいまでも十分に列車を走らせることができそうだった。

 

その先、踏切がいくつかあり、警報器も残されている。だが、現在は、走る列車がないため稼動せず、通行するクルマも、停車せずに通り過ぎていく。

↑家々の庭のすぐ裏を通る引込線。雑草は茂り、また木々も線路側にせり出して生えていた。とはいえ線路や枕木、架線柱などの鉄道施設はしっかりと残されている(MAP②)

 

謎の引込線は高速道路を越えて意外な場所へと行き着く

県道40号線を越え、住宅地の裏手を抜ければ、まもなく東名高速道路をまたぐ大和6号橋へ着く。橋を越えればカーブとなり、厚木基地が目の前に広がる。線路は厚木基地へ向かい敷かれている。そう、この引込線は相鉄本線と厚木基地を結ぶ線路だったのである。

 

現在の引込線の沿線風景を写真で見ていこう。

↑引込線の途中、数箇所に警報器付きの踏切がある。列車が来ないため停まる車両はほとんどいない(MAP③)

 

↑列車は走っていない。それなのに警報器がない踏切には、いまも「STOPでんしゃにちゅうい」の看板が残る(MAP④)

 

↑警報器や信号などの設備は現在も使えそうな形できれいに残されている(MAP⑤)

 

↑東名高速道路をまたぐ大和6号橋の上を引込線が通る。しっかり造られた橋で、子どもたちが通学途中、遊び半分で渡っていたが、危険性はほぼ感じられなかった(MAP⑥)

 

引込線は軍用だったせいか、橋などを含めて、しっかり造られている。地元の子どもたちが橋の上を渡っていたが安全そのもの。鉄道橋で良く見かけるすき間が多い構造ではない。引込線に沿った側道を歩くもよし、また列車が走らないために、引込線の敷地内を歩くこともできる。通行するクルマなどに気をつければ、危険な場所はほぼない廃線跡だった。

 

引込線の線路は厚木基地の柵の前まで延びる。柵を越えた厚木基地内は、すでに線路が取り外され、芝生広場になっていた。ちなみに、引込線が残るのは相模大塚第2号踏切道のスタート地点から約800m。

↑高速道路を渡った先はカーブがあり、隣接する公園には春先、桜が咲く。もし列車が走っていたら、さぞや絵になったポイントだろう(MAP⑦)

 

↑「なんで勝手に撮るんニャー」とばかりに、線路を渡るネコににらまれる(MAP⑦)

 

↑引込線の線路はここが途絶える。柵の先は厚木基地で、すでに線路はない。以前はこの先にも線路が延びタンク車による貨物輸送が行われていた(MAP⑧)

80年にわたる厚木基地の歴史を振り返る

ここで少し、厚木基地の歴史を振り返っておこう。厚木基地の正式な名前は「厚木海軍飛行場」だ。太平洋戦争前の1938(昭和13)年に着工し、開戦後の1942(昭和17)年に飛行場が完成。首都東京の防衛のための海軍基地として造られた。引込線に関しての史料は探し当てることができなかったが、鉄道輸送が主流な時代のため、当然のごとくこの引込線も一緒に造られたと推測される。

↑厚木基地への石油輸送はJR相模線の厚木駅(左手前)から渡り線を通り、相模鉄道へバトンタッチされていた。現在も厚木駅に隣接して相模鉄道の操車場が広がる(右側)

 

↑相鉄の相模大塚駅の北側に広がる車庫線。ここで石油列車は折り返して、相鉄本線に平行した引上げ線に、機関車が貨車を後押しして入る。引込線を走り厚木基地を目指した

 

太平洋戦争終了後に武装解除された厚木基地は連合国軍に接収され、アメリカ陸海軍の基地として使用されることになる。戦後、アメリカのダグラス・マッカーサー連合軍総合司令官が、最初に下り立ったのが厚木基地だった。あのコーンパイプを片手にタラップを下りるマッカーサーの姿は、歴史の教科書に掲載されているので、覚えておられる方も多いのではなかろうか。

 

現在、厚木基地はアメリカ海軍と、海上自衛隊の航空隊が共用する飛行場となっている。

 

石油輸送列車は自転車ぐらいのスピートで引込線を走った

相鉄本線と厚木基地を結んだ引込線は厚木航空隊線、または相鉄厚木基地専用線と呼ばれていた。タンク列車の走行ルートは、東海道本線・茅ヶ崎駅 → 相模線・厚木駅 → 相鉄・厚木操車場 → 相鉄・相模大塚駅 → 厚木基地というルートをたどり運ばれた。そして1998(平成10)年9月をもってこの石油輸送は終了した。

↑相鉄のED10形電気機関車が2両連なり石油輸送列車を牽引した。写真は東名高速道路の上を走る石油輸送列車(写真提供:益子真治)

 

石油輸送が行われた当時を知る益子真治さんは次のように話す。

 

「列車を牽く機関車のモーターは、戦中戦後に造られた国鉄63型電車の物を使い回していました。それだけに、厚木操車場〜相模大塚間では古い電車独特の、雄叫びのようなモーターの大音響を発しながら走っていましたね」(益子さん)

 

茶色い電気機関車ED10形を2両連ねた重連スタイル+タンク貨車の運行だっただけに、さぞや豪快だったことだろう。

↑相模大塚駅からはデッキに係員が乗り込み列車を先導した。踏切には警報器があったものの、前方の障害物に注意しながらの慎重な運行が行われた(写真提供:益子真治)

 

一方で、相模大塚駅からの運行はゆっくりしたものだったようだ。益子さんは「自転車並みの速度で最徐行して走っていました」と話す。

 

輸送の頻度はばらつきがあり、横須賀港に米海軍の空母が入港したときは、演習用の燃料が必要になるためか、毎日のように輸送があったようだ。一方で週に1回程度ということもあり、「結構、列車の撮影が空振りすることもありました」と、益子さんは当時を懐かしみつつ話してくれました。

 

この引込線は今後は線路が外され更地となり所有者に返還の予定

長い間、使われていなかった厚木基地への引込線。実は2017年6月30日に大きな動きがあった。日米合同委員会で、厚木海軍飛行場の「軌道及びその他雑工作物」が日本へ返還されることが決まったのである。

 

石油輸送列車の運行が終了してから、ほぼ20年という年月を経て戻されることになったわけだ。引込線の土地は約13000㎡にも及ぶ。

 

返還業務を行う防衛省南関東防衛局によると、この土地は国有地と民有地に分けられると言う。今後は更地にしたうえで、国有地は財務省へ、また民有地は所有者に戻される。現在はまだ調査の段階で、具体的な工事計画やその期間は未定とのことだった。

 

80年前に着工され、厚木への石油輸送を長年担ってきた厚木航空隊線。その面影を見聞きしたい方は、線路が残るいまのうち、早めに訪ねておいたほうがよいかもしれない。

↑引込線を歩いていると、しばしば離発着する軍用機を見ることができる

 

↑引込線は春ともなるとお花畑になる。廃線跡ならではの趣が色濃く感じられる