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2018/6/15 20:00

都内を走る「忘れ去られた貨物路線」に再び栄光の時は来るか?――越中島支線/新金線の現状

おもしろローカル線の旅~~JR越中島支線/JR新金線~~

 

お江戸の中心といえば日本橋。その日本橋からわずか5kmのところに、都内で唯一となった、非電化路線が走っていることをご存知だろうか。JR越中島(えっちゅうじま)支線という名の貨物線がその路線。ディーゼル機関車が貨車を牽いてのんびり走っている。

今回は、JR越中島支線と、さらにその先の貨物専用線・JR新金(しんかね、もしくは、しんきん)線の2本の貨物専用線をご紹介しよう。両線とも貨物専用線のため、列車への乗車はできないが、路線にそってのんびり歩くことができる。新たな発見とともに、不思議さが十分に体験できる路線だ。

 

【謎その1】なぜ、都内唯一の非電化路線として残ったのか?

越中島支線や新金線という路線名を聞いて、すぐにどこを走っているのかを思い浮かべられた方は、かなりの鉄道通と言っていいだろう。それこそ、長年、忘れられてきた路線と言ってもいい。

 

走る列車の本数も少ない、いわば“ローカル貨物線”だが、なんとか旅客線にできないか、という地元自治体の話もあり、近年にわかに脚光をあびるようにもなっている。

 

まずは両路線のデータをおよび路線図を見ていこう。

◆越中島支線(運営:東日本旅客鉄道)
路線:小岩駅 〜 越中島貨物駅
距離:11.7km
開業:1929(昭和4)年3月20日

◆新金線(運営:東日本旅客鉄道)
路線:小岩駅 〜 金町駅
距離:8.9km
開業:1926(大正15)年7月1日(新小岩操車場〜金町駅間)

まずは越中島支線から見ていこう。なぜ都内で唯一の非電化路線として残されたのだろうか。電化される計画はなかったのだろうか。

 

【謎解き1】輸送量が少なく非電化のままが賢明だとの判断か

現在、越中島支線の列車は新小岩信号場と越中島貨物駅の間を走っている。日曜日を除いて日に3往復の列車が走り、JR東日本管内で使われるレール輸送やバラスト輸送が行われている。ちなみに貨物時刻表で紹介されているダイヤは、

9295列車 新小岩信号場12時10分発 → 越中島貨物駅12時22分着
9294列車 越中島貨物駅13時42分発 → 新小岩信号場13時55分着

という1往復のみだ。ほか2往復も走っているが、全便が臨時列車扱いで、実際に沿線で待っていても、上記の時刻を含め列車が走らない日がある。

↑新小岩信号場12時10分発の9295列車。この日はJR東日本のDE10形ディーゼル機関車が1両のみで走る。列車の早発、遅発はこの路線ではごく普通なのでご注意を

 

越中島駅にはJR東日本のレールやバラストを管理する東京レールセンターがある。現在、越中島支線にはこの東京レールセンターから、JR東日本管内へ運ばれるレールや、バラストの輸送列車が走る。ただ、前述の通り列車の本数は日に3本で、それすら走らない日もある。わざわざ電化して列車を走らせるほどの輸送量ではない。ゆえに、都内唯一の非電化路線として残ったのだろう。

↑越中島支線の終点、越中島駅には東京レールセンターがあって、JR東日本のレールやバラストの基地として使われている。最寄り駅は京葉線の潮見駅だ(徒歩約15分)

 

↑越中島駅から新小岩信号場へ向かう上り列車。大半が写真のようにレール輸送用の貨車(長物車)や、バラストを積んだホッパ車を連ねた列車が運行される

 

いまでこそ列車の本数が非常に少ない越中島支線だが、かつては多くの貨物列車が行き交い、賑わいを見せた時代もあった。ここからは、そんな時代を振り返っていこう。

 

【補足情報その1】かつては東京湾岸の鉄道輸送に欠かせない路線だった

昭和の初期に開業した越中島支線だが、この路線が1番、輝いたのが、太平洋戦争後の1950〜60年代のことだった。越中島駅から先、1953年に深川線が豊洲まで開業。さらに晴海まで晴海線が1957年に開業した。さらに1959年には豊洲物揚場線と、次々に路線が新設された。

 

豊洲といえば現在、築地市場の移転で話題になっている場所だが、かつて豊洲には石炭埠頭や鉄鉱埠頭があり、ほか様々な物資の陸揚げ基地として賑わっていた。

 

それらの物資の多くは貨物列車を使って都内および首都圏各地へ輸送されていった。それは路線をさらに汐留駅まで延ばす計画が立てられるほどの盛況だった。こうした逸話を聞くだけでも、多くの貨物列車が走った往時の様子が彷彿される。

↑いまも、越中島駅から豊洲方面へ数100mほど線路が延びている。線路が途切れた先の線路跡地は駐車場などに使われている

 

↑往時の姿を残す元晴海線の鉄道橋。橋の遺構は晴海通り・春海橋に沿うように残っている。線路も残り、いまにも貨物列車が走ってきそうな趣がある

 

貨物輸送に湧いた越中島支線だったが、1980年代になると物流の主役はトラック輸送となり、鉄道による貨物輸送が激減する。越中島駅から先の路線が徐々に廃止されていき、1989年の晴海線の廃止を最後に路線がすべて消滅した。

 

以降、越中島支線は、新小岩信号場と越中島駅間のレールとバラスト輸送のみが行われる路線となっている。

 

【補足情報その2】路線沿いには線路スペースを使った公園や、路面軌道の跡も

越中島支線の一部を線路に沿って歩いてみた。

 

今回、スタート地点としたのは都営地下鉄新宿線の西大島駅。まず明治通りを南へ向かった先に小名木川(おなぎがわ)が流れる。この小名木川は水運用につくられた人工河川で、川沿いには陸揚げした物資を積み込むための駅・小名木川駅が設けられていた。

↑小名木川に架かる越中島支線の小名木川橋梁。この左手にかつて小名木川駅があった。橋梁はワーレントラス橋で、見てのとおり重厚な構造の橋となっている

 

現在、駅の跡地には巨大なショッピングセンターが立っている。ちなみに同センター前の交差点名が「小名木川駅前」となっている。駅はすでにないものの、交差点名にのみ、その名残があるわけだ。

 

小名木川駅があった付近を線路ぞいにさらに歩いていくと、南砂線路公園がある。線路の跡地を歩道と自転車道にした公園で、江東区が設けた公園案内も立てられる。列車を待ちながらの一休みに最適だ。

↑越中島支線沿いに設けられた南砂線路公園(写真右)。複線区間の線路が敷かれていたスペースを利用。歩行者と自転車用のルートが設けられている

 

この先、線路沿いの道がいったん途切れるので、明治通りへ。南砂三丁目の交差点を過ぎたあたりで、不思議な遊歩道(南砂緑道公園)を発見した。この遊歩道は、横幅もあり、明らかに線路の跡のよう。越中島支線をくぐるように立体交差している。地元の人に聞くと、「ここは昔、チンチン電車が走っていたところなんですよ」とのこと。

 

遊歩道をしばらく歩くと説明があり、城東電気軌道(地元では城東電車の名で親しまれた)の砂町州崎線の跡だった。この城東電車はその後、都電となり都電砂町線(水神森=亀戸駅近く〜州崎間)として1972(昭和47)年まで走り続けた。

↑南町緑道公園はもと都電砂町線の路線跡。越中島支線と立体交差している。南側にはかつて汽車製造会社東京製作所があり、造られた鉄道車両が越中島支線を使って運ばれた

 

汽車製造会社東京製作所があったその先に永代通りが通る。平面交差するため、永代通りには踏切が設けられている。しかも信号機付き。列車が近づくと、通りの信号が赤になる。列車が少ないこともあり、通常の踏切では危険という判断からか、このようにドライバーに注意を促す造りとなっているのだろう。

↑永代通りと交差する越中島支線。列車の本数が少なく廃線と思うドライバーが多いためか、信号機付きの踏切となっている。この踏切から日本橋へ5kmの案内が架かる

 

永代通りを越え、明治通りを南に向かえば、終点の越中島駅も近い。帰りは東京メトロ南砂町駅か、JR京葉線の潮見駅を目指したい。

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