おもしろローカル線の旅~~長野電鉄長野線(長野県)~~
信州の山々を背景に走る赤い電車は長野電鉄長野線の特急「ゆけむり」。最前部と最後部に展望席があり、列車に乗りながらにして迫力ある展望風景が楽しめる。
長野電鉄長野線は長野駅と湯田中駅間を結ぶ33.2kmの路線。起点となる長野駅はJR駅に隣接した地下にホームがあり、また長野市街は路線が地下を走っていることもあって、ローカル線というより都市路線だろう、という声も聞こえそうだ。
しかし、千曲川を越えた須坂市、小布施(おぶせ)町、中野市を走る姿は魅力あるローカル線そのもの。山々をバックに見ながら走る姿が実に絵になる。ここまで“写真映え”する鉄道路線も少ないのではないだろうか。今回は、絵になる長野電鉄の旅を、写真を中心にお届けしよう。
【写真映えポイント1】
赤い特急と山や草花、木の駅舎の組み合わせが絶妙!
なぜ、長野電鉄長野線は写真映えするのだろう。まず車体色が、赤が基本となっていることが大きいように思う。色鮮やかで写りがいい。
特急は、1000系「ゆけむり」(元小田急ロマンスカー10000形HiSE)と、2100系「スノーモンキー」(元JR東日本253系「成田エクスプレス」)の2タイプが走る。それぞれ赤ベースの車体が鮮やかで、青空、周囲の山々、花が咲く里の景色、そして木の駅舎と絶妙な対比を見せる。
普通電車の8500系(元東急8500系)や3500系(元営団地下鉄3000系)も、車体に赤い帯が入り華やかで、こちらも信州の風景と良く似合う。
【写真映えポイント2】
プラス100円で乗車可能な「ゆけむり」展望席がGOOD!
車内から撮った風景も写真映えしてしまう。
特に特急「ゆけむり」の前後の展望席から見た風景が素晴らしい。展望席は、広々した窓から迫力の展望が楽しめる特等席で、志賀高原や高社山など沿線の変わりゆく美景が存分に楽しめる。
特急「ゆけむり」は、元は小田急ロマンスカー10000形として生まれた車両で、小田急当時のニックネームはHiSE。車内に段差があり、バリアフリー化が困難なため、登場からちょうど25年という2012年に小田急電鉄から姿を消した。この2編成が長野電鉄へやってきて大人気となっているのだ。
筆者が乗車した週末には、小布施人気のせいか、長野駅〜小布施駅間は混んでいた。その先の小布施駅→湯田中駅はそこそこの空き具合となった。湯田中駅発の上り「ゆけむり」にも乗車したが、湯田中→小布施間で、運良く後部展望席を独り占めという幸運に出会えた。
この美景が乗車券+特急券100円(乗車区間に関わらず)で楽しめるのが何よりもうれしい。指定席ではなく自由席なので、席が開いてればどこに座っても良い。
週末には「ゆけむり〜のんびり号〜」という、ビューポイントでスピードを落として走るなど、まさに写真撮影にぴったりの特急も走るので、ぜひチャレンジしていただきたい(列車情報は記事末尾を参照)。
【写真映えポイント3】
長野電鉄のレトロな駅舎が、また絵になる!
駅で撮った写真も絵になる。
長野電鉄の路線の開業は大正の終わりから昭和の初期にかけて。開業したころに建てられた木造駅舎が信濃竹原駅、村山駅、桐原駅、朝陽駅と、複数の駅に残っている。トタン屋根、ストーブの煙突、木の腰板。木の格子入りガラス窓といった、古い駅の姿を留めている。
長い時間、そこに立ち続けてきた駅舎。日々、人々を見送り迎えてきたそんな多くのストーリーが透けて見えてきそうだ。この4駅ほど古くはないものの、ほかの駅で目に触れる風景もレトロ感たっぷりで、何気なく撮った風景が実に絵になるのだ。
【写真映えポイント4】
さりげなく置かれる古い車両や機器にも注目
停車中の保存車両や、古い機器も絵になる。
例えば、須坂駅には赤い帯を取った3500系06編成2両が停められている。同車両は元営団地下鉄日比谷線の3000系で、当時、珍しかったセミステンレス車体を採用、車体横はコルゲートと呼ばれる波形の板が使われている。
1961(昭和36)年に登場し、高度成長期に都心を走る日比谷線の輸送を支え、1994(平成6)年に、日比谷線の最終運転を終えている。同車両は、長野電鉄のみに計39両が譲渡され、現在も現役車両として活躍している。ちなみに2両は2007年に東京メトロに里帰りした。
日比谷線を走っていた往時の姿を知る人にとっては、この須坂駅にたたずむ古い車両に、胸がキュンとなってしまう人も多いのではないだろうか。
また、須坂駅のホームには、いまでは使われていない古い転轍器(てんてつき)が多く置かれ、保存されている。
これらの保存車両や転轍器は、特に案内があるわけでなく、また乗客に見せるために保存展示されているわけではない。さりげなく置かれているといった様子である。そこに案内表示はなくとも、長野電鉄を守ってきたという誇りが伝わってくるようでほほ笑ましい。
【残る路線の謎】不自然なS字の姿をしているワケを探る
ここからは長野電鉄長野線の歴史と路線の概要を説明していこう。
上の路線図を見るとわかるように、路線は長野駅からSの字を描きつつ湯田中へ向かう。
まずは長野駅と東西に結ぶ路線が千曲川を越えて須坂駅へ向かう。須坂駅の手前で急カーブ、信州中野駅までではほぼ南北の路線が結ぶ。信州中野駅から先で急カーブ、路線が東に向かい回り込むようにして湯田中駅を目指している。
この路線、須坂駅と信州中野駅付近の曲がり方が極端に感じてしまう。どうしてなのだろう。
現在は長野線という1つの路線になっているが、開業時は千曲川東岸を走る路線が先に設けられた。その歴史を追うと、
1922(大正11)年6月 河東(かとう)鉄道により屋代駅〜須坂駅間が開業
1923(大正12)年3月 須坂駅〜信州中野駅間が開業
1925(大正14)年7月 信州中野駅〜木島駅間が開業 河東線全線開通
そのほかの路線は
1926(大正15)年6月 長野電気鉄道により権堂駅〜須坂駅間が開業。この年に河東鉄道が長野電気鉄道を合併、長野電鉄となる
1927(昭和2)年4月 平穏線の信州中野駅〜湯田中駅間が開業
1928(昭和3)年6月 長野駅〜権堂駅間が開業、現長野線が全線開通する
このように、長野電鉄は、元々、千曲川東岸の屋代駅と木島駅(長野県飯山市)を結ぶ鉄道が最初に造られ、その後に沿線の途中駅から長野駅へ、また湯田中駅へ路線が延ばされていった。
長年、この路線網が引き継がれていたが、利用者減少が著しくなり、まず2002(平成14)年3月末に木島駅〜信州中野駅間が、2012年3月末に屋代駅〜須坂駅間の路線が廃止された。南北に延びていた路線がそれぞれ廃線になり、S字の路線のみが長野線として残されたわけだ。
【輝かしい歴史】上野駅発、湯田中駅行き列車も走っていた!
長野電鉄が最も輝いていたのが1960年ごろから1980年ごろだった。1961(昭和36)年からは、長野電鉄への乗り入れる上野駅発の列車が運転された。国鉄の急行形車両を利用、信越本線の屋代駅から、屋代線経由で湯田中駅まで直通運転を行った。翌年には通年運転が行われるほど乗客も多かった。この直通運転は1982(昭和57)年11月まで続けられている。
自社製の車両導入も盛んで1957(昭和32)年には、地方の私鉄会社としては画期的な特急形車両2000系も登場させた。その後、1967(昭和42)年には鉄道友の会ローレル賞を受賞した0系や10系といった一般列車用電車も新製するなど、精力的に新車導入を続けた。
路線も長野駅〜善光寺下駅間の地下化工事が1981(昭和56)年3月に完了している。
そんな順調だった長野電鉄も1980年代から陰りが見えはじめた。先の国鉄からの直通列車も1982年に消えた。営業収入は1997年の35億2000万円をピークに、長野冬期五輪が開催された1998年から減収に転じ、2002年には24億6000万まで落ち込んでいる。
この2002年に信州中野駅〜木島駅間の河東線の路線を廃止した影響もあったが、急激な落ち込みは河東線と平行して走る上信越自動車道が、徐々に整備されていったのが大きかった。まず1993年に更埴JCT〜須坂長野東IC間を皮切りに2年ごとに北へ向けて延ばされていき、1999年には北陸自動車道まで全通している。高速道路網の充実で、クルマで移動する人が増え、また高速バスの路線網も充実していった。
長野電鉄では2002年と2012年に河東線を廃線にし、車両は首都圏の鉄道会社の譲渡車を主力にするなど、営業努力を続けてきた。同社の平成24年度から平成27年度の損益を見ると(鉄道統計年表による)、平成24年度の5億から平成27年度には8億円まで数字を上げ好転している。前述した古い駅舎が数多く残る理由は、駅舎を建て直すほどの余裕が、これまではなかったという理由もあるのだろう。
ただ、古いものが数多く残り、昭和と平成が混在する、まさに写真映えする状況が生まれているわけで、少し皮肉めいた現象とも言えるだろう。
【鉄道好き向け乗車記】長野駅から湯田中駅まで撮りどころは?
長野電鉄長野線の始発駅はJR長野駅西口の地下にある。JR駅を出てすぐのところにあり便利だ。行き止まり式のホームからは、朝夕が特急を含めて15分間隔、日中は20分間隔で列車が発車する。
特急は一部列車を除き湯田中駅行き、普通列車は須坂駅もしくは信州中野駅行きが出ている。
長野市街は地下路線が続き、3つ先の善光寺下駅まで地下駅となる。善光寺下駅の先で始めて地上へ出る。長野駅から朝陽駅まで複線区間が続き、しなの鉄道の路線などと立体交差する。朝陽駅から先は、単線区間となり、柳原駅〜村山駅間で千曲川を越える。
25分ほどで須坂駅に到着する。ここには車両基地があるので、ぜひとも降りて見ておきたい。先の3500系などの保存車両や、古い転轍器などにも出会える。
須坂駅からは、ローカル色が強まる。長野ならではリンゴ園も沿線に多く連なる。
須坂駅から乗車7分ほどで小布施駅(おぶせえき)に到着する。小布施といえば、名産の栗、そして江戸時代には地元の豪商、高井鴻山(たかいこうざん)が葛飾北斎や小林一茶が招いたことで、独自の文化が花開いたところでもある。
そうしたうんちくにうなずきつつも、鉄道好きならばホームの傍らにある「ながでん電車の広場」に足を向けたい。ここには現在、特急として活躍した長野電鉄2000系3両が保存展示されている。車内の見学もできる。
信州中野駅から先は、長野線の閑散区間となる。長野駅から湯田中駅まで直通で走る普通列車はなく、途中の須坂駅か信州中野駅での乗り換えが必要となる。
信州中野駅〜湯田中駅間では、朝夕30分間隔、日中は特急を含めて1時間に1本の割合で電車が走っている。本数は少なくなるものの、信州中野駅〜湯田中駅間には絵になるポイントが多く集まっている。
まず夜間瀬川橋梁。左右に障害物のないガーダー橋で、橋を渡る車両が車輪まで良く見える。もちろん撮影地としても名高い。車内からは高井富士とも呼ばれる高社山が良く見えるポイントでもある。
夜間瀬川を渡ると、路線は右に左にカーブを切りつつ、勾配を登っていく。このあたりの沿線はリンゴ園や、モモ園などが多いところ。GWごろは薄ピンクのリンゴの花、桃色のモモの花が沿線を彩り見事だ。
リンゴ園を見つつ急坂を登れば、列車は程なく湯田中駅に到着する。
この駅の構造、少し不思議に感じる人がいるかもしれない。現在のホームと駅舎とともに、すぐ隣に古い駅舎とホームがある。実はかつて、普通列車よりも長い編成の特急列車などは駅の先にある県道を越えて引込線に入り、折り返してホームに入っていた。
駅構内でスイッチバックする複雑な姿の駅だったのだ。さすがに不便だということで、2006年に大改造、スイッチバック用の施設は取り外され、現在のホームと線路のみとなっている。
列車が到着すると「美(うるわ)しの志賀高原」という懐メロがホームに流れる。志賀高原、そして湯田中・渋温泉の玄関口である湯田中駅らしい演出でもあるのだが、この曲が作られたのは1956(昭和31)年だという。このタイムスリップ感は並ではない。これぞ世代を超えた永遠のリゾート、志賀高原! というところだろうか。
【観光列車の情報】
毎週末、下り:長野駅13時6分発、上り:湯田中駅11時25分発の上下2本は特別な「ゆけむり〜のんびり号〜」として走る。普通列車のようにゆっくりと沿線を走る観光案内列車で、撮影スポットで徐行運転を行うサービスもあるので、期待したい。料金は通常の特急と同じで、乗車券プラス特急券100円が必要。一部の車両はワインバレー専用車両となる(要予約)。