【大鰐線の旅1】 レトロな印象が際立つ中央弘前駅の駅舎
弘南線の弘前駅へ戻って、次は大鰐線の起点駅、中央弘前駅を目指す。弘南バスの土手町循環バス(運賃100円)に乗車して「中土手町」バス停で下車、土淵川沿いの遊歩道を歩けば、すぐに駅がある。
見えてきた中央弘前駅。年期が入った駅舎に驚かされた。
列車は朝夕30分間隔、除く10時〜16時台と19時以降は1時間間隔となる。中央弘前駅発の終電は21時30分発と早い。弘南線よりも、乗降客が少ないこともあり本数が少なめだ。
中央弘前駅はホームが1つという質素な造り。弘南線と同じデハ7000系がそのまま折り返して発車する。
【大鰐線の旅2】土淵川沿いを走りリンゴ畑を見ながら進む
弘南線よりも大鰐線は、よりローカル色が強く感じられた。中央弘前駅を発車するとしばらく土淵川沿いを走る。次の弘高下駅(ひろこうしたえき)、さらに弘前学院大前駅、聖愛中高前駅(せいあいちゅうこうまええき)と3駅とも、学校名が駅名となっている。
4つめの千年駅(ちとせえき)を過ぎると、沿線には畑が多くなる。弘南線の沿線に水田が目立ったのにくらべて、大鰐線ではリンゴ畑が目立つ。青森リンゴの産地らしい風景が目を引く。
【大鰐線の旅3】津軽大沢駅の車庫にねむる古い車両に注目
大鰐線の乗車で最も気になる箇所が、津軽大沢駅に隣接する車庫。ここには珍しい車両が眠っている。
まずはデハ6000系。元・東急電鉄の6000系で、1960(昭和35)年に製造された。現在では一般化しているステンレス車体を持つ新性能電車で、東急では試作的に造られ、また使われた車両だった。現在、2両のみが残り、秋の鉄道の日イベントなどの車庫公開時に近くで見ることができる。
ほかED22形電気機関車は、1926(大正15)年製で、信濃鉄道で導入、その後、大糸線、飯田線、西武鉄道、近江鉄道を経て弘南鉄道へやってきた車両だ。
赤い電気機関車ED22形と並び注目したいのが、除雪用のラッセル車。弘南線とともに大鰐線でも、国鉄で使われていたラッセル車キ100形を導入、冬期の除雪作業に使用している。大鰐線の除雪車はキ104形と名付けられた車両で、1923(昭和12)年に北海道の苗穂工場で造られた車両だ。
ED22形電気機関車と組んで使われる除雪車。冬期は大鰐駅に常駐して、降雪に備えている。寒い冬に、ぜひともこうした車両の雪かきシーンを見たいものだ。
【大鰐線の旅4】大鰐駅の名前がJRと弘南鉄道で違う理由は?
車庫のある津軽大沢駅を過ぎると、JR奥羽本線を立体交差で越え、さらに平川を越える。周囲の山景色が美しいあたりだ。
平川沿いに走ると、間もなく終点の大鰐駅に到着する。同駅は弘南鉄道の駅は大鰐駅。併設しているJR奥羽本線の駅は大鰐温泉駅を名乗る。この駅名にもおもしろい経緯がある。
1895(明治28)年に奥羽北線の駅が開業。大鰐駅と名乗った。1952(昭和27)年に弘前電気鉄道の大鰐駅が開業した。
その後、1970(昭和45)年の弘南鉄道に譲渡されたあとに同駅は、弘南大鰐駅と名が変更された。さらに1986(昭和61)年には国鉄と同じ大鰐駅に改称された。一方の国鉄・大鰐駅はJR化後の1991(平成3)年に大鰐温泉駅と改称された。
大鰐駅が、元々の名前で、二転三転していている。一時期、同じ名前となっていたものの、JR側の駅に新たに「温泉」が付けられていった。
弘南線と大鰐線の両線に乗車して、次のように思った。
1950年代に大鰐線を開業させた人たちが将来を見越して、いまのJR弘前駅と中央弘前駅を結ぶ路線を計画し、さらに大鰐線の線路と結びつけていたら。大鰐線もいまほどに乗客数の減少に苦しみ、廃止を取り沙汰されることもなかったかもしれない。
さらに廃止されてしまった黒石線が、鉄道需要が高かった時代に弘前鉄道の経営に移管されて姿を変えていたら。弘前市や黒石市をめぐる鉄道網も状況が変ったかもしれない。
歴史に“もし”や、“たられば”は禁物だとは思うものの、両線に乗車しつつ、そんな思いにとらわれた。