乗り物
鉄道
2018/9/30 20:00

ストーブ列車だけじゃない!! 日本最北の私鉄路線「津軽鉄道」の魅力を再発見する旅

おもしろローカル線の旅~~津軽鉄道(青森県)~~

 

津軽富士の名で親しまれる岩木山を望みつつ走るオレンジ色のディーゼルカー。最北の私鉄(第三セクター鉄道を除く)として知られる津軽鉄道の車両だ。

津軽鉄道といえば、雪景色のなかを走るストーブ列車がよく知られ、最果て感、美しい雪景色に誘われ、冬季は多くの人が訪れる。

 

そんな雪のイメージが強い津軽鉄道だが、あえて雪のない津軽へ訪れてみた。すると、雪の降らない季節ならではの発見があり、おもしろローカル線の旅が十分に楽しめた。

 

【津軽鉄道の現状】何とか存続を、と盛り上げムードが強まる

津軽鉄道の路線は津軽五所川原駅〜津軽中里駅間の12駅20.7km区間を結ぶ。北海道に第三セクター方式で経営する道南いさりび鉄道があるが、私鉄=民営鉄道と限定すれば、津軽鉄道は日本最北の地に路線を持つ私鉄会社ということになる。

津軽鉄道を取り巻く状況は厳しい。平成20年度から27年度の経営状況を見ると、黒字となったのは平成20年度と、平成22〜24年度まで、平成25年度以降は赤字経営が続く。路線の過疎化による利用者の減少傾向が著しい。

 

とはいえ、地元の人たちのサポートぶりは手厚い。2006年に津軽鉄道の存続を願うべく市民の機運を盛り上げる「津軽鉄道サポーターズクラブ」が発足。さらに観光案内役の「津軽半島観光アテンダント」が列車に同乗し、好評だ。ほか全国の鉄道ファンの応援ぶりも熱い。熱気を感じさせる具体例が最近あったばかりだが、それは後述することにしよう。

 

【津軽鉄道をめぐる歴史】五能線の開業がその起源となっていた

さて津軽鉄道の歴史を簡単に触れておこう。

 

津軽鉄道のみの歴史を見ると、地方路線によく見られる、地元有志による会社設立、そして路線開業という流れが見られる。津軽鉄道の開業する前、五所川原に初めて敷かれた鉄道が現在の五能線だった。

 

五能線の開業のため、地元有志による出資で、まず陸奥鉄道という会社が創られた。

 

●1918(大正7)年9月25日 陸奥鉄道により川部駅〜五所川原駅間が開業

現在の奥羽本線川部駅と五所川原駅間で、JR五能線の起源となる。ちなみに、この開業後に五所川原駅から先、鯵ケ沢駅(あじがさわえき)との間の路線建設が鉄道省の手によって始められている。そして、

 

●1927(昭和2)年6月1日 鉄道省が陸奥鉄道の川部駅〜五所川原駅間を買収、五所川原線(現・五能線の一部)に編入された

鉄道省の買い上げ条件が良く、その資金が津軽鉄道の開業の“元手”となった。

 

●1930(昭和3)年 7月15日に津軽鉄道の五所川原駅〜金木駅間が開業、10月4日に金木駅〜大沢内駅間が開業、11月13日に大沢内駅〜津軽中里駅間が開業

前年の1929年に鉄道免許状を交付されてから、翌年に開業したというその手際の良さには驚かされる。当時、鉄道の建設ブームということが背景にあり、また新線建設が地域経済の発展に大きく貢献したということなのだろう。

 

【車両の見どころ】個性的な動きを見られる機関車と旧型客車

現在、使われている車両は主力のディーゼルカーが津軽21形で、5両が在籍している。オレンジ色に塗られ、沿線出身の作家、太宰治の作品にちなみ、「走れメロス号」の愛称が付けられている。

 

ストーブ列車などのイベント列車に使われているのは、DD350形+旧型客車のオハフ33系やオハ46系といった1940年代および1950年代に製造された車両だ。DD350形ディーゼル機関車は、動輪にロッドという駆動のための機器が付く。いまとなっては貴重な車両で、走るとユニークな動輪の動きが見られる。

↑ストーブ列車などのイベント列車はディーゼル機関車+旧型客車という編成が多い。写真はGW期間に開かれる金木桜まつり用のイベント列車がちょうど五農校前駅を通過していったところ

 

↑列車を牽引するDD350形は1959年に製造されたディーゼル機関車で、動輪の駆動を助ける棒状の機器、ロッドが付く。津軽鉄道の客車は屋根にダルマストーブの煙突が付くのが特徴

 

同機関車には暖房用の蒸気供給設備がないために、客車にはダルマストーブが付けられている。暖房用にダルマストーブを設置したことが、逆に物珍しさとなり、いまやストーブ列車は津軽鉄道の冬の風物詩にまでなっている。

 

【津軽鉄道の再発見旅1】風が強い路線ならではの工夫が見られる

では、津軽五所川原駅から下り列車に乗り込むことにしよう。

 

筆者が乗車した列車は、津軽五所川原駅を15時以降に発車する列車だったこともあり、あいにく観光案内役の「津軽半島観光アテンダント」の乗車がなかった。「津軽半島観光アテンダント」の同乗する列車内では津軽のお国言葉を生で楽しむことができる。同乗しない列車に乗ってしまったことを悔やみつつ、旅を続ける。

↑乗り合わせた列車は「太宰列車2018」。2018年の6月19日から8月末まで沿線を走った。太宰ゆかりの作家や芸術家たちが手作りしたパネルなどの展示が行われた

 

↑前後の運転席横は図書スペースとなっている。このあたり小説家・太宰治の出身地らしい。津軽に関わる書籍やパンフレットなどもが置かれている

 

さて津軽五所川原駅。津軽鉄道の駅舎で乗車券を購入して、改札口を入る。構内に入ったつもりが、そこはJR五所川原駅の構内。跨線橋もJRと同じだ。このあたり五能線と津軽鉄道の関係が、その起源や歴史を含めて縁が深かったことをうかがわせる。

↑JR五所川原駅に隣接する津軽鉄道の起点、津軽五所川原駅。ホームは改札口からJR五所川原駅の構内へ入り、JRと共用する跨線橋を渡った奥にある

 

↑津軽五所川原駅の軒先に吊られるのは伝統的な津軽玩具「金魚ねぷた」。幸福をもたらす玩具とされている。駅舎内の売店でもお土産用の「金魚ねぷた」が販売されている

 

津軽五所川原駅の3番線が津軽鉄道のホーム。オレンジ色の車体、津軽21形1両が停車する。ホームの反対側には津軽鉄道の車庫スペースがあって、個性的な車両が多く停まっている。このあたりは、帰りにじっくり見ることにしよう。

 

ディーゼルエンジン特有の重みのあるアイドリング音を耳にしつつ車両に乗り込む。ちょうど地元の学校の休校日にあたったこの日は、乗り込む学生の姿もまばら。観光客の姿もちらほらで、半分の席が埋まるぐらいで列車は出発した。

 

しばらく五所川原の住宅地を見つつ、次の十川駅(とがわえき)へ。この十川駅から五農校前駅(ごのうこうまええき)付近が、もっとも岩木山がよく見える区間だ。

 

五農校前駅は、地元では「五農」の名で親しまれる「県立五所川原農林高等学校」の最寄り駅でもある。同高校で育てられた野菜や、生産されたジャムやジュースなどの産品は津軽五所川原駅の売店で販売されている。

 

次の津軽飯詰駅(つがるいづめえき)に注目。駅の前後のポイント部分にスノーシェルターが付けられている。このシェルター、進行方向の左側と上部のみ覆いがあり、ポイントへの雪の付着を防いでいる。

↑津軽飯詰駅の前後のポイント部分にかかるスノーシェルター。片側と屋根部分のみ覆われ、反対側には覆いが付いていないことがわかる

 

なぜ、進行方向左側のみなのか。それは、冬は日本海側から吹く西風が強いため。西風対策として進行方向左側のみ覆いが付けられたのだ。ただし、このスノーシェルター、現在はポイント自体が使われていないため、あまり役立っていないという現実もある。

 

このような風対策は、次の毘沙門駅(びしゃもんえき)でも見られる。

 

毘沙門駅は林に覆われている。西側が特に見事だ。津軽鉄道の社員が1956(昭和31)年に植樹した木々が60年以上の間に、ここまで育ったもので、冬に起こりやすい地吹雪や強風から鉄道を守る役割を果たしてきた。駅ホームには「鉄道林」の案内も立てられている。

↑毘沙門駅には鬱蒼とした林により覆われる。西側を覆う林は津軽鉄道の社員が植樹したもの。鉄道を風害から守る鉄道林の役割をしている

 

次の嘉瀬駅(かせえき)では構内に停まるディーゼルカー・キハ22形に注目したい。

 

倉庫前に停められた古いディーゼルカーは、ユニークな絵が多く描かれている。先頭には「しんご」の文字が。香取慎吾さんと青森の子どもたちが一緒にペイントした「夢のキャンバス号」だ。1997年にTV番組の企画でペイントが行われたもの。同車両は2000年に引退し、嘉瀬駅に停められていたが、2017年に、再度、塗り直しが行われた。

↑嘉瀬駅のホームに停まるキハ22028号車。1997年にTV番組の企画で香取慎吾さんと青森の子どもたちの手でペイント、さらに20年後に同メンバーが集まり塗り替えられた
  1. 1
  2. 2
全文表示