おもしろローカル線の旅24 〜〜JR香椎線(福岡県)〜〜
福岡市近郊を走るJR九州の香椎線(かしいせん)と、西日本鉄道の貝塚線。両線とも、博多湾鉄道(後の博多湾鉄道汽船)という会社が路線を開業させた。
それぞれ終点の駅で行き止まりになる「盲腸線」の形態。香椎線に至ってはJRで唯一、起終点駅で他線と連絡がない珍しい路線だ。なぜ2本の路線が造られ、その後、別々の道を歩んだのか。そこには『黒いダイヤ』と呼ばれ尊ばれた石炭輸送が絡んでいた。歴史をひも解きつつまずは香椎線の沿線をたどってみた。
【香椎線の歴史と概要】太平洋戦争の最中、西鉄から国鉄の路線に
最初にJR香椎線の歴史と路線の概要に触れておこう。
路線開業 | 博多湾鉄道により1904(明治37)年1月1日に西戸崎駅(さいとざきえき)〜須恵駅(すええき)間が開業、翌年12月29日に宇美駅(うみえき)まで延伸される |
現在の路線と距離 | 香椎線(通称:海の中道線)・西戸崎駅〜宇美駅間25.4km |
軌間(線路幅)・電化 | 1067mm・非電化 |
開業して5年後の1909年(明治42)年には、酒殿駅(さかどえき)から貨物支線が志免(しめ)に向けて延ばされている。沿線の志免町、宇美町、須惠町に点在していた炭田(総称して「糟屋(かすや)炭田」と呼ばれた)で採炭された石炭を、博多湾へ向けて運ぶ貨物輸送線としての役割が強かった。その後の路線の変転は目まぐるしい。
1920(大正9)年には「博多湾鉄道」から「博多湾鉄道汽船」に社名が改められる。1942(昭和17)年には、合併により西日本鉄道の路線となり、路線名が糟屋線(かすやせん)となった。
さらに1944(昭和19)年5月1日、国鉄の香椎線となる。沿線の糟屋炭田が海軍省の手で開発されたこともあり、出炭された石炭は主に艦船の燃料として使われた。太平洋戦争の最中、軍事利用に欠かせない石炭を輸送していたために、国鉄に組み込まれて行くことになった。
上記の地図は昭和11年当時に測量され、戦後、昭和21年に発行された地図だ。現・香椎線に平行するように旧・勝田線(かつたせん)の線路が敷かれていた。勝田線は1918(大正7)年に「筑前参宮鐵道」という会社により開業された路線で、同路線も香椎線とほぼ同じ運命をたどる。
戦前に博多湾鉄道汽船などの民営鉄道と合併、西鉄の宇美線(うみせん)となる。さらに香椎線が国有化されたちょうど同じ日に、国鉄の路線となり、勝田線となった。
なお、勝田線は1985(昭和60)年3月いっぱいで廃線となった。JR九州の路線となることもなく消えていった路線だ。
【香椎線を巡る旅1】九州らしい「バル」駅に早くも出会う
現在、香椎線の列車は、西戸崎駅〜宇美駅間を結ぶ朝の7〜8本の直通列車を除き、香椎駅を境に西と東に分断され、別々に運行されている。香椎駅〜宇美駅間(所要30分)と、香椎駅〜西戸崎駅間(所要25分)を結ぶそれぞれ列車で、日中は30分間隔で運転されている。
香椎駅を境に東へむかう宇美駅行きと、西へ向かう西戸崎駅行きでは車窓から眺める風景や、乗客を含め、趣がだいぶ異なる。そんな様子を含めレポートしよう。
路線は福岡市近郊にも関わらず全線が非電化だ。キハ47形という国鉄時代に生まれたディーゼルカーが走っている。
まずは山側の宇美駅を目指そう。語呂の一致にすぎないが、山側の終着駅が宇美(うみ)駅というのもおもしろい。
宇美駅行き列車が、キハ47形特有のディーゼルエンジン音を高らかに奏でつつ発車した。鹿児島本線の線路から徐々に離れ、次の香椎神宮駅を目指す。3つ目の土井駅で山陽新幹線の高架下をくぐった。
香椎駅を出発して15分ほどで長者原駅(ちょうじゃばるえき)に到着する。この駅で篠栗線(ささぐりせん)と接続する。博多駅から列車が直接乗り入れる篠栗線は列車本数ならびに乗客も多く、長者原駅で香椎線に乗り換える利用者も多い。
ちなみに、九州の鉄道旅を経験された多くの方がご存知だと思われるが、ちょっと寄り道。九州では「原」という地名は、「ハル」または「バル」と読むことが多い。本州以北では、こうした読み方をする駅名がないだけに、ちょっと面食らう読み方だ。香椎線も例外でなく、長者原駅、新原駅(しんばるえき)といった「バル」と読ませる駅がある。
九州での例外は神が宿る「高天原(たかまがはら)」や、「舞松原駅(まいまつばらえき)」といった「松原」のような単語が絡む例に限られる。
「原」がなぜ「ハル」「バル」と読まれてきたのか。その理由には諸説あり、明確な答えは出ていないが、朝鮮起源説を唱える専門家が多いようだ。
【香椎線を巡る旅2】まさに威容!志免の竪坑櫓の意外な歴史
さて長年にわたり石炭輸送を行われてきた香椎線。かつての栄華の跡に出会うことができる。
香椎線の酒殿駅から志免(しめ)という町へ元貨物支線に沿うように歩いてみた。酒殿駅の南側は、空き地が広がり、また廃線跡を利用した道が駅の先、緩やかにカーブしつつ志免方面へ延びている。
酒殿駅から志免町までは約1.6km、徒歩で20分ほどだ。町には「志免鉱業所竪坑櫓(たてこうやぐら)」という巨大な建物が立つ。地下深く埋蔵されていた石炭の産出のために設けられた竪坑の跡だ。空を突くように延びる竪坑は周囲からも望め、この櫓を目印に歩くことができる。
志免町では、まず旧志免駅へ立ち寄った。同駅は香椎線の貨物支線と、勝田線が走っていたところ。旧駅は広々した鉄道記念公園となっていた。ホームと線路が残る。ちょうど訪れた時には、親子が写真撮影をしていたが、訪れる人は少なく寂寥感が感じられた。
志免の観光名所になっている「竪坑櫓」は旧志免駅のすぐ東側にある。頭上、50m近く延びる櫓。この下は地下430mまで竪坑が延びていたとされる。巨大な櫓は石炭の採掘と、作業員の移動に使われていた。
この竪坑櫓の着工は1941(昭和16)年、完成が1943(昭和18)年のことだった。かかった経費は当時の金額で200万円、今のお金に換算すると6億円以上だとされる。当時、最新の技術を誇った竪坑で、太平洋戦争前に造られた同スタイルの竪坑は世界で3つしか残っていないとされる。
さらに骨組みとされた鉄鋼はイギリス製のものだった。戦時下、入手さえ困難だったと思われる海外の鉄鋼を優先的に使って造られたことに驚かされた。
鉄筋コンクリート製で、見上げるその姿は威容そのもの。さらに驚かされるのは元鉱業所の運営母体だ。当初は海軍省。戦争遂行の名のもとに、多くの作業員が動員され、短期間で造り上げられたものだった。
戦後は日本国有鉄道(国鉄)に引き継がれる。採炭した石炭は、当時まだ主力車両として活躍していた蒸気機関車の熱源として使われたのだろう。
戦後も採炭に役立ってきた竪坑櫓だったが、志免鉱業所が1964(昭和39)年に閉山されるとともに竪坑櫓もその役目を終えた。巨額な投資が行われたにも関わらず、現役として活躍したのは20年足らずだったわけだ。
巨額な費用をかけ、建造には多くの犠牲も伴ったと推測される巨大な櫓が、完成後わずか20年もたたずに、廃虚になるとは……。 石炭から石油へエネルギーの変化があったとはいえ、空しさを感じさせる遺構でもある。
【香椎線を巡る旅3】宇美駅前に旧勝田線の路線跡を発見する
駅に戻り、香椎線の旅を続けよう。車窓には住宅地とともに田園風景が広がるようになる。そして香椎駅からちょうど30分で終点の宇美駅に到着した。
宇美駅は、今でこそ香椎線のみの駅だが、前述した勝田線にも宇美駅が設けられていた。開業させた鉄道会社が異なったせいか、勝田線の線路は香椎線とつながらず。共に国鉄の路線となった後も線路は結ばれることなかった。
しかも、両線の宇美駅の改札口が向き合っておらず(それぞれ西側に駅舎が向いていた)、歩くと100mほど離れていて、乗換えも不便だった。ちなみに勝田線の線路は宇美駅から約2.8km先の筑前勝田駅まで延びていた。
【香椎線を巡る旅4】西鉄貝塚線との接続する和白駅付近の不思議
宇美駅から香椎駅に戻り、西側の西戸崎駅を目指そう。西戸崎駅へ向かう列車はレジャー利用の乗客が目立つ。沿線の海ノ中道駅が最寄り駅の「海の中道海浜公園」や「マリンワールド海の中道」へ向かう観光客が多く利用するためだ。
宇美駅方面へ向かう列車が地元に住む人たちの利用が多いのに対して、対極を行く趣がある。さらに海の景色や長く続く砂浜などが、リゾート気分を高めている。
西戸崎駅行きの列車はしばらくの間、鹿児島本線と平行して設けられた線路を走る。鹿児島本線では、香椎駅の隣の駅は九産大前駅(きゅうさんだいまええき)だが、香椎線は九産大前駅のそばを通るものの、駅が設けられていない。
香椎駅の次の駅は和白駅(わじろえき)となる。この駅、かつては香椎線を同じ会社の路線だった西鉄貝塚線との接続駅だ。香椎線は和白駅の手前から、数100mにわたり貝塚線と平行して走る。
現在は、JRと西鉄の和白駅は別々に設けられているが、古くは、現在よりも500mほど香椎駅側に駅ホームがあり、JR・西鉄の共用駅として利用されていた。さらに現在は、駅の北側で両線が立体交差しているが、1966(昭和41)年10月までは両線の線路が平面で交差していた。
JRと西鉄という違う道を歩み始めた両線だったが、20年にわたり平面交差が続くという、ちょっと考えられない線路構造が長年にわたり続いたわけだ。さぞや、両路線の列車の運転に手間がかかったに違いない。
【香椎線を巡る旅5】8kmにも渡る長大な砂州の上を走る
和白駅を出た香椎線の列車は、「海の中道」を呼ばれる、巨大な砂州(さす)を走り始める。
海の中道は博多湾の北側をふさぐように九州本土と志賀島(しかのしま)を結ぶ長さ8kmにもおよぶ長い砂州だ。この砂州の上を走るだけに珍しい光景が楽しめる。和白駅の次の駅は奈多駅。畑地や住宅を見て走る。さらに次の駅が雁ノ巣駅(がんのすえき)だ。
雁ノ巣という地名をどこかで聞き覚えている方も多いのではないだろうか。筆者は例年12月に行われる福岡国際マラソンの折り返し地点として覚えている。ただし、この福岡国際マラソンも、現在は海の中道で風の影響を受けるということから、香椎で折り返すようになっている。
さらにこの雁ノ巣には雁ノ巣飛行場があった。太平洋戦争時は博多海軍航空隊の基地も置かれた。太平洋戦争前に滑走路を延ばすために、香椎線(当時は博多湾鉄道汽船が運行)の線路が北側に移設されている。戦後はアメリカ軍に接収されていたが、1977(昭和52)年に返還され、現在は広い敷地を活かしたレクリエーションセンターとなっている。
雁ノ巣駅〜海ノ中道駅間は駅間が4.4kmと離れている。列車は玄界灘側に砂丘を見ながら進む。砂丘が続く海岸は奈多海岸と呼ばれている。さらに海ノ中道駅に近づくにつれクロマツの松林に包まれるようにして列車は走る。
「海の中道海浜公園」や「マリンワールド海の中道」の最寄り駅、海ノ中道駅を通り過ぎれば、終点の西戸崎駅も近い。
西戸崎駅近くには近年、リゾートマンションが建てられているが、港側には今も広大な空き地も広がる。石炭輸送が行われていた当時の地図を見ると、引込線が多数、敷かれていた様子が分かる。石炭が積まれた貨車が、駅構内にたくさん停められていた様子が目に浮かぶようだ。
なお、12月14日にJR九州から新たな発表があった。その発表によると香椎線の車両が2019年3月16日に予定されるダイヤ改正にあわせて、すべての車両がBEC819系「DENCHA」に変更されることが発表されるとのこと。BEC819系は電化区間ではパンタグラフをあげ電気により走る。また車両にリチウムイオン電池が積まれ、電化区間で充電。その充電した電気を使って非電化区間を走る仕組みで「蓄電池電車」とも呼ばれる。
長らく非電化だった香椎線も来春に、大きく変ろうとしている。
香椎線のレポートはここまで。【西鉄 貝塚線編】では香椎線と同じ会社が開業させた貝塚線を旅する。