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2019/3/16 17:30

房総半島を走る行き止まり路線「久留里線」……予想外の発見の多さにびっくり!

【久留里線で発見⑥】レトロな街「久留里」は名水の里でもあった

多くの乗客が乗り降りする久留里駅。ここには久留里線沿線で唯一の街がある。それも、歩いてみるとかなり個性的な街だということが分かった。実は久留里をじっくり旅したのは初めてだった。

 

筆者は旅のガイド誌などを長年、編集してきたにも関わらず、久留里は縁がない街だった。というよりも迂闊にもほぼ知らなかった。なぜだったのだろう?

 

久留里駅があるのは君津市久留里市場。久留里という市町はない。さらに、かつて久留里町という町名もなかった。久留里がある地区は古くは上総町(かずさまち)で、1970(昭和45)年に周辺の君津町、小櫃村などと合併、その翌年には君津市となっている。

 

君津といえば、内房の製鉄所がある街といったイメージだが、実は、海に面した地域はその一部で、君津市自体は内陸部へ奥深く広がっていて、久留里もそこに含まれていたわけだ。

 

言い訳がましいが、そんな歴史もあり、久留里という街はあまり良く知らず、また馴染みが薄い街だったのかも知れない。だが、立ち寄ったことで、意識が一変してしまった。そして非常に「発見」が多い街であることも分かった。

 

↑久留里の街中には南北に国道410号(通称・久留里街道)が通る。写真のような立派な蔵を利用した金物店や割烹旅館などの古いたたずまいを活かした店舗が軒を連ねる。レトロなテレビやホウロウ看板を店先に展示した店もあり興味をそそる(写真左下)

 

↑久留里の街中には自噴井戸が各所にあり「久留里の水」として親しまれている。飲料用に約200本の井戸があるとされ、千葉県内では唯一「平成の名水百選」に選ばれた。井戸にはコップ、ひしゃくなども用意される。市内外から水をくみに訪れる人も多い

 

街中を歩くと、飲料用の自噴井戸が各所に設けられていることに気付く。上総掘りという昔ながらの方法で掘られた井戸で、地下水が自噴しているのだ。その量は豊富で、出しっぱなし状態にされている。水は地元の観光協会が水質検査を行っていて、それぞれに検査証が掲示されている。1年を通して水温が変らずで、夏は冷たく冬は温かい美味しい水だ。

 

こうした名水の里は、水にまつわる名産品に事欠かない。とくに久留里では、名水で打ったそばが楽しめる。さらに酒造りが盛んだ。何と6軒の酒蔵が集う。一番の老舗は17世紀創業という長い歴史を誇る。

 

↑久留里駅周辺の複数の店で手打ちそばを楽しむことができる。写真は名水手打「安万支(あまき)」の鴨せいろ(1300円)。名水手打ちを謳っていることもあり、出される蕎麦は喉ごしが爽やかだった。締めに味わうそば湯も濃厚だった

 

↑久留里街道沿いには長い歴史を持つ老舗の酒造が複数軒ある。そんな酒蔵の直売店で限定商品を見つけるのも楽しい。春先は「しぼりたて生酒」(写真左上)のような時期限定の商品に出会うことも。写真は18世紀創業の藤平酒造。店の前にも自噴井戸が設けられる

 

 

【久留里線で発見⑦】里見氏ゆかりの山城・久留里城を目指す

久留里駅で降りたからには、久留里城趾を目指したいと考えた。駅からは距離にして1.7km、徒歩で30分ほどとやや遠い。さらに山城とあって、行きは厳しい登り坂がある。さて、肝心の久留里城なのだが、安房里見氏(あわさとみし)と縁が深いことを初めて知った。

 

久留里城の築城は15世紀のなかば。上総武田氏の武田信長が築城、その血筋にあたる真里谷(まりや)氏が治める。その後に安房里見氏が再構築するという歴史をたどる。安房里見氏の時代には、小田原北条家との戦いの最前線となった。2万人の大勢力で攻めてきた北条軍に一度は占領されたものの、再び城を奪還している。

 

ところで、安房里見といえば、江戸後期に曲亭馬琴が書いた「南総里見八犬伝」により、その名が後世にも知られている。近年には映画化されるほどで人気も高い。もちろん史実とは異なるお話ながら、実際の安房里見氏も悲劇の末路をたどっていた。

↑久留里城趾の薬師曲輪から久留里郊外を望む。遠くには久留里線の線路が見える。この先、路線は左側に見える山間部へ入っていく。左下は山の山頂部にある復元された久留里城の天守閣。天守閣の中を見学することも可能だ(見学無料)

 

戦国時代末期、小田原城攻めの際に、当時の城主・里見義康は「参陣せよ」という命に従わず、豊臣秀吉の不興を買ってしまう。そして久留里城があった上総の領地は没収されてしまう。里見氏の領地は安房一国となってしまった。

 

関ヶ原の戦いの後に、徳川がたに付き、論功行賞で加増される。しかし、江戸時代の初期、さまざまな事柄が絡み、改易されてしまう。そして御家取りつぶしとなっていく。

 

どの時代でもそうだが、上手く立ち回る人たちと、それが出来ずに結果として損をしていく人たちがいる。安房里見家は後者の典型例と言って良いのかも知れない。しかし、不器用ながらも後世にその朴訥さが馬琴の描いた物語を含め語り継がれていった。

 

そんなことを思いつつ城趾をめぐった。登り道はちょっとつらかったが、城趾の上から見る眺望には心が癒されたのだった。

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