おもしろローカル線の旅41 〜〜山形鉄道フラワー長井線(山形県)〜〜
最上川の上流域に位置する米沢盆地(置賜盆地)。フラワー長井線は盆地の中心都市、米沢に近い赤湯駅から最上川沿いを下流に向けて走るローカル線だ。
車窓から朝日山地に奥羽山脈、さらに飯豊連峰を眺めることができる。最上川も中・下流とは異なり、静かな流れを見せる。ほのぼのしたエリアを走るフラワー長井線ののんびり旅。乗車するといくつかの「?」が浮かび上がってきた。
【長井線の疑問①】なぜ長井線の路線が敷かれたのだろう?
フラワー長井線(以降、「長井線」と略)は、第三セクター鉄道の山形鉄道が運行する路線だ。全線が単線、非電化。前回、紹介した同じ山形県内を走るJR左沢線(あてらざわせん)と縁が深い。
まずは路線の概要を触れておこう。
路線と距離 | 山形鉄道フラワー長井線/赤湯駅〜荒砥(あらと)駅30.5km |
開業 | 1913(大正2)年10月26日、赤湯駅〜梨郷(りんごう)駅間が開業、1923(大正12)年4月22日、荒砥駅まで延伸 |
駅数: | 17駅(起終点を含む) |
長井線は当初、長井軽便線として誕生した。JR左沢線と同じ、軽便線としてのスタートだった。軽便線として造られたその元になっているのが、1910(明治43)年に整備された軽便鉄道法という法律だった。
この軽便鉄道法とは、幹線を作る時のように厳しい条件を設けずに、地方路線の延長促進を図るという政府の方針から生まれた法律で、その後、わずか9年で法律が廃止されている。緩い制約下のなかで地方路線の敷設を進めようという政府の意図の元に生まれた路線だった。
長井線が走るのは最上川沿い。最上川は鉄道が敷かれるまでは、川船による水運が盛んで、山形県内の輸送の大動脈でもあった。流域にはいくつかの中継基地があり、そうした町には物資の輸送に関わる人々が多く住んでいた。奥羽本線などの鉄道が敷かれた後になった後は、鉄道沿線に住む人が増えていったが、それまで最上川沿いが山形の商工業の基盤となる地域だった。
長井線が計画された理由には、賑わいを見せていた最上川沿いに線路を敷くという大切な役割があったわけである。
【長井線の疑問②】なぜ荒砥駅まで路線が敷かれたのだろう?
赤湯駅を起点にして路線が敷かれた長井線。終点は荒砥駅(あらとえき)だ。荒砥駅周辺は決して繁華な土地でない。にもかかわらず最上川をわざわざ長い鉄橋で西岸から東岸へ渡り、その橋のすぐ先の荒砥駅が終点になっている。ちょっと不思議に感じる。
実は長井線の荒砥駅と、JR左沢線の終点駅・左沢駅は路線が結ばれる予定だった。1922(大正11)年に制定された改正鉄道敷設法により、路線の敷設が計画され、新路線には「左荒線(さこうせん)」という名前まで付けられていた。
とはいえ、この計画は着工されることがなかった。かつて最上川を使った水運で栄えた地域だったものの、川船での物資の輸送は消滅し、流域の町々にも時代の変化が起きていた。すでに鉄道を敷くことによっての利点は薄れつつあったということなのだろう。
【長井線の疑問③】フラワー長井線の沿線にある花名所は?
その後、国鉄の一路線として走り続けた長井線だったが、国鉄からJR東日本に移った翌年の秋(1988年10月25日)に山形鉄道に移管された。そして路線名も「フラワー長井線」と改められた。
この名前は読者の方が予想されるように、沿線には花の名所が多いことから付けられたものである。
長井線沿線には花の名所が多い。南陽市赤湯の名物「烏帽子山千本桜」。川西町のダリヤの名所「ダリヤ園」。長井市の「あやめ公園」。さらに終点の荒砥駅がある白鷹町は日本一の紅花の産地という具合だ。
現在は、これらの沿線の花名所は長井線のラッピング車としてPRされている。長井線の旅ではラッピング車両でも花見気分が味わえるのだ。
【長井線の疑問④】東口と西口で造りがまったく異なる赤湯駅だが
山形新幹線(山形線・奥羽本線)の赤湯駅に降り立つ。ここが長井線の起点となる。この赤湯駅。東口と西口ではかなり造りが異なる。まずはその外観から見ていこう。
東口はアーチ状の屋根がおしゃれな造り。西口はシンプルなログハウスだ。赤湯駅の玄関口となるのは東口で、こちらの側に町が広がる。対して西口は新興住宅地の趣で民家が点在する。
赤い湯と書いて「赤湯」。その名からわかるように温泉がある土地だ。温泉名は赤湯温泉。14軒の温泉旅館と4つの公衆浴場が街の中にある。とはいえ駅近くに温泉施設はない。温泉宿がある地域へは車で5分ほど(1.5km)と離れているのがちょっと残念だ。
前置きが長くなったが、長井線の列車に乗ってみよう。
赤湯駅の4番線に桜ラッピングの車両が停車していた。座席はクロスシートが主体で、やわらかめの座り心地で寛げる。乗車すると気動車のアイドリング音が耳に届き、鉄道の旅に一興を添える。
列車の発車は1時間〜1時間30分ごと。荒砥駅との間を1日に12往復の列車が走る。赤湯駅〜荒砥駅間の所要時間は1時間前後。快速列車などの優等列車はなく、すべてが普通列車だ。
赤湯駅を静かに発車した列車はしばらく山形新幹線(山形線)の線路に平行して走る。田畑が見え始め、列車は大きく左にカーブする。次の駅が南陽市役所駅だ。駅名どおり駅前に南陽市役所が建つ。
この駅を過ぎると、左右に果物畑が多くなる。南陽市はフルーツの宝庫で、とくにブドウは山形県一の栽培量だ。ちなみに山形県のブドウ生産量は山梨県に次ぐ全国2位。どちらも県名に山が付いているのは何かの縁だろうか。
ほかに、さくらんぼ、ラ・フランスが栽培されている。フルーツが実る季節にぜひ訪れてみたい路線である。
宮内駅、おりはた駅と民家と畑が混在するエリアを通り抜ける。そして梨郷駅へ。梨の郷と書いて「りんごう」と読む。南陽市になるまで地元は梨郷村という村名で、それが由来となっている。以前は梨の郷だったのだろう。現在は南陽の名物となっている洋梨作りが盛んなようだった。
梨郷駅からはしばらく畑を見て走り、最上川を渡る。長井線で始めての最上川との出会いだ。このあたり中・下流域とは異なり、河原もあり、水量もそれほど多くはない。とうとうと流れる最上川のイメージとはだいぶ異なる。
【長井線の疑問⑤】今泉駅からは米坂線・長井線どちらが便利?
木造駅舎が名物の西大塚駅(詳細後述)の次の駅が今泉駅。ここでJR米坂線(よねさかせん)と合流する。
長井線の沿線で赤湯駅を除き唯一、4番線ホームまである駅で両線の列車が接続する時には、乗り換え客が行き交う。それ以外は閑散としてしまう田んぼの中の静かな駅だった。
今泉駅からは長井線を使えば赤湯駅へ、JR米坂線に乗車すれば米沢駅へ出ることができる。地元に住む人たちはどちらの路線を使うことが多いのだろうか?
乗車時間は赤湯駅まで長井線で約20分。米沢駅までは米坂線がぐるりと遠回りしているため約30分かかる。
米坂線は朝夕を除いて列車が4時間近く、走らない時間帯があり(土・休日を除く)、長井線の沿線から東京方面へ向かう場合は、米坂線に乗換えずに、赤湯駅経由で新幹線に乗換える利用者が多いようだった。赤湯駅では新幹線への乗継ぎも便利なように長井線の時刻も設定されている。
さらに山形駅、新庄駅方面へは赤湯駅経由の方が運賃が安いことも長井線の一つの魅力にもなっている。
【長井線の疑問⑥】JR米坂線との共用区間が1.8kmほど続くが
今泉駅を出てから間もなく、鉄道好きにはちょっと気になる区間を通る。JR米坂線と長井線の線路が合流して、しばらくの間、両線が共用する単線区間を走るのだ。
具体的には今泉駅を出て、白川橋梁を渡り、その先の白川信号場までの1.8kmがJR米坂線と長井線の共用区間となっている。
今泉駅〜白川信号場間の2社の共用区間。かつては同じ国鉄の路線だったわけで、こうした共用も不思議でないところ。ましてや、新線を造るほどの列車本数が多い区間でないだけに、このような区間が残っているわけだ。
とはいえ、共用区間の弊害もないわけではない。ちょうど目にしたのは次のような現象。米坂線の列車が10分ほど遅れ。そのために長井線の列車の時刻も調整され、10分ほどの出発時間の遅れが生じていた。
逆に長井線の列車が遅れて、米坂線の列車がそれに付きあう、ということももちろんあるのだろう。のんびりしたローカル線ならではの光景を目にすることとなった。
【長井線の疑問⑦】大正生まれの古風な駅舎が残る駅は?
長井線の駅は第三セクター鉄道となり、徐々に各駅の駅舎の改修が進められている。とはいえまだ古い駅舎がいくつか残っている。鉄道ファンにとってはうれしい状況だ。
3駅ほど例をあげよう。まずは西大塚駅だ。西大塚駅には国鉄標準形とも称される木造駅舎が残っている。素朴な建物で何とも味がある。
今泉駅から4つめの長井駅の駅舎も味わい深い。開業当初の駅ではなく1969(昭和11)年に建て替えられた駅舎で、昭和レトロの趣が香る。昭和初期の建築らしい重厚かつ細かく造られたその構造が興味深い。
長井駅から2つ先の羽前成田駅も古風だ。路線開業当時の木造駅舎が残っている。国鉄標準形と呼ばれる造りの駅舎は今やお宝といった趣だ。徐々に減りつつある古い駅舎だが、今後もできれば残していただきたいと願うのみである。
【長井線の疑問⑧】蚕桑駅の横に連なる木々はいったい?
古い駅舎が残る駅として紹介した長井駅と羽前成田駅。その間にあるのがあやめ公園駅だ。この駅、長井線では2002(平成14)年開設と新しい。長井線では、あやめ公園駅や四季の郷駅(2007年開設)と新たに開業した駅がある。
駅と駅の距離を短くして利用者の利便性を高める。比べては申し訳無いが、JR山形線では赤湯駅の前後区間など、駅間がかなり離れたところが多い。一方で地方自治体絡みで運営される第三セクター鉄道の長井線。このあたり利用者サイドに立てる強みなのだろう。
あやめ公園駅、羽前成田駅を通り白兎駅へ。白い兎と書いて、そのものずばり「しろうさぎ」と読む。地元が白兎地区だったため、この駅名となった。ただし地区名は「しろさぎ」と読む。駅名は「しろうさぎ」だ。さらに小さな白い駅舎はウサギの耳のイラスト入りだ。
ちなみに長井線の宮内駅ではウサギの「もっちぃ」が名物駅長として勤務。人気となっている。この人気にあやかってということらしい。
さて白兎駅の次は蚕桑駅。さてこの駅名、何と読むのでしょうか? かなりの難読駅です。
蚕(かいこ)の桑と書いて、「こぐわ」と読ませる。路線が開業した1922(大正11)年からある駅で、現在は白鷹町ながら、古くは蚕桑(こぐわ)村内の駅だった。それこそ養蚕に必要な桑を盛んに植えられた地域なのだろう。
さてこの蚕桑駅のホームを包むように西側に美林が連なる。この林は雪が多く、また冬に季節風が強い地方で多くが見られた鉄道防雪林だ。かつて北国の鉄道路線では、こうした林を育てることで風を防ぎ、また雪を防ぐことで、列車の遅れが生じることを防いだ。
現在では用地確保と、樹林を育てることに時間と手間がかかり、防雪林は重視されていないが、こうした先人の知恵をこの蚕桑駅では見ることができる。
【長井線の疑問⑨】日本最古の鉄橋がどうしてここに?
長井線の旅も最終盤。白鷹町(しらたかまち)に入り、白兎駅、蚕桑駅(こぐわえき)、鮎貝駅(あゆかいえき)と動物や昆虫、魚絡みの名前が続く。町名も白鷹なのだから、そうした動物絡みの名が多いことも不思議がないのかも知れない。
開設が他の駅とくらべて新しい四季の郷駅を過ぎると、列車はカーブしつつ坂を上り最上川の堤防へ至る。ここで2度目の最上川との出会い、古風な形の鉄橋で川を渡る。
荒砥駅の手前で渡る最上川橋梁は日本の鉄道史でも、今となっては歴史的な財産とも言える橋が残っていた。なんと日本一古い鉄橋があったのだ。
さて、長井線が開業したのは大正時代。もっと古い鉄橋があるのでは、とお思いの方もあるだろう。長井線の橋梁に使われる資材は、以前は東海道本線の木曽川橋梁に使われていたものだった。木曽川橋梁は1887(明治20)年に建造された。設計は日本の鉄道史に大きな功績を残したイギリス人技術者のC・ポナール。イギリスから取り寄せた資材を使って造られた。
その後に木曽川橋梁は2代目となりかけ替え、その古い橋梁を移設したのが長井線の最上川橋梁だった。ダブルワーレントラス橋と呼ばれる構造で、鉄橋の上の桁部分に三角形の鉄骨資材を組み合わせた構造が用いられている。
長井線に明治期に造られた橋の資材が使われていたとは。同橋は土木学会選奨土木遺産に選ばれている。また経済産業省の近代化産業遺産にも選ばれている。
さらに、この橋は頑丈で、最上川で起きた水害にもたびたび耐えて抜いてきた。長井線を水害から守ってきた優れた“守り神”だったわけである。
【長井線の疑問⑩】終着駅・荒砥の線路の先はどうなっている?
たどってきた長井線の旅。終着駅の荒砥駅に下り立った。さて線路の先はどうなっているのだろう。
荒砥駅のホームの先には検修庫がある。線路はその庫内に延びていた。裏に回って見ると……。
検修庫の先にわずかばかり線路があり、線路止めが設けられていた。かつては左沢駅まで延ばす予定もあった長井線。もし延びていたらどのような楽しい路線になったのだろうか。
現在、地方路線は苦境に立たされている。山形鉄道も例外ではない。国土交通省から発表される鉄道統計年表を見ると平成24年度から28年度にかけて、例年数%の利用者減が続いている。とはいえ、鮮やかなラッピングの車両が沿線を彩り、また利用者の立場に立った営業が続けられていく限り、今後も利用者に支えられていくことだろう。
明治の初期にこの地を訪れた女性旅行家イザベラ・バードは、「東洋のアルカディア」と讃えた。山形の理想郷を走るフラワー長井線。令和の時代も、末長く走り続けていくことを願いたい。
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