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2019/6/1 17:30

花と山景色と最古の鉄道遺産が旅人を出迎える「山形鉄道」10の疑問

おもしろローカル線の旅41 〜〜山形鉄道フラワー長井線(山形県)〜〜

 

最上川の上流域に位置する米沢盆地(置賜盆地)。フラワー長井線は盆地の中心都市、米沢に近い赤湯駅から最上川沿いを下流に向けて走るローカル線だ。

 

車窓から朝日山地に奥羽山脈、さらに飯豊連峰を眺めることができる。最上川も中・下流とは異なり、静かな流れを見せる。ほのぼのしたエリアを走るフラワー長井線ののんびり旅。乗車するといくつかの「?」が浮かび上がってきた。

↑フラワー長井線を走る車両はYR-880形気動車。多くが華やかにラッピングされていて沿線を彩る。写真の車両はさくらラッピング車。南陽市赤湯にある烏帽子山公園の名物、烏帽子山千本桜をイメージした車体だ

 

【長井線の疑問①】なぜ長井線の路線が敷かれたのだろう?

フラワー長井線(以降、「長井線」と略)は、第三セクター鉄道の山形鉄道が運行する路線だ。全線が単線、非電化。前回、紹介した同じ山形県内を走るJR左沢線(あてらざわせん)と縁が深い。

 

まずは路線の概要を触れておこう。

路線と距離 山形鉄道フラワー長井線/赤湯駅〜荒砥(あらと)駅30.5km
開業 1913(大正2)年10月26日、赤湯駅〜梨郷(りんごう)駅間が開業、1923(大正12)年4月22日、荒砥駅まで延伸
駅数: 17駅(起終点を含む)

 

長井線は当初、長井軽便線として誕生した。JR左沢線と同じ、軽便線としてのスタートだった。軽便線として造られたその元になっているのが、1910(明治43)年に整備された軽便鉄道法という法律だった。

 

この軽便鉄道法とは、幹線を作る時のように厳しい条件を設けずに、地方路線の延長促進を図るという政府の方針から生まれた法律で、その後、わずか9年で法律が廃止されている。緩い制約下のなかで地方路線の敷設を進めようという政府の意図の元に生まれた路線だった。

↑最上川に架かる松川橋梁を渡り西大塚駅に近づくYR880形。山形鉄道に移管されたのち長い間、同カラーで走り続けた。現在はラッピング車両が大半となっている

 

長井線が走るのは最上川沿い。最上川は鉄道が敷かれるまでは、川船による水運が盛んで、山形県内の輸送の大動脈でもあった。流域にはいくつかの中継基地があり、そうした町には物資の輸送に関わる人々が多く住んでいた。奥羽本線などの鉄道が敷かれた後になった後は、鉄道沿線に住む人が増えていったが、それまで最上川沿いが山形の商工業の基盤となる地域だった。

 

長井線が計画された理由には、賑わいを見せていた最上川沿いに線路を敷くという大切な役割があったわけである。

 

 

【長井線の疑問②】なぜ荒砥駅まで路線が敷かれたのだろう?

赤湯駅を起点にして路線が敷かれた長井線。終点は荒砥駅(あらとえき)だ。荒砥駅周辺は決して繁華な土地でない。にもかかわらず最上川をわざわざ長い鉄橋で西岸から東岸へ渡り、その橋のすぐ先の荒砥駅が終点になっている。ちょっと不思議に感じる。

↑2003年に新装された長井線の終着駅、荒砥。駅舎には公民館が併設されている。駅前は閑散とした雰囲気だが、駅よりも一段高い、河岸段丘の上に白鷹町(しらたかまち)の役場などの主要施設がある

 

実は長井線の荒砥駅と、JR左沢線の終点駅・左沢駅は路線が結ばれる予定だった。1922(大正11)年に制定された改正鉄道敷設法により、路線の敷設が計画され、新路線には「左荒線(さこうせん)」という名前まで付けられていた。

 

とはいえ、この計画は着工されることがなかった。かつて最上川を使った水運で栄えた地域だったものの、川船での物資の輸送は消滅し、流域の町々にも時代の変化が起きていた。すでに鉄道を敷くことによっての利点は薄れつつあったということなのだろう。

 

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