乗り物
鉄道
2019/8/4 18:00

東日本最後の115系の聖地「越後線」−− 新潟を走るローカル線10の秘密

おもしろローカル線の旅48 〜〜JR東日本 越後線(新潟県)〜〜

JR越後線は新潟県の柏崎駅と新潟駅を結ぶ。かつて直流電化区間を多く走っていた近距離用の115系。この国鉄形電車が、JR東日本の管内で唯一残る最後の“聖地”となりつつあり、近年、鉄道ファンが多く訪れるようになっている。

 

車両好きが乗車する路線だが、調べていくうちに、意外な歴史に気付かされた。さらにJR路線としては珍しい設備を見ることができた。そんな越後線を巡る知られざる歴史と現在を掘り下げていこう。

 

【関連記事】
爽快感抜群! 秘境を走る「只見線」じっくり探訪記<その1>

↑関屋駅〜青山駅間を流れる関屋分水を渡る越後線115系電車。写真の115系は前3両が一次新潟色と呼ばれる塗装色。後ろ3両は三次新潟色と呼ばれる塗装車だ。越後線では区間と時間により、2両〜6両という異なる編成の列車が混在して走っている

 

【越後線の秘密①】路線を開業させた越後鉄道という会社の不思議

越後線は起点が柏崎駅で、終点が新潟駅となる。とはいえ、新潟県の中心はやはり新潟市。越後線の歴史でも、新潟市内での変化がキーポイントとなっている。よって新潟駅側から話を進めていこう。

 

まず越後線の概要を触れておきたい。

 

路線と距離JR東日本 越後線/柏崎駅〜新潟駅83.8km
開業1912(大正元)年8月25日、越後鉄道により白山駅〜吉田駅間が開業、柏崎駅側からも徐々に延伸、1913(大正2)年4月20日、白山駅〜柏崎駅間が全通
駅数32駅(起終点を含む)

 

↑越後線が開業してから長年にわたり新潟市側の始発駅が白山駅だった。現在は新潟駅の次の駅で、乗降客も多い。なぜ長い間この白山駅が始発駅となっていたのか、その理由はこの後に紹介したい

 

越後線を開業させた越後鉄道は不思議な会社である。路線を開業させたものの、鉄道営業を10年ほどで断念し、しきりに国有化を働きかけていた。

 

太平洋戦争前に、軍事的な理由から国営化された私鉄路線は多かったが、なぜ自ら会社の存続をあきらめ、国営化してもらうことを選択したのだろうか。

 

越後線の新潟駅側の始発駅は当初、白山駅だった。白山駅が始発駅だった期間は長く、太平洋戦争後の1951(昭和26)年6月まで。それまで新潟駅〜白山駅の間を旅客列車は走ることがなかった。

 

長い間、新潟駅〜白山駅間の路線を造ることができなかったのは、この駅の間に信濃川が流れていたためだった。越後鉄道では予算不足のため、橋を架けることができなかった。それが路線継続を早々に断念する要因となっていた。

 

信濃川に橋を架けることがそれほど、大変なことだったのだろうか。今の信濃川だったら、もしかしたら橋を架けることが可能だったかもしれない。ところが、越後線が生まれた当時の信濃川は、それこそ今とは比べ物にならない大河だったのである。

【越後線の秘密②】なぜ戦後まで信濃川橋梁が架からなかったのか

新潟駅と白山駅の間を流れる信濃川。新潟県内では信濃川と呼ばれる。中・上流部の長野県内を流れる千曲川を加えると、日本一長い大河となる。

 

水量も並みではない。実は今、新潟市内を流れる信濃川は、昔の信濃川とは姿が大きく異なる。

 

下の地図は、新潟市内を流れる信濃川の現在と、越後鉄道が開業した当時の流れを比較したもの。古い川の太さは巨大そのもので、新潟市内で700〜800mもあった。さらに古い時代には阿賀野川の流れも合流していたというから想像を絶する。

 

現在、新潟市のシンボルでもある萬代橋(ばんだいばし)は橋の長さが306m。初代、2代目の長さは共に782mもあった。初代の橋が1886(明治19)年に架かったが、当時、川を渡る手漕ぎ船は川を渡るのに約1時間かかったと伝わる。

 

↑信濃川の今昔を地図にしてみた。黄緑をした部分が現在の南側の河岸部分。越後鉄道が開業したころの河岸(グレー部分)と比べると、非常に信濃川の河口部分が変ったことがわかる。かつて広い川の中央には萬代島という中洲もあった

 

↑新潟市内を流れる信濃川を渡る越後線。越後線は開業してから30年にわたり、信濃川に橋を架けることができなかった。路線は国鉄に買収されたのち、太平洋戦争前に架橋工事が行われ、貨物線として使われた後に、電車が新潟駅から直通運転されるようになった

 

長らく白山駅が始発駅だった越後鉄道は、思うように収益をあげることができずに、国に路線を買収してもらうように働きかけた。当時、同じように国有化が検討された路線が全国で5線ほどあったが、越後鉄道の路線は、当初は「国営化は不要」とされた。ところが突然、1927(昭和2)年10月に国有化とされてしまったのである。

 

多くの政治家への金品の受け渡しが行われたと噂され、のちに当時の大臣が収賄容疑で起訴されるなど、「越後鉄道疑獄」と呼ばれる騒動にまで発展した。

 

こうした疑獄事件が重なり、政党政治への不信感を増していく。不満の高まりが、その後に五・一五事件、二・二六事件といった反乱事件を生み、結果として軍部の政治介入へつながっていった。

 

 

【越後線の秘密③】信濃川の水量の豊富さを物語る2つの分水

越後線の話題とやや離れるが、新潟市内の信濃川の流れが、古い時代に比べて細くなったのはなぜなのだろう。

 

信濃川は水流豊富なだけに水害も多かった。さらに新潟市内には萬代橋があったものの、初代、2代目は長過ぎて渡るのもひと苦労した。巨大の信濃川が市街地を南北に流れていたために、新潟という都市の発展を阻んでいたのである。

 

そんな信濃川の流れを、分水路を新設することによって、水量を減らす試みが行われた。その1本目が1922(大正11)年に完成した大河津分水(おおこうづぶんすい)だった。

 

1870(明治2)年に工事が開始され、途中、頓挫したものの、50年近くの年月をかけて完成されたのだった。

↑新潟市内を流れる信濃川に対して、大河津分水は新信濃川と呼ばれる。造られた当時は東洋一の規模とされた分水で、いま見ても、その規模の大きさがわかる。越後線は分水駅〜寺泊駅間で、この大河津分水を越える

 

大河津分水の完成による効果は大きかったが、諸問題が生じた。下流にまったく水が流れない状態になり、河口付近での舟運などに大きく影響した。そのため1931(昭和6)年に、川が分岐する箇所に可動堰が設けられた。

 

その後の1972(昭和47)年には、関屋分水も造られた。この分水は下流部での水害を減らすため、という目的があり、大河津分水と関屋分水により、下流の新潟市内では水害の影響が起こりにくくなるのと同時に、新潟港内の土砂堆積の防止にも結びついた。

 

↑越後線は関屋駅〜青山駅間で関屋分水を渡る。大河津分水に比べて関屋分水は規模が小さめ。この橋の青山駅側は撮影スポットとしても人気がある

 

こうして新潟市内の信濃川の川幅が細くなるとともに、南側河畔が徐々に整備されていった。

 

分水工事が進められたものの、越後線の信濃川橋梁が長らく設けられなかった。ようやく橋が架かったのが1943(昭和18)年のこと。最初に旧新潟駅〜関屋駅間を結ぶ貨物線が設けられた。当初は貨物専用線だったが、1951(昭和26)年からは、同駅間の旅客営業も開始された。新潟駅へのルートも1956(昭和31)年に現在のルートに変更された。

 

越後鉄道の創始者たちが夢見た新潟駅への乗り入れは、信濃川の流れが細くなり、新潟の街が戦後に整備されて、ようやく実現したのだった。

 

 

【越後線の秘密④】信越本線よりもかなり短い越後線の距離だが

越後線はユニークな路線だ。柏崎駅と新潟駅の越後線の距離は83.6km。一方の信越本線を柏崎駅から新潟駅まで乗車すると、ちょうど100kmになる。

 

信越本線を使うと16.4kmも余分に乗車することが必要になる。柏崎駅から越後線よりも内陸部へ入り、長岡駅、新津駅と遠回りとしつつ走るからだ。ところが、到達時間はこの距離とは逆の結果となる。信越本線の快速列車を使うと柏崎駅から新潟駅まで約1時間40分前後、特急「しらゆき」ならば1時間16分で着く。

 

越後線を使うと、柏崎駅〜新潟駅間を直通で運転される列車は非常に少なく、柏崎駅発が2本、新潟駅発の直通列車が1本しかない。他の列車を使う場合には途中の吉田駅で乗換えとなる。数少ない越後線の直通列車を使ったとしても、直江津駅〜新潟駅間は2時間12分〜42分かかる。

 

本来ならば信越本線よりも距離が短いわけで、いわば“短絡線”とも言えるのだが、短絡線としての強みはまったくなく、よって乗る人もほぼいないのか、わずかにしか直通列車が走っていない。

 

↑越後平野を走る越後線の115系電車。後ろに弥彦山が見える。一部を除いて路線は直線路が多い。とはいうものの、設備の関係から最高速度が抑えられる区間があり、到達時間も長くかかる(詳細後述)

 

柏崎駅〜新潟駅の乗車運賃を調べると、あえて吉田駅経由として弥彦線経由にしても、信越本線経由の乗車運賃と同じ1660円となってしまう。これは弥彦線が「地方交通線」にあたるため、「幹線」の信越本線を使った運賃よりも、割高に計算されてしまうためだ(信越本線は幹線で100km乗車の場合は1660円、越後線は地方交通線の扱いとなり越後線全線83.8kmを乗車した場合に1660円となる)。

 

時間がかかり、しかも料金が割高に計算されている。この時間差と、料金が得にならない現実に接してしまうと、あえて越後線を使ってという“物好き”は、鉄道好き以外にいなくなるのも当然かも知れない。

 

さらに越後線は、列車のスピードを簡単に上げることができない。その理由があったのである。

 

 

【越後線の秘密⑤】越後線で採用された直接ちょう架式とは?

開業当初は非電化だった越後線。新潟市郊外区間の利用客が多くなりつつあることから1984(昭和59)年4月に全線が電化された。

 

ところが、最晩年期の国鉄は苦境が続いていた。越後線の電化工事でも予算削減の影響を受ける。柏崎駅〜吉田駅間の多くで、直接ちょう架式と呼ばれる電化工事が行われたのである。

 

↑越後線の寺泊駅郊外の架線部分をアップで撮影する。パンタグラフがこすって集電するトロリー線が1本のみということが分かる。この形は直接ちょう架式とよばれる

 

直接ちょう架式は、主に路面電車など、スピードが抑えられた鉄道で使われる電化方式だ。構造がシンプルで、コストを抑えられるが、パンタグラフがすり付けるトロリー線に高低差が出てしまいがちで、集電能力も低い。直接ちょう架式が採用された越後線では最高時速が85kmに抑えられている。

 

直接ちょう架式の電化は、JRの路線では越後線のほか、弥彦線、またJR西日本の和歌山線など数少ない。私鉄でも銚子電鉄(千葉県)といった路線に残るのみだ。

 

↑115系に付くシングルパンタグラフが集電する様子を写す。直接ちょう架式は、トロリー線が1本で、素人目に見ても不安な印象がある

 

この直接ちょう架式の路線に乗車した印象は、銚子電鉄では、集電が時に、たまにパンタグラフが上手く、ローリー線をすっていない様子が乗車時に感じられた(時たま室内灯が消えたりする)。越後線では性能の良いパンタグラフを使っているせいか、そのような印象は皆無だった。上り下り列車の行き違いに使われる駅や橋の上などで、シンプルカテナリ式と呼ばれる、通常使われる架線方式になっているためだろうと思われる。

 

直接ちょう架式が直接関係あるトラブルではないと思われるが、筆者がちょうど乗車した列車には、電気設備のトラブルで生じて、途中駅で運行が休止してしまうハプニングに巡りあった。

 

過去に信越本線が災害で路線が寸断された時に、越後線が臨時快速列車の迂回ルートに使われたことがある。その後、越後線は、迂回運行に使われていない。やはり簡易電化方式が脆弱さは否めないのであろう(ほか列車運行システムのプログラムも異なる)。

 

信越本線の迂回ルート、短絡線になりきれなかったローカル線の悲哀が感じられる逸話でもある。

【越後線の秘密⑥】バラエティに富む115系電車の色は何種類?

ややネガティブな話が続いたが、ここでは鉄道ファンに人気の115系の現状を見ることにしよう。

 

115系は国鉄が開発した近距離用電車111系をベースに、出力増強を図った車両だ。製造されたのは1963年〜1983年のことで、合計1900両以上が長年にわたり直流電化区間を走り続けた。東日本では中央本線、上越線などの主に勾配区間がある近距離路線の“エース”として活躍した。

 

そんな115系も衰えが目立つようになり、東日本では中央本線、群馬県内の路線からは徐々に消えていった。現在、東日本では、しなの鉄道にJRからの譲渡車両が多く残ってはいるものの、JR東日本で走るのは新潟地区のみとなってしまった。

 

新潟地区を走る115系はバラエティに富む。

↑新潟を走る115系の代表的な車両4種類。写真内に説明書きしたようにさまざまな塗装車両が揃うのが新潟地区の115系のおもしろいところ。さらに越後線ではこれらの車両に巡りあうことが多い

 

115系は現在の流麗な車両デザインに比べて、国鉄時代の車両デザインに見られる武骨さが感じられ、いい味を醸し出している。そんな姿が今も見られるのが新潟地区、とくに越後線は、最後の聖地となりつつある。

 

残るのは3両×7編成の計21両。車両カラーもいろいろだ。鉄道ファンからは7本6色体制とも言われるように、6色が揃う。塗装色の名前と、それぞれに塗られる編成番号を上げておこう。

一次新潟色N37編成
二次新潟色N33編成、N35編成
三次新潟色N34編成
弥彦色N36編成
湘南色N38編成
懐かしの新潟色N40編成

 

以上だ。115系に出会う機会が多いのが、柏崎駅〜吉田駅間。この区間は、極端に列車本数が減るのがちょっと残念なところだ。

 

↑越後線の最新車両、E129系。新潟支社のみに配置された車両で2両もしくは4両編成で走る列車が多い。車内の半分がセミクロスシートとロングシートという組み合わせ。ちなみにLED案内表示を撮影する場合には100分の1以下のシャッター速度が望ましい

 

 

【越後線の秘密⑦】新潟駅〜内野駅間は大都市近郊路線の趣が

越後線に関して余談が過ぎた。ここからは沿線の様子をレポートしよう。なかなか沿線模様も興味深いのが越後線だ。

 

今回は、路線の終点にあたる新潟駅側から列車に乗車する。現在、新潟駅は改良工事中。上越新幹線との乗り換えがラクになるようにと、在来線の高架化工事が進む。

 

訪れた時の、越後線の列車の発車は3・4番線の高架ホームからだった。列車は内野駅行き、もしくは吉田駅行きの2通りの路線を走る列車が多い。越後線の場合には、新潟発は“上り”列車となる。人口が多い街のターミナル駅発の列車が上りというのがちょっと不思議なところだ。

 

↑新潟市の表玄関でもある新潟駅の万代口。駅は高架化工事が進む。通路の工事なども進んでいるが、現状の高架ホームまで結構、この万代口から歩く必要がある。駅構内の高架化工事が完了すれば、この万代口の建物を含めさらに万代広場として整備される予定だ

 

↑新潟駅〜内野駅間は、頻繁に列車が行き交う。写真は信濃川橋梁を越えて、白山駅に近づくE129系回送列車

 

新潟駅から内野駅までは近郊区間の様相。約20〜30分間隔で走っている。

 

さて高架ホームを出発した吉田行きの列車。高架をおりしばらくは複線区間を走る。右にカーブして信濃川橋梁を前にして複線区間は終了。橋梁からはひたすら単線区間となる。

 

乗客は多くほぼ満席といった状況。次の白山駅へ到着する。ここで多くの乗客が下車していく。学生の姿が目立つことから駅近くに学校が複数あるのだろう。

 

白山駅で、早くも空いた状態になる。しばらくは左右に新潟市の住宅街が続く。関屋駅を過ぎると、間もなく前述した信濃川の関屋分水の流れを越える。

 

【越後駅の秘密⑧】東京都内ではなく新潟県にあった青山駅

さて次の駅は青山駅。あれっ? 青山といえば、首都圏に住む筆者としては、東京都港区にある青山という地名が思い浮かんだ。しかし、東京には青山駅がないことに気付いた。東京メトロの駅は青山一丁目駅なのである。

 

↑新潟市西区にある越後線の青山駅は意外に小さな造りの駅。周囲は住宅地で東京の青山一丁目駅のような繁華さは感じられなかった

 

調べると青山駅は越後線以外に、いわて銀河鉄道の青山駅(岩手県盛岡市)、名鉄河田線の青山駅(愛知県半田市)にあることがわかった。青山という地名は決して珍しくはないということなのだろう。

 

さらに越後線に乗車して西へ。住宅が続くが、越後線が走る付近はやや高台になっていて、南側がやや低くなっている様子が車内からも見える。この南側に信濃川などの河川が流れていることがうかがえる。

 

内野駅までは多かった列車の本数。内野駅から先は日中となると3本に1本の割合になる。新潟駅〜内野駅間は20分〜30分間隔だったものが、内野駅〜吉田駅間はほぼ1時間間隔の運転になる。

 

内野駅の次の駅、内野西が丘駅を過ぎると、景色は大きく様変わり、左右に田園風景が広がるようになる。

 

その先の巻駅付近からは、また住宅が点在する風景となるが、新潟市内の新興住宅地が連なるの街風景とは変った印象となった。

 

 

【越後線の秘密⑨】吉田駅を境に大きく変る運転間隔

新潟駅から約1時間で吉田駅に到着した。乗車した列車は吉田駅止まり。この吉田駅でひと休みを取ることにする。

 

吉田駅は弥彦線との乗換駅。越後線の途中で唯一、規模が大きな駅でもある。とはいえ、越後線、弥彦線の列車の発車時間がほぼ1時間おきとあって、発車時間が近づくと、人が多くなるものの、通常は閑散とした様子が感じられた。

↑越後線唯一の他線との乗換駅・吉田。弥彦線との接続駅となっている。駅の案内表示の隣の駅表示が×状になっていて面白かった。駅構内には柏崎駅行きの115系電車(弥彦色)と待機するE129系が並んでいた

 

吉田駅から先、柏崎駅との間を走る列車は極端に本数が減る。朝夕を除き、日中は3〜4時間、走ることがない。ここまで閑散区とはと驚かされる。この先の吉田駅〜柏崎駅間は、時刻表とにらめっこしつつ行動計画を立てた方が良さそうだ。

 

筆者は吉田駅で1時間近くの列車待ちが生じたこともあり、吉田駅周辺のブラブラ。食や街で食や風景など新たな出会いが面白かった。

 

↑吉田駅から200mほどの吉田旭町の市街にはレトロな信号が立っていた。交差点の中央に信号が立つこと自体、あまり目にしない光景だ。ちなみに吉田はラーメンや焼きそばといった麺メニューを提供する店が、わずかにあるぐらいで閑散とした印象だった

 

 

【越後線の秘密⑩】気になる寺泊駅周辺の廃線跡

吉田駅〜柏崎駅間は列車の本数が極端に減るので、列車の旅をする場合は、慎重にならざるをえない。筆者は、新線な魚介類の販売店があるだろう、寺泊駅で途中下車してみた。

 

ところが、駅周辺は閑散とした状況。地図を見ると港は駅から7kmも離れている。ちゃんと確認してから下りようよ、と反省したものの、次の列車までは数時間待ち。港までバスは出ているのだが115系も撮りたい。そこで駅周辺をブラブラ。すると廃線らしき跡が次々に見つかった。ラッキーかも。

 

↑寺泊駅(旧大河津駅)の周辺には旧越後交通長岡線が走っていた。古い地図を元にして路線跡を記してみた。巡ると寺泊の駅裏には信号装置などが錆びて残る(A地点)。架線柱が残る一角も(B地点)。東側には旧路線跡も。この先には線路も残っていた(C地点)

 

↑旧越後交通長岡線の路線の跡をなぞるように、今は越後交通のバスが寺泊(港)〜寺泊駅〜長岡駅を結んでいる。運行間隔は1〜2時間に一本あり、越後線とバス便を組みあわせた旅も有効かも知れない

 

寺泊駅周辺に残る廃線跡。この跡は越後交通長岡線という私鉄路線の跡だった。越後交通長岡線は、JR信越本線の来迎寺駅(らいこうじえき)から、西長岡駅を経て、現在の寺泊駅(当時は駅名は大河津駅/おおこうづえき)、さらに日本海に面した寺泊の町を結んでいた路線だ。

 

1975(昭和50)年に現在の寺泊駅付近の路線は廃止された。それから40年以上が経つが、廃線の痕跡がかなり残ることには驚かされた。ちなみに越後交通長岡線は一部区間が平成期まで残ったが、1995(平成7)年3月いっぱいで消滅している。

 

調べると、路線は長岡市内の西長岡駅と、JR長岡駅との間の路線が最後までできなかった。間を隔てる信濃川に橋梁を架ける費用がなかったからである。歴史にたらればはないものの、もし越後交通長岡線が長岡駅まで路線を敷くことができたならば。もう少し生き延びられたのかも知れない。

 

この路線でも信濃川の架橋が問題となっていた。信濃川を越えることは新潟県内を走る鉄道網の創設期には大変な課題だったのである。

 

↑寺泊駅の近くの直接ちょう架式の区間を走る115系湘南色。かつて東海道や群馬県で多く見られた湘南色の115系だが、このカラーの115系はJR東日本管内で、写真のN38編成、3両のみとなっている

 

越後線の吉田駅〜柏崎駅間で気付かされたのは、路線と日本海沿岸のそれぞれの街との距離が離れていることだった。この区間は寺泊や、出雲崎といった町々が日本海に面して発展してきた。

 

今も海沿いに街の中心があるところが多い。海にそった海岸部は険しく、鉄道路線が敷くのに不向きだったのだろうが、もし越後線が、これらの街を結んでいたら、もっと利用する人が増えただろうにと感じた。

 

↑日本海に面して広がる出雲崎。出雲崎は北前船の寄港地として栄えた。往時は越後一、人口密度が高い街でもあった。奥に長い妻入りと呼ばれる家屋に特徴がある。僧侶、歌人として名高い良寛の出生地であり、良寛が出生した跡地には良寛堂(左下)が立つ

 

内陸部を走り続けた越後線の上り列車。平行して走る国道116号、国道8号が見えてくる。越後線は海沿いではなく、内陸を走り、しかも整備された国道がほぼ平行して走っている。国道はほとんどの区間が片側2車線なので、この国道沿いに大型店舗も目立つ。

 

こうした状況を見るにつけ、越後線に乗る人は少ないのも当然だろうと感じてしまう。刈羽駅(かりわえき)付近からは駅前に住宅が立つが、列車に乗るのは学生と高齢の人たちの利用が目立つ。ほかの世代は、ほぼクルマでの移動となるのも致し方ない印象を持った。

 

そんな思いを持ちつつ、列車の終点の柏崎駅へ到着する。到着したのは越後線専用の0番線ホームだった。

 

↑信越本線との乗換駅の柏崎駅。越後線は同駅が起点となる。越後線の列車は行き止まり式ホームの0番線(右上)、もしくは1番線からの発車となる。ちなみに柏崎の名物は鯛茶漬け。国際ご当地グルメグランプリでもたびたび優勝するなど名物グルメとなっている

【柏崎雑感】誘われ足を延ばした信越本線の鯨波駅と鯨波海岸

越後線の巡る旅は終了したが、信越本線の1つ先の駅、鯨波駅へ向かう。信越本線は鯨波駅付近から柿崎駅(上越市)付近まで日本海沿いを走る。

 

鯨波駅といえば、近くに鯨波海岸がある。海を背景に、列車が走る風景が名物となっていた。筆者は「トワイライトエクスプレスfan(学研プラス刊)」という本を6冊ほど制作した関係から、鯨波海岸には毎年のように訪れ、そして撮影をし続けた。2016年春のトワイライトエクスプレスが運行終了から、早くも3年の月日がたつ。

 

それ以降、この路線を走るのは特急しらゆきや、普通列車のみとなった。日本海縦貫線を横断する貨物列車が風景に華を添えるぐらいとなっていて、すっかり寂しくなったように感じる(自らの印象だけかも知れないが)。トワイライトエクスプレスとまではいかないまでも華のある車両が、再び夕陽を背景に走ってくれたならば……。

 

所詮、夢物語かも知れないが鯨波海岸を抜け、さらに越後線を走るような行程を走る“夢列車”が現れないだろうか。そんな思いを胸にしつつ、夕陽に見送られ鯨波海岸を後にするのだった。

 

↑大阪駅と札幌駅を結んだ寝台特急トワイライトエクスレス。下りは夕方に信越本線の鯨波海岸を抜け、上りは早朝に鯨波海岸を走る、という楽しい列車だった。夢見ても仕方ないと理解しつつも、このような列車が今後、再び現れることを祈りたい

 

【ギャラリー】

 

【関連記事】
夏こそ乗りたい! 秘境を走る「只見線」じっくり探訪記〈その2〉