【明知鉄道の不思議④】飯沼駅は本当に日本一の勾配駅なのか?
前置きが長くなったが、ここから明知鉄道の旅を始めよう。
旅のスタートはJR恵那駅に隣接する明知鉄道の恵那駅。JR恵那駅の改札口を出たやや東側に駅の入口がある。明知鉄道の恵那駅は、行き止まり方式で、中央本線と併設してホームが設けられる。JRとの連絡改札口もあるが、ICカード読取り機は設置されていない。なお、わずかの区間、中央本線と平行して線路が走るものの、JR線との間を結ぶ線路は敷かれていない。
明知鉄道のホームに停まっていたのはアケチ100形気動車。座席がロングシートなのがちょっと残念だったが、ディーゼルエンジン特有のアイドリング音が、旅の趣を盛り上げる。
乗車したのは13時45分発の明智駅行き11D列車。軽快に恵那駅を発車した。JR中央本線の線路を左に眺め、右へカーブしていく。その後、列車は恵那の市街を右手に見て坂を上り始めた。眼下に田畑を望みつつ、着いたのが東野駅(ひがしのえき)。マンションふうなつくりの介護施設の1階が駅入口ということもあり、ローカル色はまだ感じられない。
東野駅を発車すると、さらに列車は坂を登り始める。そして山あいへ。緩やかなカーブを描きつつ、次第に標高をあげていく。線路脇の勾配標を見ると33パーミルとある。1000m走る間に33mほど標高が上がるということだ。この33パーミルという急な坂。鉄道ではなかなかない。
そうした勾配を登って到着するのが飯沼駅(いいぬまえき)だ。この駅自体が33パーミルという勾配の途中にある。駅は明知鉄道が誕生した後の1991(平成3)年10月28日にできた。急な坂の途中にある駅は通常、認められないために、訪れた監督官庁の運輸省(現・国土交通省)の担当官の前でテストを繰り返し、特例として認められ、ここに駅が新設されたそうだ。
ホームには「勾配日本一の駅」という駅名標が誇らしく立っている。ちなみに現在の普通鉄道の勾配日本一は京阪電気鉄道京津線(けいしんせん)大谷駅で、40パーミルの急勾配の途中にホームがある。1996(平成8)11月16日に71mほどずらしたことにより、この傾斜となった。
明知鉄道の飯沼駅は駅が誕生して5年ほど、日本一の勾配駅だった、というのが正解なのである。ちなみに明知鉄道ではほかにも急勾配途中の駅がある。野志駅(のしえき)がその駅で、こちらは30パーミルの勾配にあり国内3位の勾配駅となる。よって、明知鉄道には日本国内で2位と3位の勾配駅があるということになる。
【明知鉄道の不思議⑤】なぜ岩村にレトロな城下町があるのか
飯沼駅をすぎ飯沼トンネル、野田トンネルの2本を過ぎると次の阿木駅(あぎえき)に向けて下り始める。飯羽間駅(いいばまえき)、極楽駅と小さな駅を停車しつつ走ると岩村駅に到着する。
この岩村駅は明知鉄道の中でも乗降客が多い駅となっている。また同駅では路線内で唯一上り下り列車の交換(行き違い)が行われる。
この岩村駅から徒いて3分ほど。その先に古い町並みが1.3kmにわたって連なっている。岩村本通りと呼ばれる通りで、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。江戸時代には東濃の政治、文化、経済の中心地として栄えた町でもある。
この岩村は東濃の中心地であるとともに、城下町でもあった。町の奥まった山の中にあるのが岩村城で、鎌倉時代に築城された。戦国時代には織田氏、徳川氏、武田氏の攻防の舞台となる。
当時、歴史に姿を現すのが織田信長の叔母、通称おつやの方。幼い城主に代わって政治を司る「女城主」として活躍した。その後に城が武田方に落ち、おつやの方は敵方の武将と結婚。その後、信長により落城、おつやの方は捕らえられ、夫とともに逆さ磔(はりつけ)というむごい方法で処刑された。戦国の世の悲劇がこの城を舞台に繰り広げられたのである。
江戸時代には主に大給松平家(おぎゅうまつだいらけ)が治めた。そして岩村藩の城下町として明治維新を迎えている。
ちなみに岩村町と大井町(現在の恵那市)間には、1906(明治39)年に岩村電気軌道が開業した。この路線は岐阜県内では最初の私鉄路線で、路面電車が行き来した。当時それだけ岩村は繁栄していたわけだ。ちなみに岩村電気軌道は1935(昭和10)年に、明知線の岩村駅開業の翌年に廃止されている。