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2020/5/10 18:50

西武王国を築いた「堤 康次郎」−−時代の変化を巧みに利用した男の生涯

【堤 康次郎の生涯⑥】吸収した社名をその後の会社名とした

武蔵野鉄道と旧・西武鉄道は不況の影響を受けて、次第に経営が危うくなっていく。現在のように沿線に住宅地も広がっておらず、レジャー客と貨物輸送に頼っていただけに、利益確保が非常に難しかったことが容易に想像できる。

 

一方の箱根土地は多摩湖鉄道や駿豆鉄道などの短距離路線に加えて、土地開発という強みを持っていた。不況という風が大きな会社の体力を奪い、逆に箱根土地が力をつけていく。そして小が大を飲み込むということになっていく。

↑現在の西武鉄道の路線網。国分寺駅から北の路線網が複雑になっている。これは3社が争ったその名残でもある

 

その後の歴史を時系列で追ってみよう。

1932(昭和7)年堤康次郎が武蔵野鉄道の株の取得を始め、再建に乗り出す
1940(昭和15)年武蔵野鉄道が多摩湖鉄道を吸収合併、堤康次郎が10月に社長に就任
1943(昭和18)年旧・西武鉄道の経営権が箱根土地の手に渡る。社長に堤康次郎が就任
1945(昭和20)年9月11日武蔵野鉄道が旧・西武鉄道を吸収合併。そして西武農業鉄道となる
1946(昭和21)年11月15日西武鉄道に改称

 

武蔵野鉄道の株式を買い集め、次第に経営に乗り出していく。とはいうものの瀕死の状態に陥っていた鉄道会社の再建は生半可ではなかった。社債を引き受けていた保険会社の社員が主要駅の出札窓口まで出張ってくる。運賃収入がたまるとそれを取り上げていく。いわゆる差し押さえである。

 

しかも利用者の目の前で行われた。自叙伝で康次郎は、「まことに体裁の悪いことこのうえなく、私もこれには閉口してしまった」とある。さらに電気代が払えず、電気会社から送られる量が減らされた。電車をのろのろと走らさざるをえない。当時、武蔵野鉄道の電車は、たよりなく走る様子を“幽霊電車”と称された。

 

西武鉄道は、太平洋戦争の最中、そして戦後にかけて堤康次郎によって一つにまとめられた。ところが、戦時下から戦後にかけて日本経済はそれこそ泥沼状態。そんな状況のために、利益を上げるために、なりふり構っていられなかった。

 

当時はとにかく食料増産に励んだ時代だった。合併後に西武農業鉄道を1年間名乗り、旅客列車が走る一方で、都内で集められた“糞尿”を積んだ貨物列車が多く運行した。糞尿は食料増産のため肥料として使われた。消臭などの設備がもちろんない時代で、沿線に住む人たちはさぞや大変な思いをしたことだろう。

 

【堤 康次郎の生涯⑦】傑物そのものだったその生き方

◆経営理念は「感謝と奉仕」

堤 康次郎の経営理念は「感謝と奉仕」だとされる。

 

感謝と奉仕の経営理念は新たに始められた百貨店事業にも見受けられた。1940(昭和15)年に菊屋デパート池袋分店を買収して武蔵野デパート(現・西武百貨店)を開店させた。

 

この武蔵野デパートは空襲により焼失してしまうが、1945(昭和20)年12月に、早くもテント張りの店舗で営業を再開させた。食べるものに事欠くこの時代、庶民は郊外へ買い出しに走った。そんな最中、青果卸売市場運営会社を設立させ、仕入れルートを確保しようとした。商売なので、利益は上げなくてはいけないものの、やはり困っている人たちのために“奉仕”するという思いが、庶民にとって、ありがたかったに違いない。

↑池袋駅東口に立つ西武百貨店池袋店。武蔵野デパートとして創始。戦火で焼け落ちたが、終戦まもなくテント張りの店舗で営業を再開させた

 

◆西武鉄道という社名に関しての経緯

堤 康次郎には多くのエピソードが残る。西武鉄道は、武蔵野鉄道が旧・西武鉄道を吸収合併して生まれた会社だ。こうした時は合併した側の武蔵野鉄道を名乗るのが通例だろう。合併後に社名を西武鉄道とした(西武農業鉄道を名乗っていた時期があり)。これは、吸収された旧・西武鉄道の社員に「劣等感をあたえてはいけない」という思いからだったとされる。

 

太平洋戦争後、鉄道各社では乗車を拒否して列車を止めるストライキ闘争が多く起きたが、西武鉄道はまったくストライキが起きない会社だった。戦後まもなく起こった賃上げ闘争で、社員の給料を一気に5倍に引き上げたり、雪が降った夜に寝ずにポイントなどが凍るのを防いでいた社員を自宅に招き、お手製のカレーを振る舞ったり。食料難の時代には社員の食料確保に尽力した。社員を思う人間味あふれる人物だっただけに、社員も意気に感じて会社のために働いたのだろう。

 

◆赤字経営を続けて税金負担を免れる

経営手法は独特のものだった。土地開発から鉄道事業まで手広く事業を展開させたが、そのための投資はほとんどが借入金。借金と利子負担により赤字経営を続け、税金の負担を免れた。株式は公開しなかった。自ら武蔵野鉄道の株を購入し、徐々に経営権を手に入れた経験を踏まえてのことだったのだろう。組織による経営を嫌い、ワンマン経営に徹した。

 

◆36歳からの政治家として活躍

早稲田大学の政治経済学部政治学科出身ということもあり、政治家を志す気持ちが強かった。自叙伝でも「人生で最高の仕事は政治だと思っている」と記している。事業は国全体の一部のことでしかなく「国民全部を幸福にするのは政治」と言いきっている。36歳(1924年)の時に衆議院議員に初当選、1953年には衆議院議長まで上りつめている。大会社を経営する一方で、政治家も務めるとはなんともすごいバイタリティにあふれた人だと思う。

 

◆家庭では頑固おやじ、そして女性関係は

一方で、家庭内では頑固おやじそのもの。朝4時起き、夜の9時に寝ることを常としており、これを乱す人はたとえ政治家でも許さなかった。出かける時は、家族と使用人が全員、正座して見送った。帰ったら三つ指をついて迎え入れた。返事が悪いと鉄拳が飛んだとされる。今の時代、DVで訴えられそうな父親だったわけである。

 

さらに女性関係には驚かされる。関係があったとされ、名前が知られている女性だけでも5人、うち正妻として入籍した女性は3人。ほか何人の女性と関係をもったかは、それこそ分からないと伝わる。男性が強かった時代とはいえ、今だったらとても許されなかった乱脈ぶりである。

 

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