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2020/6/7 21:05

今は珍しい「鉄道絵葉書」で蘇る明治〜昭和初期の東京の姿

〜〜おもしろ絵葉書の世界1【帝都・東京編】〜〜

 

カメラが普及していなかった時代、写真の代わりに旅先で土産に絵葉書を購入する人が多かった。また家族や知人宛に絵葉書を使って便りを送る人も多かった。こうした古い絵葉書が今も多く残されている。

 

絵葉書に残された一世紀以上前の風景を改めて見ると、その変容ぶりがおもしろい。今回は、鉄道をテーマにした絵葉書に焦点をあてた。特に東京の絵葉書に注目、東京の街の風景の変化に注目してみた。

*絵葉書はすべて筆者所蔵 禁無断転載

 

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【絵葉書の歴史】土産として内外で人気となった日本の絵葉書

明治から昭和初期にかけて、カメラは非常に高価で手軽な品物でなかった。ボディも大きく、旅先に持っていくこともほぼ不可能だった。

 

写真を撮影できない代わりに絵葉書が非常に尊ばれた。価格が手ごろで、土産として何枚購入しても、荷物がかさばる心配がなかった。そのために、各地で土産用に大量に作られて販売された。

↑明治から昭和初期にかけては、ありとあらゆるテーマの絵葉書が作られた。鉄道をテーマにした絵葉書も多くが発行された

 

絵葉書は切手と同じように収集家も多かった。サイズがほぼ同じで保管しやすい。絵葉書は収集テーマとされたこともあり、持ち主が変わりつつも、長い間、大事にされた。明治・大正・昭和初期の時代の変遷を探る時に、“お蔵入り”しがちな古い写真を探すことが大変なのと比べて、絵葉書ならば容易に古い景色と出会うことができる。

 

筆者は旅行書籍に古い温泉の絵葉書を利用したことがきっかけとなり、絵葉書の収集を始めた。鉄道の絵葉書や、明治期の絵葉書などはファイル化して整理している。そうした鉄道絵葉書を見比べてみて、さまざまなことが分かってきた。今回は、そうした絵葉書の世界に迫ってみよう。

 

手元に東京都内、市ヶ谷見附付近から眺めた中央本線の絵葉書がある。ちょうど昨年春にほぼ同じポイントから撮影していた。新旧の風景を見比べてみたい。

↑市ヶ谷見附から見たサクラ並木の絵葉書。大正後期ごろには外堀の堀端までサクラで覆われていたことがわかる

 

↑現在の市ヶ谷見附付近の様子。中央線は複々線になり、また架線柱が増えたこともあり大正期とはだいぶ様子が変わっている

 

市ヶ谷見附付近の大正後期の様子は、堀端まで桜の木が茂り、さぞや素晴らしかったことが想像できる。

 

このように絵葉書は、かつての東京を偲ぶ上でも良い記録になっている。その情景は、いま振り返ってみてもおもしろい。ところで、どのような東京の絵葉書が現在、多く残っているのだろう。

 

【蘇る東京の風景①】東京ではやはり銀座がダントツ人気だった

多く残っているのは銀座通りの絵葉書だ。特に明治・大正期のものが多い。当時は国内で最先端をいく賑やかな繁華街で注目度も高かった。その賑わいぶりに驚かされ、訪れた人の多くが、その様子を伝えたいと思ったことだろう。

↑「銀座通り新橋」の説明が入る明治末期の絵葉書。市電が走る左横の建物は現在の博品館がある付近だ。当時の建物の時計台がなかなか趣深い

 

銀座は江戸時代に銀貨の鋳造が行われたことから街造りが始まる。明治時代に入り、たびたび大火にみまわれたが、その後に区画整理が行われ、1873(明治6)年に煉瓦街として整備された。1882(明治15)年には馬車鉄道が敷かれた。その後の1903(明治36)年から1904(明治37)年にかけて電化されて、路面電車が走るようになった。

 

上記の絵葉書は東京市電(当時は東京電車鉄道)が走り出した少し後の風景で、「銀座通り新橋」という解説が入る。このように、切手を貼って消印を捺した絵葉書をエンタイヤと呼ぶが、こうしたエンタイヤは海外から訪れた旅行客に、特に人気が高かった。

 

貼られた切手は普通切手の「菊切手」で、1899(明治32)年〜1908(明治41)年にかけて印刷され、使われた。こうした切手や、消印などで、絵葉書が刷られた年代、景色の背景が推測できることも、絵葉書のおもしさである。

【蘇ると東京の風景②】当時の風俗や交通状況が見てとれる

明治期には、風景を見せるという主旨の絵葉書が多かった。そうした傾向が、大正時代に入ると、きれいな風景だけでなく、風俗や、ごく日常の風景を紹介する絵葉書が増えていく。

 

銀座通りの絵葉書もこうした傾向が色濃くなる。2枚の絵葉書を見てみよう。いずれも、現在の和光と銀座三越がある銀座四丁目交差点付近だ。

↑銀座四丁目交差点を市電が行き交う。電柱には広告看板が掲げられ、先に人力車の姿も見える。左は服部時計店の建物。車両は1653形

 

↑大正後期の銀座四丁目交差点。2扉の1471形に多くの人が乗り込む様子が写る。ボンネット型のバスも並走している

 

2枚の銀座四丁目の絵葉書。いずれも大正中期以降の絵葉書と推測される。路面電車はすでに東京市電局が運行する路線となっていた。車両は2扉車1471形(大正4年から製造)と、3扉車の1653形(大正8年から製造)が写り込む。電車にカンカン帽をかぶり乗車する人の服装が、当時の風俗を偲ばせる。通りを走る乗り物も人力車に、路線バスと当時の鉄道以外の交通の歴史を伝えている。

 

【蘇る東京の風景③】内職仕事として色付けされていた絵葉書

これまで見てきた絵葉書にはカラーとモノクロの2通りの絵葉書があった。さてカラー印刷は、どのぐらい古くからあったものなのだろうか。

 

カラー印刷の歴史は意外に古い。明治末期にはカラーで印刷された広告ポスターがお目見えしている。とはいうものの、安価な絵葉書にはカラー印刷が可能になるのは大正中期ぐらいからとなる。では、明治期〜大正初期の色が付いた絵葉書はどのように作られていたのだろう。

 

この時代のカラーの絵葉書は手彩色(「てさいしき」、または「しゅさいしき」「てさいしょく」)絵葉書 と呼ばれる。文字どおり、手で彩色していた。彩色するのは家庭の主婦が多く、それこそ家庭内手工業として、一枚一枚、色付けしていた。手仕事のために、きれいな手彩色絵葉書と、多少、雑な手彩色絵葉書が残る。とはいえ風景を見て絵付けするわけではないだろうに、その適確な色付け方法と、細さに驚かされる。

↑上野公園付近を走る市電。同絵葉書は手作業で色付けされた手彩色絵葉書だ。細かな色の塗り分けに驚かされる

 

こうした手彩色の絵葉書は、モノクロ絵葉書に比べると、多少、値段も割高だったようだが、海外から訪れた人の人気が高く、今も海外の愛好家の手元に多くが残されている。

 

一時代を謳歌した手彩色絵葉書だったが、大正の中ごろになると、ぱったりと姿を消してしまう。カラー印刷の技術もあがっていき、人海戦術で作っていた彩色絵葉書も、その投資効果が薄れたということなのであろう。

 

【蘇る東京の風景④】絵葉書にも人気の定番スポットがあった

人気の撮影スポットがあるように、絵葉書にも定番スポットがあった。そうした定番スポットから撮影した絵葉書は、今も結構な枚数が残っている。東京では、どのような場所が鉄道絵葉書の定番スポットだったのだろう。

 

まずは四谷見附からの眺め。眼下を走る中央本線の列車、すぐ横に外堀、ちょうど正面に陸軍士官学校(現・防衛省市谷地区と陸上自衛隊市谷駐屯地)が見えた。ちなみに中央本線は甲武鉄道が敷いた路線で、1894(明治27)年に新宿駅から牛込駅(現・飯田橋駅)まで延ばされた。翌年には飯田町駅(廃駅)まで延ばされ、路線も複線化された。1904(明治37)年には、飯田町駅〜中野駅間の電化が完成している。

 

下記の2枚はそんな当時のものだが、現在では、四ツ谷駅付近の路線は立体交差化され、また外堀の上に建物が立ってしまって、同じ構図で写真を撮ることができなくなっている。

 

将校養成機関の陸軍士官学校という、当時のエリートが入学する学校が写り込むということも、この絵葉書の構図を決める上で、大きな要素だったのだろう。

↑東京名所と題された四谷見附からの眺め。明治期の手彩色絵葉書で、眼下に中央線のSL牽引列車が見える

 

↑大正期に入ってからの四谷見附。同区間は1904(明治37)年に電化されたが、絵葉書を見る限り電線が確認できないのがちょっと不思議だ

 

四谷見附と同じように定番スポットだったのが九段だった。

 

現在の靖国神社と九段下交差点の間は靖国通り(都道302号線)が走るが、坂の傾斜は今もきつい。急坂だったこともあり、当時の路面電車は坂をそのまま上り下りすることなしに、迂回するルートが設けられていた。今の北の丸公園に入る田安門付近から九段下方面を眺めると、ちょうど路面電車の線路が見えた。

 

同ルートは現在、道幅の拡張とともに路線は取り外され、元線路上には昭和館という博物館が建っている。当時を偲ばせるものといえば、牛ヶ淵(お堀)ぐらいになってしまった。

↑田安門付近から眺めた九段下。大正初期には、神保町方面をまで民家が立ち並ぶ様子が見える。手前に牛ヶ淵が広がる

 

↑手彩色でなくカラー印刷された九段坂の絵葉書。時代は大正末期と推測される。まだ九段会館などのビルが無かったころだ

 

【蘇る東京の風景⑤】当時の最先端技術がやはり注目の的だった

東京の絵葉書には当時、先端の鉄道技術や建造物を紹介する絵葉書も多い。

 

中でも多く残っているのが、新橋駅〜上野駅間に造られた高架線だった。「東京市街高架線」と名付けられ当時としては画期的な建造物だった。東京市街高架線は1889(明治22)年に計画され、ドイツのフランツ・バルツェル技師を招いて建設された。だが、日清戦争による中断などにより計画は長引き、1910(明治43)に全通した。

 

高架線をアーチで支える構造で、今も京浜東北線、山手線の路線用に使われている。高架下は新橋駅などで飲食店として生かされているので、ご存じの方も多いことだろう。できた当時は最先端の構造物で、一世紀以上も使われ続けてきたわけである。造られてから間もなくの沿線の様子を知る上で、今残る絵葉書は貴重な資料となっている。

↑数寄屋橋付近の高架上を列車が走る。向かい側に見えるのは帝国ホテル。手前の河川(外濠)は現在、埋められ首都高速道路が上を走る

 

最先端の鉄道技術として注目を浴びたのが、日本初の地下鉄路線だった。現在の東京メトロ銀座線の浅草駅〜上野駅間が1927(昭和2)年の暮れに東京地下鐵道により開業している。そうした地下駅の様子や、最初に使われた車両の絵葉書が多く発行された。

 

やはり当時の地下鉄は東京を訪れた時に、土産話としてうってつけで、絵葉書とともに各地に持ち帰られたのだろう。

↑東京地下鐵道が最初に走らせた1000形電車。現在、1001号車は国の重要文化財に指定され、地下鉄博物館で大事に保存されている

 

【蘇る東京の風景⑥】駅の廃止で消えてしまった繁華街

絵葉書は街の栄枯盛衰も記録している。千代田区の万世橋が顕著な例だ。

 

中央本線には、かつて万世橋駅という駅があった。開業は1912(明治45)年4月1日のこと。初代の駅舎は赤レンガ建ての豪華なものだった。設計は東京駅と同じ辰野金吾である。館内には食堂やバーがある当時の最先端をいく駅だった。

 

駅前には日露戦争の英雄、廣瀬武夫(廣瀬中佐)と杉野孫七の銅像が立っていた。さらに駅前を市電が行き交って賑やかだった。

↑大正中ごろの万世橋駅。レンガ建ての立派な建物で、中央本線のターミナル駅として機能していた。駅正面に廣瀬中佐の銅像が立つ

 

↑広瀬中尉の銅像が名物だったようで絵葉書に解説が入る。駅前を多くの市電が行き交う様子が見られ賑わいぶりが分かる

 

初代の駅は豪華だったものの、中央本線が1919(大正8)年に東京駅まで延伸。万世橋駅はターミナル駅でなくなってしまった。さらに1923(大正12)年の関東大震災で駅が消失、簡易駅舎となってしまう。

 

長く東京市電の乗換駅として機能していたものの、交差点が移転し、1929(昭和4)年には市電が走らなくなった。その後に鉄道博物館が万世橋駅に併設されるが、太平洋戦争中の1943(昭和18)年11月1日に駅は営業休止してしまった。

 

今は、交通博物館跡が整備されて、商業スペースとして使われている。だが、近くの秋葉原駅の周辺が大変な賑わいを見せるのに対して、万世橋付近は静かだ。ここに駅がかつてあり、賑わっていたとは、多くの人が知らずに通り過ぎているのでは無いだろうか。

【蘇る東京の風景⑦】東京の玄関口も新橋駅から東京駅へ移動

駅が話題になったので、東京の代表的な駅の絵葉書を2枚ピックアップした。

 

1枚は新橋駅の明治時代の様子である。日本初の鉄道路線が新橋駅と横浜・桜木町駅間を1872(明治5)年に開業した。当時の姿が絵葉書として残り、煉瓦建ての重厚な建物だったことが分かる。

↑開業当初の駅舎を紹介した明治時代の手彩色絵葉書。建物横に「キリンビール」という看板が見える。駅前には荷馬車の姿も確認できる

 

新橋駅は1914(大正3)年に東京駅が開業に合わせて汐留駅と名をあらため、同時に貨物駅となっている。その後、古い駅舎一帯は国の史跡に指定され、現在は開業当時の駅舎が再現され「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室(入場無料)」として当時の資料などが展示されている。

 

旧新橋駅に代わり東京の玄関口となったのが東京駅だった。国が駅づくりを推し進め帝国議会で議決されたほど、当時の政府が力を入れた駅づくりだった。いわば国家プロジェクトとして造られた駅だった。東京駅は1914(大正3)年12月20日に開業した。辰野金吾が設計した3階建てレンガ造りの建物が見事だった。内外からの注目度も高まり、多くの絵葉書が発行されている。

 

太平洋戦争中に空襲により被災し、その後、復興したものの、当初の形とは異なっていた。2012年には「復原工事」が完了している。大正期に建ったころの姿と見比べてみると、ほぼ誕生したころの姿に復元されていることが分かる。

↑「帝都名所」として紹介された大正中ごろの「丸の内東京停車場」。建物は今と同じだが、走るのが人力車や荷車というのがこの時代らしい

 

 

【蘇る東京の風景⑧】ここはどこ?場所を推理するのも楽しみに

さて鉄道絵葉書を複数紹介してきたが、最後に車両を写した絵葉書を見てみよう。下記の絵葉書では電車とSLが牽引する列車の姿が確認できる。

 

しかし、同絵葉書には場所などの解説がない。車両を紹介する絵葉書には、このように場所や説明を省いたものが結構ある。どこの何の絵葉書なのかが分からない。そのために場所の面影や写る車両で推測するしかない。

↑大正中ごろの東海道本線・大森駅〜蒲田駅間。このころすでに複々線化され、京浜線の電車(デハ6340系)とSL列車が並走していた

 

例として上げた撮影地不明の絵葉書。この同じ場所で撮影した写真を、「日本国有鉄道百年写真史」の中で見つけた。そして現在の京浜東北線の大森駅〜蒲田駅間であることが分かった。同区間は1914(大正3)年に京浜間の電化工事が完成したが、その後の写真だったのだ。

 

写り込む電車は形から見ると鉄道省が製造したデハ6340系と思われる。とはいえ、カラー印刷が普及しはじめたころの絵葉書は偽色とも言えるような色付けをしていることがあり、絵葉書の色がそのまま本物とは言いきれないようだ。同車両は記録としてモノクロ写真しか探すことができず、色がこんなオレンジ色に近かったのか、さらに疑問が涌いてきた。

 

【絵葉書の基礎知識】刷られた年代の見方と、購入ノウハウ

さて、絵葉書を手に入れたものの、どの年代のものか分からない場合がある。どのようにしたら刷られた年代が分かるのだろうか。

 

絵葉書は郵便物として投函されていれば消印が捺されているので、絵葉書自体は、その日付よりも前に刷られたものということがわかる。だが、消印がない場合に、年代を読むのはどうしたら良いのだろう。

 

簡単な方法がある。絵が刷られた側とは反対の裏面を見れば良い。ここには宛名を書くスペースがある。このスペースの大小でおよその時代が分かる。一面に、宛名を書き、通信文を書き込むスペースがないものが最も古い。宛名しか書けないもので、この形の葉書が1907(明治40)年4月までに使われていた。

 

次に古いのが通信文用のスペースがはがき面の3分の1大のもので、これは1907(明治40)年4月〜1918(大正7)年3月に刷られたものだ。

 

1918年4月以降は、通信文スペースがはがき面の半分まで大きくなっている。このスペースの違いでほぼ、古さが分かる。

↑裏面の通信文スペースで、絵葉書の古さを推測することができる

 

ところで絵葉書の横書きの解説は、古いものは、多くが右から左へ記されている。現在とは正反対だ。これが、現代風に左から右へ印刷するようになったのは、いつのことからなのだろう。左から右へのルールが決められたのは1942(昭和17)年のことだった。当時の文部省によりこの“決まり”が制定されていた。だが、一般に浸透していくのは太平洋戦争後のことで、左から右へ解説文がある絵葉書は、だいたいが、戦後のものと見て良い。

 

さらに、戦後は裏面の「郵便はがき」の文字も左から右へと印刷されるようになる。戦前までは右から左へ印刷され、1933(昭和8)年までは「郵便はかき」と「が」を濁らず刷られていた。時代により、いろいろは変化があるわけだ。

 

最後に、絵葉書の入手方法に触れておこう。

 

絵葉書は切手収集の一つのアイテム、エンタイヤとして見られていることもあり、切手やコインの販売会などで取引されることが多い。こうした催しは四季折々に開かれているが、新型感染症の影響で、催しの開催も自粛されているのが現状だ。

 

一方で、ヤフーオークションなどで取引されるケースが増えている。ちなみヤフオクであれば、カテゴリは「アンティーク、コレクション」の中の「印刷物」。そこに「絵はがき、ポストカード」とあり、「鉄道」絵葉書も数多く出されている。金額は1000円程度から、高いものは5000円以上と幅がある。残る枚数が少ない“珍品”は高価になりがちだ。

 

興味のある方は覗いてみてはいかがだろう。

 

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