おもしろローカル線の旅66 〜〜富士急行・富士急行線(山梨県)〜〜
富士山の北麓、山梨県内を走る富士急行線。「富士山に一番近い鉄道」を名乗るだけに、電車の内外から眺める富士山の姿は迫力そのものだ。
この富士急行線。乗車してみると、興味深いことが多く浮かび上がってきた。そんな富士急行線の気になる「秘密」を謎解きする旅を楽しんだ。
*取材・撮影は2019年12月末〜3月にかけて行いました。
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【富士急行線の秘密①】富士急行の先祖は馬車鉄道だった?
初めに、富士急行・富士急行線の概要を見ておきたい。
路線と距離 | 富士急行・富士急行線/大月駅〜河口湖駅26.6km *全線単線・1500V直流電化 |
開業 | 1929(昭和4)年6月19日、富士山麓電気鉄道により大月駅〜富士吉田駅(現・富士山駅)間が開業、1950(昭和25)年8月24日、富士吉田駅〜河口湖駅間の開業で路線全通 |
駅数 | 18駅(起終点駅を含む) |
富士急行の歴史は1929年に始まったとされる。だが、実はもっと古い時代から、富士山麓には線路が敷かれていた。最初に線路が敷かれたのは1900(明治33)年9月のこと。下吉田〜籠坂峠(かごさかとうげ)間に都留馬車鉄道が馬車路線を敷いたのが始まりだった。籠坂峠は、静岡県との県境にある峠で、現在は国道138号が走る。標高1104mにもなる峠だ。
富士山は古くから信仰の山として、また富士山麓は富士講に訪れる人で賑わった。そうした観光客向けに馬車鉄道が敷かれたのだった。1903(明治36)年には、富士馬車鉄道が大月〜谷村本社(現・谷村町駅の近くに設けられた停留場)間の線路を敷設した。小沼(現・西桂町内の停留場)で都留馬車鉄道と接続したが両馬車鉄道の軌間の幅が異なり、直通運転ができなかった。
当時、籠坂峠を越えて静岡県側にも馬車鉄道が開通していたこともあり、馬車鉄道を乗り継げば、富士山麓を山梨県の大月から静岡県の御殿場まで抜けることが可能だった。とはいえ、馬の力を頼っての鉄道だったこともあり、時間がかかり、また急坂を登ることは苦難の連続だったことが推測される。馬車をひく馬にしても急坂を登るわけで、苦労の連続だったろう。
馬車鉄道により始まった富士山麓の鉄道の歴史だが、富士急行のルーツでもある富士山麓電気鉄道となる前に前段階と呼べるような歴史が潜む。大正期に入り、都留馬車鉄道は都留電気鉄道に、富士馬車鉄道は富士電気軌道と名を改めている。後に、都留電気鉄道は富士電気軌道に譲渡された。1921(大正10)年10月には大月〜金鳥居上(かなどりいうえ/現・富士山駅)間の直通運転が開始された。
とはいえ、馬車鉄道の名残で、道路上を走る併用軌道線だった。路面電車タイプの車両が走っていて、現在よりもかなり時間はかかった。その後の1928(昭和3)年に富士電気軌道は、富士山麓電気鉄道に譲渡された。
富士山麓電気鉄道はスムーズな運行を実現するために、現在のルートに路線を変更、そして1929(昭和4)年6月19日に電車の運行が始められた。同時に併用軌道の路線は廃止された。
現在の富士山駅から、河口湖付近を通り、鳴沢まで向かう馬車鉄道「富士回遊軌道」もあった。こちらも富士山麓電気鉄道に1927(昭和2)年に譲渡されている。この富士回遊軌道という会社は無許可で馬車鉄道を走らせたという話もあり、どうも危うい鉄道会社だったようだ。こうして調べてみると、当時のこの地区の鉄道の謎がより深まったように感じた。
現在、「富士回遊」という名前の特急列車が河口湖駅まで乗入れている。この地域にあった馬車鉄道の名前そのものである。これは偶然の一致なのだろうか。
【富士急行線の秘密②】実は富士山駅を境に路線名が変わる?
富士山麓電気鉄道がまとめ役となり、この地域の鉄道を整備した。現在の富士急行が富士山麓電気鉄道により創始されたと言って良いだろう。太平洋戦争後の1950(昭和25)年8月24日には富士吉田駅〜河口湖駅間の路線を開業、10年後の1960(昭和35)年に富士急行と社名を改めている。
富士急行線の正式な路線名は大月駅〜富士山駅間を大月線、富士山駅〜河口湖駅間を河口湖線と呼ぶ。富士急行線といのは実は2本の路線の総称なのだ。
富士急行線では2路線を通して列車が運行されている。この2本の正式な路線名はほぼ使われていない。そのため、筆者も正式な路線名があることを迂闊にも知らなかった。開業までの歴史もそうだが、富士急行線は予想以上に奥が深い。
【富士急行線の秘密③】富士山麓を何m登っているのか?
起点の大月駅から、富士急行線を乗ると、電車が勾配を徐々に登っていくことがわかる。大月駅が標高358m、終点の河口湖駅は857mにもなる。起点と終点では標高が500mも違うのだ。
単純計算すると全線の平均勾配が18.8‰(パーミル)。つまり1000m走るうちに18.8mほど登ることになる。鉄道路線としては、平均勾配の数値をみただけでも、結構、きつい勾配であることが分かる。だが、平均した角度の坂が続くわけではない。傾斜がなだらかなところがあれば、逆に傾斜がきつくなるところがある。
路線を敷く時には、少しでも勾配を緩くして線路を敷こうとする。もちろん富士急行線でも、それは同じで傾斜の角度を少しでも減らすべく各所で工夫され線路が敷かれている。とはいえ、かなり勾配は険しく、またカーブが多い路線となっている。山岳路線の宿命といってよいだろう。
大月駅の富士急行線のホームは1・2番線となる。JR東日本のホームが3〜5番線なので、富士急行線側からホームの番号がふられているわけだ。富士急行線の大月駅のホームは行き止まり式。駅舎側に線路止めがあり、3両編成の電車が発着している。
一方、JR東日本から直接に乗入れる列車は3・4番線からの発着で、連絡線を通って富士急行線へ入っていく。
大月駅から、勾配に注意を払いながら、乗車を楽しんだ。大月駅から左へ大きくカーブ。すぐに上大月駅に到着する。この駅付近から国道139号が平行して走る。国道139号は「富士みち」とも呼ばれる富士山北麓の幹線道路だ。さらに桂川も沿って流れる。田野倉駅と禾生駅(かせいえき)の間、頭上はるか上を高架橋が通る。これは将来、JR東海のリニア中央新幹線となる予定のリニア実験線の高架橋だ。
15分ほどで都留市駅(つるしえき)へ到着する。都留市の中心駅で乗降客も多い。学生の乗降客が多い都留文科大学前駅といった駅を通り、列車は桂川を右に左に眺めつつ、徐々に標高をあげていく。
十日市場駅、東桂駅付近からは、勾配標を意識して眺めた。33.3‰、11.4‰、30.0‰、15.2‰、10.0‰、30.3‰と進行方向左側に数字が書かれた標識が、ほとんど間断なく続く。三つ峠駅からさらに険しさを増す。33.3‰、16.2‰、そして40‰!
40‰という勾配は富士急行線最大の勾配区間を示す。今の高性能な電車はスピードを落とすことなく、ぐいぐいと乗りきってしまうのだった。
ちなみに日本の粘着式鉄道では箱根登山鉄道の80‰が最大で、京阪電気鉄道の京津線(けいしんせん)に61‰の急坂がある。いずれも急坂用に造られた車両が走る路線だ。両路線に比べると、数値としては角度が緩いが、それでもかなり険しい部類に含まれる。
【富士急行線の秘密④】富士山が見える場所は意外に少ない?
さて三つ峠駅〜寿駅間といえば、もっとも富士山の姿が良く見える場所として知られている。列車も、途中、景色の良い区間では富士山の景色が充分に楽しめるように徐行しつつ走る。
同区間には富士山と電車を絡めて撮影できるスポットがある。しかし、富士急行線に乗ると、意外に富士山が見える箇所が少ない。開けた土地が少ないこと、国道沿いに民家が多いこと、手前に山がつらなること、などの理由が重なり、富士山が見通せる場所が少ないということもあるだろう。
とはいえ、良く見通せる箇所では、電車は充分にスピードを落として、富士山の景色が楽しめるように“サービス走行”を行う。そんなスピードを落とす箇所が、三つ峠駅から寿駅間にかけて。この駅間は富士山のおすすめ撮影スポットが複数ある。そんなスポットで撮影した写真も紹介しておこう。
【富士急行線の秘密⑤】三つ峠駅〜寿駅間にある慰霊碑は?
富士山の眺望が素晴らしい三つ峠駅〜寿駅間だが、前述したように最急勾配がある。この40‰の最急勾配区間で、50年ほど前に痛ましい事故が起きた。
1971(昭和46)年3月4日に起きた富士急行列車脱線転覆事故の現場である。当時を振り返ってみたい。
河口湖駅発、大月駅行の電車が富士吉田駅(現・富士山駅)を発車、朝8時過ぎに次の駅、月江寺駅(げっこうじえき)の手前にある月江寺第2号踏切にさしかかった。そこに小型トラックが進入してきた。ドライバーが小型トラックのサイドブレーキをしっかりかけず停め下車してしまった。そのため、動き出したのだった。なぜそんなことが……。積んでいた荷物が荷崩れ、また落とした荷物を拾おうと、ドライバーは下車したとされる。不運が重なった。
電車と小型トラックは衝突。電車の下に小型トラックが巻き込まれてしまった。巻き込んだ小型トラックが電車の空気だめを破損した。当時の電車のブレーキシステムは空気だめを利用するシステムで、空気だめが壊れるとブレーキが効かなくなる。
ブレーキが効かなくなった電車は、急勾配を暴走し始めた。月江寺駅、下吉田駅、葭池温泉前駅、暮地駅(現・寿駅)を猛スピードで通過、暮地駅の先はカーブが続く。しかも40‰の急坂。暴走した電車はこらえ切れず、脱線転覆してしまったのだった。
乗っていた120人のうち、17人が死亡、69人が負傷するという大惨事になった。その後、電車のブレーキは多重化したシステムを利用するようになった。不運が重なった痛ましい事故だったが、その経験が、後の安全な電車造りに大きく役立っている。
【富士急行線の秘密⑥】寿駅が駅の名前を改めた理由は?
前述した事故があったちょうど10年後に一つの駅の駅名が変更された。ちょうど事故があった最寄りの駅、寿駅のことである。この駅は以前、暮地駅(くれちえき)だった。そのままでも良さそうに思えるが……。
暮地の「暮」の字は墓地の「墓」の字に似ていて、縁起が悪いとされたのである。事故がなかったら何の問題もなかったのだろうが、死者まで出た痛ましい事故が近くで起ったことが問題視された。そこで10年後の1981(昭和56)年に寿駅とされた。同駅は無人駅だが、縁起が良い駅名ということで入場券が富士急行線の有人駅で発売されている。
痛ましい事故があったことを知る人も、今となっては少なくなっている。駅の改名の裏に悲劇が隠されていたとは、興味深い話である。
【富士急行線の不思議⑦】なぜ下吉田駅にブルトレ客車があるの?
だいぶ三つ峠駅〜寿駅間で寄り道をしてしまった。旅を先に進めよう。
寿駅の2つ先は下吉田駅。この駅は造りが重厚で趣がある。さらに2009年には水戸岡鋭治氏のデザインにより、おしゃれな駅にリニューアルされた。
鉄道好きとして下吉田駅で気になるのは、保存される車両群であろう。まずブルートレインテラスと名付けられたスペースには国鉄形14系客車と急行形電車169系の先頭部分が保存展示されている。14系客車には寝台特急「富士」のマークが付けられる。富士つながりで、同駅で保存されることになった。同車両は、富士のマークが掲示されているが、実は上野駅〜金沢駅間を走るブルートレイン寝台「北陸」に使われた14系客車だった。
下吉田駅の駅舎をはさんで逆側には「フジサン特急」として走った2000形(元JR東日本165系)と、富士急行が自社発注し、2019年に引退した5000形、そして古い貨車が複数、保存されていた。さながら富士急行の電車博物館とも言えるような構内だ。
筆者が下吉田駅を下車した日は、まだ訪日外国人が多いころだった。そのせいか下吉田駅の裏手にある新倉富士浅間神社と忠霊塔へ向かう人たちが目立った。いつの間にか忠霊塔は下吉田駅から行く人気の観光スポットになっていた。
【富士急行線の秘密⑧】富士山駅はなぜスイッチバック駅なのか
下吉田駅から2つめ、富士山駅に到着した。この駅、行き止まり式のホームとなっている。ホームは台地上にあり、目の前を遮るものがない。富士山が目の前にそびえ、迫力すら感じられる。そのせいか多くの人が写真撮影を楽しんでいた。眺望がすぐれたホーム上にはイスが置かれ、座り込みゆっくりと眺望に見入る人たちもいた。
さてこの富士山駅は行き止まり式。電車はみなスイッチバックする形で、それぞれの方向へ走る。なぜ途中駅なのにスイッチバックする形になったのだろう。
線路を敷く時に、傾斜の厳しさから、現在のような路線づくりが行われたこともあっただろう。さらに富士山駅までは昭和初期の開業、河口湖駅への路線は太平洋戦争後の開業となる。路線は富士山駅が出来てから、20年後に延びた。当初は、河口湖方面への延伸が計画されていなかったこともあろう。
前身となる馬車鉄道が、駅の東側にある山中湖や、籠坂峠方面へ走っていたことも大きかった。
さまざまな理由が重なり、富士山駅はスイッチバック駅として現在に至るのである。同駅では、改札口を入った2、3番線が主に使われている。改札口を入った左側の3番線ホームが主に大月、東京方面、右側の2番線が河口湖方面で、発車した電車はホームの先でクロスして各方面へ向かう。
【富士急行線の秘密⑨】なぜ富士吉田はうどんが名物なのか?
鉄道から話が逸れるが、富士吉田市は郷土料理「吉田うどん」が良く知られている。このうどん、訪れた時にはぜひとも味わっていただきたい。市内に約60軒もの吉田うどんを商う店があるとされる。筆者も行くたびに好みの味を探そうと市内をめぐる。
なぜ、富士吉田にはうどんが郷土料理として広まったのだろう。まずは冷涼な気候のため稲が栽培できなかったことが大きいとされる。冬に栽培する小麦は、富士吉田の場合に、凍結を防ぐために畝(うね)の間に水を流す「水掛麦」という栽培法が使われた。
江戸期から富士講のために訪れる人も増え、そうした人に向けてふるまった歴史も吉田うどんを広めた一つのきっかけとなった。
もちろん伏流水などの水が豊富でおいしいことも大きい。そうした歴史や食材が豊富だったこともあり、人気となった。安くてボリュームがあり、歯ごたえのある手打ちうどん、やみつきになる味である。
さて吉田うどんで満足した後は、終点の河口湖駅を目指す。富士山駅の次の駅は富士急ハイランド駅だ。駅前に人気アトラクションを揃えたアミューズメントパークが広がる。通常の行楽期であれば、ここで下車する人も多い。ちなみに富士急ハイランドは、6月19日から他県からの来場者も入園が可能となっている。絶叫マシン好きにはようやく、待ちかねた日がやってきたといったところだろう。
【富士急行線の不思議⑩】河口湖駅の先までなぜ線路が延びるのか
富士急ハイランド駅を発車。電車は最後の勾配に挑む。ほどなく終着駅の河口湖駅に到着した。河口湖の標高は857m、まさに高原そのもので、空気が清冽に感じる。大月駅から約1時間の小さな旅が終わった。
さて、河口湖駅の駅の構造。ホームは駅舎側から1・2番線ホーム、さらに3番線ホームがある。富士山側には留置線が平行して並ぶ。富士急行の自社の車両と、JR東日本からの直通列車が多く停められている。構内の線路の配置をみると不思議に感じる。留置線へ進入する線路は、富士急ハイランド駅側にはない。さてどこから進入するのだろう。
河口湖駅のホームの先をみると200mほど引込線が設けられている。果たしてこの引込線は?
河口湖駅まで走ってきた電車は、すぐに折り返しをしない電車以外は、この引込線へ進入する。ここで方向を変え、留置線へ入って、発車時間までひと休みとなる。つまり、河口湖の先にある引込線は、留置線に入る時に、方向転換をする線路だったのだ。発車時間が近づくと、留置線に停車していた電車は、引込線を利用、方向転換をして、河口湖駅のホームへ入る。
本線ではないのにこの引込線には、途中、専用の踏切が設けられている。河口湖駅は、なかなかおもしろい構造の駅だった。
筆者は富士急行線に数えきれないほど乗車している。だが、何度乗っても飽きることがない。乗るたびに新たな発見が出てくる。そんな楽しい魅力が富士急行線には詰まっている、と思う。
今回は、原稿枚数が多くなってしまったので避けたが、走る電車も魅力がある。次に紹介の機会があれば、富士急行線の車両にも目を向けてみたい。
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