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2020/11/24 20:00

不思議がいっぱい? えちぜん鉄道「勝山永平寺線」11の謎解きの旅

おもしろローカル線の旅71 〜〜えちぜん鉄道勝山永平寺線(福井県)〜〜

 

乗車したローカル線で、これまで見た事がないもの、知らないものに出会う。「何だろう」と好奇心が膨らむ。一つ一つ謎を解いていく、それが楽しみとなる。さらにプラスαの楽しさが加わっていく。えちぜん鉄道勝山永平寺線は、さまざまな発見が楽しめるローカル線。晩秋の一日、謎解きの旅を楽しんだ。

*取材撮影日:2014年7月23日、2020年11月1日ほか

 

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【謎解きその①】路線名が越前本線から勝山永平寺線となったわけ

初めに、勝山永平寺線(かつやまえいへいじせん)の概要を見ておきたい。

路線と距離えちぜん鉄道勝山永平寺線/福井駅〜勝山駅間27.8km
*全線単線・600V直流電化
開業1914(大正3)年2月11日、京都電燈により新福井駅〜市荒川駅(現・越前竹原駅)間が開業、同年3月11日、勝山駅まで延伸開業
駅数23駅(起終点駅を含む)

 

すでに路線開業から100年以上を経た勝山永平寺線。路線の開業は京都電燈という会社によって進められた。当時、電力会社は今のように寡占化が進んでおらず、電力会社が各地にあった。京都に本社があったのが京都電燈で、関西と北陸地域に電気を供給していた。自前で作った電気を利用し、電車を走らせることにも熱心な会社で、日本初の営業用の電車が走った京都電気鉄道(後に京都市電が買収)のほか、現在の叡山電鉄などの路線を開業させた。

 

福井県内で手がけたのが現在の勝山永平寺線で、当初は越前電気鉄道の名前で電車の運行を行った。経営は順調だったが、太平洋戦争中の1942(昭和17)年の戦時統制下、配電統制令という国が電力を管理する決定が下され、京都電燈は解散してしまう。

 

京都電燈が消えた後に京福電気鉄道が経営を引き継ぎ、京福電気鉄道越前本線となった。当時は永平寺鉄道という会社があり、永平寺線という路線を金津駅(現・芦原温泉駅)〜永平寺駅間で営業していた。同線とは永平寺口駅で接続していた。1944(昭和19)年に京福電気鉄道は永平寺鉄道を合併し、京福電気鉄道永平寺線としている。この年に永平寺口駅は東古市駅と名を改めた。

 

当初は路線名が越前本線だったわけだが、勝山永平寺線となった理由は、その後の経緯がある。答えは、次の章で見ていくことにしよう。

 

【謎解きその②】なぜ2回もいたましい事故が起きたのか?

京福電気鉄道は、戦後間もなくは順調に鉄道経営を続けていたが、モータリゼーションの高まりとともに、次第に経営が悪化していく。1960年代からは赤字経営が常態化していた。まずは永平寺線の一部区間を廃止した(金津駅〜東古市駅間)。新型電車の導入もままならず、施設は古くなりがちで、安全対策もなおざりにされていた。そんな時に事故が起った。

 

現在に「京福電気鉄道越前本線列車衝突事故」という名で伝えられる事故。詳しい解説は避けるが、古い車両のブレーキの劣化による破断が原因だったとされる。2000(平成12)年12月17日のこと。永平寺駅(廃駅)方面から下ってきた東古市駅(現・永平寺口駅)行き電車が、ブレーキが効かずに暴走してしまう。そして駅を通り過ぎ、越前本線を走っていた下り列車と正面衝突してしまったのだった。

↑永平寺口駅の構内に入線する福井駅行の上り列車。右側にカーブするように元永平寺駅へ延びていた線路跡がわずかに残る

 

この事故で運転士が亡くなる。ブレーキが効かなくなったことを気付いた運転士は、少しでもスピードが落ちるように、電車の全窓をあけて空気抵抗を高めようとし、乗客を後ろの方に移動させるなどの処置を行った。本人は最後まで運転席にとどまり、電車をなんとか制御しようとしたとされる。おかげで乗客からは死者を出さずに済んだのだが、本人が亡くなるという大変に痛ましい結果となっている。

 

さらに翌年の6月24日には保田駅〜発坂駅間で上り普通列車と下り急行列車が正面衝突してしまう。こちらは普通列車の運転士が信号機の確認を怠ったための事故だった。とはいえ、ATS(自動列車停止装置)があったら、防げた事故だった。この事故の後に国土交通省から中小事業者に対して補助金が出され、各社の設置が進んだ。2006(平成18)年には国土交通省の省令に、安全設備設置は各鉄道事業者自身の責任で行うことが明記されている。現在は全国の鉄道に当たり前のようにATSが設置されるが、京福電気鉄道をはじめ複数の鉄道会社で起きた痛ましい事故がその後に活かされているわけだ。

 

この2件の正面衝突事故を重く見た国土交通省はすぐに京福電気鉄道の全線の運行停止、バスを代行運転するように命じた。ところが、両線が運行停止したことにより、沿線の道路の渋滞がひどくなり、バス代行も遅延が目立った。とはいえ京福電気鉄道には安全対策を施した上で、運行再開をさせる経済的な余力が無かった。

 

そこで福井県、福井市、勝山市などの沿線自治体が出資した第三セクター経営の、えちぜん鉄道が設立され、運行が引き継がれた。そして2003(平成25)年の2月にまずは永平寺線をそのまま廃線とし、越前本線は勝山永平寺線に路線名を改称した。7月20日に福井駅〜永平寺口駅間を、10月19日に永平寺口駅〜勝山駅間の運行を再開させた。

 

永平寺線自体は消えたが、沿線で名高い永平寺の名前は路線名として残したわけである。

 

【謎解きその③】2両編成の電車は元国鉄119系なのだが……?

ここで勝山永平寺線の主要車両の紹介をしておこう。前回の三国芦原線の紹介記事と重複する部分もあるが、ご了承いただきたい。2タイプの電車がメインで使われる。筆者は三国芦原線では乗れなかった2両編成の電車も、こちら勝山永平寺線で乗車できた。さてそこで不思議に感じたのは……

 

・MC6101形

えちぜん鉄道の主力車両で、基本1両で走る。元は愛知県を走る愛知環状鉄道の100系電車で、愛知環状鉄道が新型車を導入するにあたり、えちぜん鉄道が譲渡を受け、改造を施した上で利用している。車内はセミクロスシート。なお同形車にMC6001形が2両あるが、MC6101形とほぼ同じ形で見分けがつかない。MC6001形は1両での運行も可能だが、2両編成で運行させることが多い。なお、他にMC5001形という形式もあるが、1両のみ在籍で、この車両にはあまりお目にかかることがない。

↑勝山永平寺線を走るMC6101形電車。日中はこの1両編成の車両がメインとなって走る。沿線の風景は三国芦原線に比べて山里の印象が強い

 

・MC7000形
元はJR飯田線を走った119系。えちぜん鉄道では2両編成の運用で、朝夕を中心に運行される。勝山永平寺線では週末の日中にも走ることがある。MC6101形と同じくセミクロスシート仕様だ。

 

さてMC7000形だが、下記の写真を見ていただきたい。飯田線を走っていたころの119系(小写真)、と2両編成で走るMC7000形を対比してみた。まったく顔形が違っていたのである。

↑2両で走るMC7001形。正面の形は119系(左上)とは異なる。MC6101形とは尾灯の形が異なるぐらいで見分けがつきにくい

 

MC7000形は、119系をベースにはしているが、電動機や制御方式を変更している。119系の当時は制御車にトイレが設けられたが、現在は取り外され空きスペースとなっている。また運転台の位置を下げるなどの改造を行い、正面の姿は元も面影を残していない。MC6101形と、ほぼ同じ姿、いわば“えちぜん鉄道顔”になっている。よって、正面窓に2両の表示がない限り、見分けがつきにくい。

 

国鉄形の電車も顔を変えれば印象がだいぶ変わるという典型例で、この変化もおもしろく感じた。

 

【謎解きその④】一部複線区間が今は全線単線となった理由

さてここから勝山永平寺線の旅を始めよう。起点は福井駅。えちぜん鉄道福井駅はJR福井駅の東口にある。福井駅の東口は北陸新幹線の工事の真っ最中で、大きくその姿を変えつつある。新幹線の高架路線に沿って、えちぜん鉄道の高架路線が福井口駅まで延びている。

 

すでにえちぜん鉄道の路線の高架化改良工事は終了している。福井駅〜福井口駅間が地上に線路があったころとはだいぶ異なる。以前には福井駅〜新福井駅間と、福井口駅からその先、一部区間が複線だった。現在は複線だった区間がすべて単線となり、途中駅には下り上り線が設けられ行き違い可能な構造になっている。興味深いことにえちぜん鉄道では、自社の高架路線が完成するまでは北陸新幹線用の高架路線を、“仮利用”していた。2015年から3年ばかりの間は、新幹線の路線となるところをえちぜん鉄道の電車が走り、自社の高架路線が完成するのを待ったのである。

 

自社線ができあがってからは、複線区間が単線となった。要は福井駅〜福井口駅間は新幹線を含めて敷地の幅が拡張されたが、えちぜん鉄道の一部は路線の幅を縮小して単線化された。結果として北陸新幹線の開業に向けて用地を一部提供した形となっている。

↑福井駅東口にあるえちぜん鉄道の福井駅。高架駅でホームは2階にある。勝山行き列車は日中、毎時25分、55分発の2本が発車する

 

福井駅発の勝山永平寺線の列車は朝の7〜8時台が1時間に3本を運転(平日の場合)。また9時台〜20時台は発車時間が毎時25分と55分になっている。途中駅でも、この時間帯の発車時刻はほぼ毎時同タイムで運行される。要はパターンダイヤになっている。利用者が使いやすいように配慮されているわけだ。

 

筆者は福井駅発10時25分発の電車に乗車した。なお、福井駅発の電車は平日のみ運転の7時54分発の電車のみが永平寺口駅どまりで、他はみな勝山駅行となっている。急行はないが一部列車は比島駅(ひしまえき/勝山駅の一つ手前の駅)のみを通過するダイヤとなっている。勝山駅まで通して乗車すれば53〜63分ほど。運賃は福井駅〜勝山駅間が770円となる。三国芦原線の記事でも紹介したとおり、全線を往復することを考えたら1日フリーきっぷ1000円を購入すればかなりおトクになる。

↑福井口駅の北で三国芦原線(右)と分かれる。ちょうど勝山駅行列車が高架上を走る。右の高架線下にえちぜん鉄道本社と車両基地がある

 

福井口駅をすぎると分岐を右に入り、列車は勝山駅方面へ向かう。なお、福井口駅の北側にえちぜん鉄道の車両基地があり、勝山永平寺線の車内からもわずかだが基地内が見える。

↑高架上から車両基地へ降りる回送電車。右は基地内に停まるMC6001形電車。車庫内には同社名物の電気機関車ML521形も配置される

 

【謎解きその⑤】さっそく出ました難読「越前開発駅」の読みは?

↑福井口駅から高架線を走り勝山駅へ向かう下り列車。高架から地上に降りる坂の勾配標には32.0パーミルとある。結構な急勾配だ

 

福井口駅から高架線を降りてきた勝山永平寺線の列車。次の駅は越前開発駅だ。この駅名、早速の難読駅の登場です。通常ならば「えちぜんかいはつえき」と読むところ。だが、「かいはつ」ではない。「えちぜんかいほつえき」と読ませる。

 

越前開発駅の北側に開発(かいほつ)という地域名がある。このあたりは元々原野や湿地帯で、その一帯が開発されたところだとか。「かいほつ」と読ませるのは仏性(仏になることができる性質のこと)を獲得するという仏教用語なのだそう。縁起の良い呼び方がそのまま伝わったということなのだろう。なかなか日本語は奥が深いことを、ここでも思い知った。

↑越前開発駅はホーム一つの小さな駅。以前は福井口駅からこの駅まで複線区間となっていて、今もその敷地跡が残る

 

越前開発駅、越前新保駅(えちぜんしんぼえき)と福井の市街地の中を走るルートが続く。追分口駅付近からは左右の田畑も増えてきて、徐々に郊外の風景が広がるように。越前島橋駅の先で北陸自動車道をくぐる。その先、さらに田園風景が目立つようになる。

 

松岡駅の付近からは右手に山がすぐ近くに望めるようになり、やがて、列車は山のすそ野に沿って走るように。左手に国道416号に見ながら走る。このあたり九頭竜川(くずりゅうがわ)が生み出した河岸段丘の地形が連なる。志比堺駅(しいざかいえき)がちょうど、段丘のトップにあたるのだろうか。駅も路線も一段、高いところに設けられる。

 

勝山永平寺線は地図で見る限り平坦なよう感じたが、乗ってみると河岸段丘もあり、意外にアップダウンがある路線だった。

 

【謎解きの旅⑥】永平寺口駅には駅舎が2つある?さらに……

志比堺駅を発車すると右から迫っていた山地が遠のき平野が開けてくる。そして列車は下り永平寺口駅(えいへいじぐちえき)へ到着する。この駅で下車する人が多い。現在の駅舎は線路の進行方向左手にあり、こちらに永平寺へ向かうバス停もある。一方で、右手にも駅舎らしき建物がある。こちらは何の建物だろう?

↑永平寺口駅の旧駅舎。路線開業時に建てられた駅舎で、映画の男はつらいよのロケ地としても使われた

 

右手の建物は旧駅舎(現・地域交流館)で勝山永平寺線が開業した1914(大正3)年に建てられたもの。開業当初は永平寺の最寄り駅であり、1925(大正14)年には永平寺鉄道(後の永平寺線)も開業したことにより、乗り換え客で賑わった。

 

同路線では終点の勝山駅と共に歴史が古く、風格のあるたたずまいで今もその旧駅舎が残されるわけだ。この建物の入り口には映画「男はつらいよ」のロケ地となったことを示す石碑が立つ。1972(昭和47)年8月に公開された第9作「柴又慕情」編のロケ地となり、主人公の渥美清氏やマドンナ役の吉永小百合さんも訪れたそうだ。

 

さらにこの駅舎は2011(平成23)年には国の登録有形文化財に指定されている。登録後には改修工事も行われ、非常にきれいに管理されている。さて永平寺口駅周辺で気になるのは旧永平寺線の線路跡である。

↑永平寺口駅構内には、旧永平寺駅方面へ右カーブしていたころの線路が一部残る。左手奥が現在の勝山永平寺線の線路

 

永平寺口駅はこれまで4回にわたり駅名を変更している。駅が開業した時は永平寺駅、さらに永平寺鉄道が開業した2年後に永平寺口駅となった。永平寺鉄道と京福電気鉄道が合併した時には東古市駅となった。さらにえちぜん鉄道となった年に、永平寺口駅となった。つまり誕生してから2つめの駅名に戻ったことになる。

 

さて東古市駅と呼ばれたころまで永平寺線があった。当時の旧永平寺線は東古市駅〜永平寺駅間6.2kmの路線だった。現在の永平寺口駅から南側、山間部に入っていった路線で、駅構内にその線路跡の一部が残されている。駅の先も旧路線の大半が遊歩道として整備されている。

 

旧永平寺線はこの6.2km区間のみでは無かった。永平寺鉄道は金津駅(現・芦原温泉駅)と東古市駅間の18.4kmも路線を開業させていた。同路線の途中にある本丸岡駅と現在の三国芦原線の西長田駅(現・西長田ゆりの里駅)間には京福電気鉄道丸岡線という路線もあった。京福電気鉄道は福井県内で大規模な鉄道路線網を持っていたわけである。

 

とはいえクルマの時代に変化していった1960年台。1968(昭和43)年7月には丸岡線が、1969(昭和44)年9月には永平寺線の金津駅〜東古市駅間があいついで廃線となった。この永平寺線の金津駅〜東古市駅間は、東古市駅〜永平寺駅間に比べて廃線となったのが、早かったこともあり、現在は駅の北側にわずかに線路のように道路が緩やかに右カーブしているあたりにしか、その名残を見つけることができなかった。

↑永平寺口駅前に建つ旧京都電燈古市変電所。煉瓦造平屋建で屋根は切妻造桟瓦葺(きりづまづくりさんがわらぶき)といった構造をしている

 

永平寺口駅で見逃せないのが、駅前にあるレンガ建ての建物である。さてこの建物は何だったのだろう。

 

この建物こそ、路線が開業した当時の京都電燈の足跡そのもの。レンガ建ての建物は旧京都電燈古市変電所だったのだ。電気を供給するために路線の開業に合わせて1914(大正3)年に建てられたのがこの変電所だった。和洋折衷のモダンなデザインで、当時の電気会社の財力の一端がかいま見えるようだ。同建物も旧駅舎とともに国の有形文化財に指定されている。

 

最後になったが、永平寺に関してのうんちく。永平寺は曹洞宗の大本山にあたるお寺だ。永平寺は曹洞宗の宗祖である道元が1244年に建立した。道元はそれまでの既存の仏教が、なぜ厳しい修業が必要なのかに対して異をとなえた。旧仏教界と対立した道元は、越前に下向してこの寺を建立したとされる。

 

【謎解きその⑦】2つめの難読「轟駅」は何と読む?

筆者は永平寺口駅でひと休み。古い建物を楽しんだ後は、さらに勝山駅を目指した。しばらく列車は九頭竜川が切り開いた平坦な河畔を走る。永平寺口駅から3つめ。またまた難読な駅に着いた。今度は、漢字もあまり見ない字だ。車が3つ、組み合わさった駅名。さて何と読むのだろう。

 

車が3つ合わさり「どめき」と読む。ワーッ!これはかなりの難読だ。

↑轟駅のホームを発車する勝山駅行き電車。民家風の駅舎には轟駅の案内が掲げられている。この先に同路線特有のシェルターが付く

 

轟と書いて「とどろき」と読ませる地名はある。轟(とどろき)は音が大きく鳴り響くさまを表す言葉を指す。駅の北側を流れる九頭竜川の流れがやはり元になっているのだろうか。

 

「難読・誤読駅名の事典」(浅井建爾・著/東京堂出版・刊)によると、「ガヤガヤ騒ぐことを『どめく』ともいい、それに『轟』の文字を当てたものとみられる。」としている。確かに「どめく」(全国的には「どよめく」という言うことが多い)という言葉がある。当て字で轟を当てたのだろうか。ちなみに「どめく」という表現は、九州や四国地方で多く使われていることも調べていてわかった。なんとも謎は深い。

 

ちなみに地元の町役場にも調べていただいたのだが、答えは「不明」だった。こうした地名を基づく駅名は難しく、明確に分からないことも多い、ということを痛感したのだった。

 

【謎解きその⑧】ドーム型のシェルターは何のため?

轟駅の近くにはこの路線特有の装置も設けられていた。勝山駅側の分岐ポイント上にシェルターが設けられている。これはスノーシェルターと呼ばれる装置で、その名のとおり、分岐ポイントが雪に埋もれないように、また凍結しないように守る装置だ。えちぜん鉄道の勝山永平寺線には轟駅〜勝山駅間で計4か所に設けられている。

↑轟駅近くにあるスノーシェルター。ポイントを雪から守るために設けられる。横から見るとその形状がよく分かる(左上)

 

筆者は福井県内の福井鉄道福武線で同様のシェルターを見たことがある。とはいえポイントのみを覆う短いスノーシェルターは、希少で、全国的には少ないと思われる。青森県を走る津軽鉄道などにも同タイプがあったと覚えているが、津軽鉄道の場合は雪よりも季節風除けの意味合いが強い造りだった。

↑勝山永平寺線は意外に坂の上り下りが多い。小舟渡駅近くでは山が九頭竜川に迫っていることもあり電車は山肌をぬうように走る

 

【謎解きその⑨】小舟渡駅の先から見える美しい山は?

やや広がりを見せていた地形も、越前竹原駅を過ぎると一変する。進行方向右手から山が迫り、山あいを走り始めるようになる。そして左手すぐ下に九頭竜川を見下ろすようになる。

 

小舟渡駅も難読駅名の一つだろう。「こぶなとえき」と読む。駅前にはすぐ下に九頭竜川の流れがある。このあたり九頭竜川は両岸が狭まって流れている。橋が架かっていなかった時代には、多くの小舟を並べてその上に板を渡して、仮設の橋を架けて渡ったとされる。よって小舟で渡ったという地名になったのだろう。こうした橋は舟橋とも呼ばれ、九頭竜川では他にも同タイプの橋が使われていたことが伝えられている。

↑小舟渡駅近くを走る勝山行電車。九頭竜川がすぐ真下に見える。奥には1921(大正10)年に開通した小舟渡橋が架かる

 

さて小舟渡駅から先は進行方向、左手をチェックしたい。このあたりからの九頭竜川と山々の風景が沿線の中で最も美しいとされる。訪れた日はあいにく好天とは言いきれなかったが、先に白山連峰が望めた。冬になると路線のちょうど正面に大きなスキー場が見える。こちらはスキージャム勝山で関西圏から多くのスキーヤーが駆けつける人気のスキー場でもある。

↑小舟渡駅の近くから見た九頭竜川と白山の眺め。路線の一番のビューポイントで、同乗するアテンダントさんからの案内もある

 

【謎解きその⑩】勝山駅の先に線路がやや延びているが

小舟渡駅から九頭竜川を見つつ保田駅(ほたえき)へ。この駅からは勝山市内へ入り平野部が広がり始める。勝山盆地と呼ばれる平野部でもある。九頭竜川は勝山盆地で大きくカーブする。流れは勝山の先では東西に流れるが、勝山から上流は南北に流れを変る。勝山永平寺線の線路は九頭竜川の流れに合わせてカーブ、川の西岸沿いを走る。

 

一方、勝山の市街は九頭竜川の東岸が中心となっている。街の賑やかさは列車に乗っている限り感じられない。終点の勝山駅は街の中心から勝山橋を渡った西の端に位置している。なぜこの位置に駅が造られたのだろう。

↑勝山駅の駅舎は1914(大正3)年築の建物。国の登録有形文化財に指定されている。右上はわずかに延びる大野方面への線路跡

 

勝山駅の先にわずかに残る線路にその理由が隠されている。1914(大正3)年3月11日に勝山駅まで延伸開業した。その1か月後には勝山駅から先の大野口駅(後に京福大野駅まで延伸)まで路線が延ばしている。要は路線が開業して間もなく勝山駅は途中駅となったのである。

 

大野市の中心は九頭竜川の西岸にある。そのため勝山の中心部へ九頭竜川に橋をかけて電車を走らせることはなかった。南にある大野を目指したために、こうした路線の造りになったわけだった。大野には路線開業当初に鉄道線がなく、利用者も多かった。しかし、1960(昭和35)年に国鉄の越美北線(えつみほくせん)が開通する。そのため当時の越前本線の利用者が激減、1974(昭和49)年には勝山駅〜京福大野駅間が廃線となる。勝山駅の南に残る線路は大野まで延びていた旧路線の名残だった。

↑勝山市内には福井県恐竜博物館があり、勝山駅から路線バスが運行されている。駅前広場には恐竜が、またホームには恐竜の足跡も

 

【謎解きその⑪】勝山駅前に保存されている黒い車両は?

終点の勝山駅で鉄道好きが気になるのが駅前広場に保存される車両ではないだろうか。この車両はテキ6形という名前の電気機関車。開業当初に導入した車両はみな非力だったため、京都電燈が1920(大正9)年に新造した車両で、貨車を牽引する電気機関車であり、また貨物輸送車として織物製品や木材を載せて運んだとされる。海外製の主要部品が使われていたとはいえ、その後に誕生した国産電気機関車よりも前の時代の車両で、いわば日本に残る最古級の国産電気機関車といって良いだろう。

 

本線での運用が終了した後も、福井口の車両基地での入換え作業などに使われていた。その後に勝山駅に移され動態保存され、短い距離だが動かすことができるように架線も張られている。走る時にどのような音を奏でるのか一度、見聞きしてみたいものである。

↑屋根付の施設で動態保存されるテキ6形。後ろには貨車ト61形を連結している。建物には同車両の写真付の案内も掲示されている

 

↑福井県はソースカツに越前おろしそばが名物。勝山駅前の「みどり亭」では一緒に味わえる福井名物セット(850円)が人気。昼食に最適だ

 

時間に余裕があれば福井県恐竜博物館は訪れておきたいところ。勝山永平寺線の車内でも同博物館帰りと思われる家族連れの姿が見受けられた。そしてランチには、福井名物のソースカツや越前おろしそばを、ぜひ味わってみていただきたい。