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2020/10/25 18:30

「白新線」‐‐11の謎を乗って歩いてひも解く

おもしろローカル線の旅68 〜〜JR東日本・白新線(新潟県)〜〜

 

新潟駅と新発田駅を結ぶ白新線(はくしんせん)。特急列車に観光列車、貨物列車が走る賑やかな路線である。これまでは車両を撮りに訪れた路線であったが、今回は複数の途中駅で降りて、駅周辺をじっくりと歩いてみた。

 

すると、これまで気付かなかった同線の新たな魅力が見えてきたのだった。白新線でそんな再発見の旅を楽しんだ。

*取材撮影日:2018年3月3日、2019年7月6日、2020年10月18日ほか

 

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【白新線の謎①】なぜ路線名が白新線なのだろう?

初めに白新線の概要を見ておきたい。

路線と距離JR東日本・白新線/新潟駅〜新発田駅(しばたえき)27.3km
*複線(新潟駅〜新崎駅間)および単線・1500V直流電化
開業1952(昭和27)年12月23日、日本国有鉄道により葛塚駅(くずつかえき/現・豊栄駅)〜新発田駅間が開業、1956(昭和31)年4月15日、沼垂駅(ぬったりえき/現在は廃駅)まで延伸開業
駅数10駅(起終点駅を含む)

 

まずは、この路線の最大の謎から。路線名はなぜ白新線と付けられているのか、白新線の「白」はどこから来たのか、そこから見ていこう。

 

まず、路線計画が立てられたところに、白新線と名付けられた理由がある。路線の計画が立てられたのは1927(昭和2)年のこと。「新潟県白山ヨリ新発田二至ル鉄道」という路線案が立てられた。白山と新発田を結ぶ路線なので白新線となったのである。

 

白山とは、現在の越後線の白山駅のことだ。計画が立てられた年は、ちょうど柏崎駅と白山駅を結ぶ越後鉄道が、国有化されて越後線となった年である。国は、越後線の新潟方面の終点駅だった白山駅と、新発田駅を結ぶ路線の計画を立てたのだった。

 

だが、そこに立ちはだかるものがあった。新潟市を流れる信濃川である。信濃川は日本一の長さを誇る河川であり、当時の河口部は川幅も広く、水量も豊富だった。鉄道にとって越すに越されぬ信濃川だったわけである。

↑昭和初期と現代の信濃川の流れを比べると、昭和初期の信濃川は現在の3倍近くの川幅があった。旧信越本線のルートも今と異なっていた

 

1929(昭和4)年に大河津分水(おおこうづぶんすい)という信濃川の水を途中で日本海へ流す流路が作られ、新潟市内を流れる信濃川の水量が大幅に減った。その後、川の南岸が主に改修され川幅が狭まり、ようやく越後線の信濃川橋りょうを架けることが可能となった。とはいえ越後線の路線が新潟駅まで延ばされ旅客営業が始まったのは1951(昭和26)年のこと。この年、ようやく信濃川橋りょうを生かして、新潟駅と関屋駅(白山駅の隣の駅)間に列車が走ったのだった。

 

とはいえ白新線は、まだ開業していない。白新線の開業を困難にしていたのも大河の存在だった。

↑新潟駅からは信濃川橋りょうを渡った最初の駅が越後線の白山駅(左上)だ。白新線は白山駅と新発田駅を結ぶ予定で計画が立てられた

 

【白新線の謎②】開業してから60年と意外に新しい理由は?

越後線がようやく新潟駅まで開業した翌年の1952(昭和27)年の暮れ、白新線の葛塚駅(現・豊栄駅)と新発田駅の間が開業している。新潟駅側からではなく、新発田駅側から路線が敷設されていったわけである。白新線の残り区間、葛塚駅〜新潟駅間、正式には沼垂(ぬったり)駅〜葛塚駅間が開業したのは4年後の1956(昭和31)年4月15日のことだった。

 

新潟市と新潟県の北部や庄内地方、秋田への幹線ルートの1部を担う路線だけに、この開業年の遅さは不思議にも感じる。そこには鉄道の敷設を妨げる大きな壁があった。

↑白新線のなかでひと足早く開業した葛塚駅(現・豊栄駅)。南口駅前には路線開業を祝う碑や当時のことを伝える案内などがある

 

新潟平野には信濃川とともに大河が流れ込む。阿賀野川(あがのがわ)である。阿賀野川は、群馬県と福島県の県境を水源にした一級河川。途中、只見川などの流れが合流し、河川水流量は日本最大級を誇る。実際、新潟市内を流れる河畔に立ってみるとその川の太さ、河畔の広さにびっくりさせられる。この水量の豊かさから、古来、水運が盛んで、鉄道が開業するまでは会津地方の産品はこの川を使い運ばれていた。

 

そんな阿賀野川が鉄道を敷設する上で難敵となった。阿賀野川を越える鉄道路線としては羽越本線(当時は信越線)の阿賀野川橋りょうの歴史が古い。1912(大正元)年、新津駅〜新発田駅間が開業に合わせて設けられた。全長1229mという長さがあり、当時としては全国最長の橋となった。現在の白新線の橋りょうよりも上流にあるにもかかわらずである。

 

架橋技術が今ほどに進んでいない時代、大変な工事だったに違いない。国鉄(当時は鉄道省)は下流に白新線の2本目の橋を架けることはためらったようだ。とはいえ、1940(昭和15)年には橋の着工を進めていた。ところが、翌年に太平洋戦争に突入したこともあり、資材不足となり、橋脚ができたところで、建設中止に追い込まれている。

↑長さ1200mと、在来線ではかなりの長さを持つ白新線の阿賀野川橋りょう。河畔が広く川の流れはかなり先へ行かないと見えない(右上)

 

阿賀野川橋りょうの建設が再開したのは大戦の痛手からようやく立ち直り始めた1953(昭和28)年のこと。橋脚がすでに造られていたので、翌年には架橋工事が完了している。戦前に無理して進めていた工事が、後に役立ったわけである。そうして白新線の全線が1956(昭和31)年に完成にこぎつけた。当初、単線で造られた阿賀野川橋りょうだが、1979(昭和54)年には複線化も完了している。

 

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