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2021/5/26 20:00

わずかに残る「京王御陵線」の遺構と立派な参道や橋に驚く!

【京王御陵線⑥】南浅川を渡った先に唯一の御陵線の遺構が残る

ちょっと歩くだけでも古い鉄道の逸話が出てくるものである。さて、甲州街道から旧線路跡をたどって歩く。甲州街道から北側は、路線跡が消えているために、南浅川に沿って平行した道を歩いて行くと、河畔に桜並木が続き、市民の憩いの場となっている。山田町並木線は横山橋で南浅川を越えている。この橋の西側に京王御陵線の高架橋が架かっていたが、今は何もない。

↑横山橋の上からみた南浅川。この先に京王御陵線の高架橋が架かっていた。今はその名残はない

 

横山橋を渡り河畔の道をやや西へ。100mほど先に住宅地へ入る細い道がある。ここに京王御陵線で唯一の遺構として、古びたコンクリートの柱状のものが2本ほど立っている。京王御陵線の高架線の橋脚だったものだ。今は橋脚が民家の塀として活かされている。1960年代に大半の鉄道施設は除去されたが、この橋脚だけは、すでに住宅の一部になっていたようで、取り壊されなかった。鉄道の橋脚が景色に溶け込んでいるようでおもしろい。この場所は某テレビ番組でも紹介されていたので、ご存知の方も多いのではないだろうか。

↑民家の塀の一部に使われている京王御陵線の橋脚。前後の2本のみが残っているというのが興味深い

 

残る橋脚を見つつ、先を目指す。南浅川の河畔に広がる住宅地の北西側には、長房町の高台が広がる。この高台へ抜けるために、京王御陵線は甲州街道と南浅川を高架橋で渡ったのだろう。

 

【京王御陵線⑦】路線は高台へ上り終点の御陵前駅を目指した

南浅川沿いの住宅地から長房町の高台にのぼる石段がある。上ると西へ向かって舗装路が続いていた。高架橋を走ってきた御陵線の電車は、この長房町で西へカーブして終点の御陵前駅へ向けて走った。

↑南浅川河畔に広がる住宅地から、長房町の高台へあがる石段。このあたりを線路が走っていたようだ

 

長房町の高台には都営住宅が立ち並ぶ。すっかり整備されていて、どこを線路が走っていたのか推測が難しかった。ちょうど線路が通っていたあたりの北側に、船田古墳という7世紀に造られた古墳跡があった。南浅川周辺は古代、有力な豪族が治め、地盤としていた証なのだろう。

↑長房町の団地内にある船田古墳跡。団地造成の際に発見された。円墳で、現在は埋め戻され公園となり案内板(右上)も立つ

 

地図で見ると、長房町を御陵甲の原線という道が東西に通り抜けている。この南側を京王御陵線は走っていたようだ。民家の間を抜ける細い道が数本、御陵甲の原線と平行して設けられている。

 

今は何も残っていないが、終点の御陵前駅は、この裏道に設けられていたようだ。古い駅舎の絵葉書を見ると、妻入と呼ぶのだろうか、神社のような立派な造りの建物だった。終戦間際に空襲で焼けてしまい、不要不急線として休止されていたこともあり、戦後に再建されることはなかった。

 

この御陵前駅のすぐ目の前には、ケヤキに包まれた多摩御陵参道が設けられていた。多摩御陵参道は、甲州街道方面と多摩御陵(現・武蔵陵墓地)を結ぶ参拝道路である。現在も立派な道が残っており、きれいに清掃されていてとてもすがすがしく感じる。

↑多摩御陵参道をはさみ向いに御陵前駅があった。立派な造りの駅舎があったが、空襲で焼け落ちたと記録される

 

多摩御陵は大正天皇の陵として1927(昭和2)年に築造された。面積は2500平方メートルにも及ぶ。陵が設けられるにあたり、参道が整備された。その参道が今も多摩御陵参道として残る。陵へ向かう多摩御陵参道には、約160本のケヤキが植えられ、今ではその高さが20mにも及ぶ。

 

旧御陵前駅から多摩御陵の入口まで参道が500mにわたり続く。厳かな気持ちになるような並木道。御陵をお参りする人で、戦前はさぞや賑わったことだろう。

 

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