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2022/6/27 10:09

高知の山中を巡った「森林鉄道」その栄光の足跡を追う

〜〜魚梁瀬森林鉄道 魚梁瀬線・奈半利川線(高知県)〜〜

 

木材の切り出しに使われた森林鉄道。かつて国内には1000以上もの森林鉄道網が設けられていた。昭和中期にほぼ淘汰されてしまったが、その橋やトンネルといった施設が道路整備に活かされ、多くが今も使われている。

 

高知県内の中芸地域を走った魚梁瀬(やなせ)森林鉄道。現在も橋やトンネルの跡が数多く残り、林業基地として栄えた魚梁瀬には動態保存された機関車などが残る。美しい景色の中に残る森林鉄道の足跡を追ってみた。

 

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【森林鉄道を追う①】日本三大杉の生産地を巡った森林鉄道線

高知県中芸地域で切り出された杉は「魚梁瀬杉」と呼ばれ、秋田杉、奈良県の吉野杉とならび日本三大杉の1つ(諸説あり)にあげられ尊ばれてきた。中芸地域には、安田川と奈半利川(なはりがわ)が流れている。森林鉄道は、この2本の川沿いに設けられ、最盛期にはその距離が250kmにも達した。

 

魚梁瀬森林鉄道の歴史を見ておこう。森林鉄道が誕生する前、切られた杉材はいかだに組まれ、安田川と奈半利川の流れを利用して運ばれた。両河川とも急流域があり、危険な作業だったことは容易に想像できる。木材搬入に川の流れを利用するとともに、川沿いには牛馬道が設けられ物資が上流部に運ばれていた。

↑安田川に架かる旧魚梁瀬森林鉄道の明神口橋。現在も軽車両のみ渡ることができる。入口には日本遺産の構成文化財の案内が立つ(左下)

 

中芸地域に森林鉄道が設けられたのは明治末期の1911(明治44)年。まずは田野(田野町)と馬路(馬路村)間に当初、安田川林道本線の名前で線路が敷かれ、トロリー運搬が始められた。トロリー運搬とは、木材を載せたトロッコを使った運搬方法で、トロッコに人が同乗・操作して山を下った。ブレーキにあたる制御器が付くとはいえ、危険と隣り合わせの運搬だった。

 

その後に安田川沿いの路線は徐々に奥へ延びていく。馬路〜魚梁瀬(馬路村)間が1915(大正4)年に、さらに魚梁瀬の上部にある石仙(こくせん)まで延びる。後に魚梁瀬森林鉄道本線の安田川線と名付けられた路線で、田野〜石仙間は41.598kmに及んだ。同年には牽引用にシェー式と呼ばれる蒸気機関車も導入されている。

 

1923(大正12)年にはアメリカH.K.ポーター社製の2両の蒸気機関車が導入され、台車をはいたボギー式貨車も使われ、本格的な森林鉄道の体裁を整えていった。同時期に新たな制御器も導入され、事故が減ったと伝わるが、そのことがわざわざ記されるほどに、当時の森林鉄道は危険と隣り合わせだったようである。

↑魚梁瀬森林鉄道の路線図。点線部が本線にあたり、支線はさらに多く巡っていた。写真で紹介の旧施設は数字番号で紹介した

 

【森林鉄道を追う②】昭和期には奈半利川沿いの路線も開業

昭和期に入りますます林業は盛況となり、安田川沿いの木材の運搬に加えて奈半利川沿いにも路線が敷設される。まずは奈半利川線の田野(田野町)と二股(現在の二股橋付近/北川村)間24.3kmの工事が完了。また、海岸部の路線も土佐湾に面した奈半利貯木場まで延びる。さらに、二股〜釈迦ヶ生(しゃかがうえ/北川村)の路線が延び、既存の安田川線と釈迦ヶ生付近で連絡した。この路線延長で、上流部の魚梁瀬や石仙からは、安田川線および、奈半利川線の両線での運び出しが可能となった。

 

大正期に開業した安田川線と、昭和初期に開業した奈半利川線では、橋やトンネルの造作がだいぶ異なる。今、訪れてもその違いが良く分かる。たとえば、奈半利川線の二股橋は、典型的なコンクリート製のアーチ橋で、当時の流行および、資源不足を補うべく配慮されたことがうかがえる(詳細は後述)。

↑奈半利川に架かる二股橋。2連のコンクリート製のアーチ橋で、現在は道路橋として使われている

 

魚梁瀬森林鉄道は木材の搬出だけでなく客車も連結した。最初の客車は馬路村営連絡車と名付けられ1936(昭和11)年に導入され、田野〜馬路間を有料で乗車できた。当時の魚梁瀬森林鉄道は規模が大きく、かつ資金力もあり自前の機関車修理工場や、枕木を製造するための製材所を持つほどだった。

 

しかし、その繁栄は長く続かなかった。1957(昭和32)年に魚梁瀬ダムの建設が行われることになり森林鉄道の廃止が決定する。1958(昭和33)年には奈半利川線の線路の撤去がはじまり、1963(昭和38)年には安田川線が廃止、約半世紀にわたる魚梁瀬森林鉄道の歴史に幕を閉じたのだった。

 

現在、文化庁が選定した日本遺産に、中芸地域の魚梁瀬森林鉄道跡が「森林鉄道から日本一のゆずロードへ」として2017(平成29)年4月28日に認定されている。半世紀にわたって魚梁瀬杉の輸送を続けた森林鉄道の存在が今も伝えられ、線路跡は「ゆずロード」に変貌し、ゆずの出荷と関連商品の輸送に活かされている。日本遺産の1つのストーリーとして、その歴史を語り継ぐ活動が精力的に行われている。

 

【森林鉄道を追う③】安田駅を起点に安田川を上流へ

ここから安田川沿いと奈半利川沿いに設けられた魚梁瀬森林鉄道の元施設のうち、日本遺産に認定された施設を中心に巡ってみたい。多くの施設が国の重要文化財にも指定されている。

 

旧森林鉄道跡はかなり長い距離で、さらに路線バスの本数が非常に少なく、レンタカーを使って巡るのが賢明だ。高知駅や高知空港、最寄りでは土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の安芸駅にも駅レンタカーがある。旧森林鉄道の遺構ばかりでなく、森林鉄道をテーマにした観光施設もあり、遺構巡りにプラスして立ち寄っても楽しい。なお、山道はカーブの連続で、道幅も狭いところが目立つ。運転に慣れた人にお勧めのルートで、慣れていても十分に注意して走行したい。

 

ここでは、土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の安田駅を起点にして、安田町から旧魚梁瀬森林鉄道の安田川線沿いに馬路村へ向かう旅を進めたい。

↑土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の安田駅。同線にはデッキ付き車両も運行されていて、潮風を感じながらの鉄道旅が楽しめる

 

まず、安田駅からスタートし、県道12号線・安田東洋線(別名:馬路道)を北へ向かう。ほんの数分で右手に安田川が見えてくる。旧森林鉄道は、安田川の東側を走っていたが、県道は川の西岸をたどる。中の川橋という小さな橋を渡ったT字路右に「旧魚梁瀬森林鉄道施設『エヤ隧道』」という立て札があるので、その案内に従い右折する。すると細い道沿いに古めかしい小さな「エヤ隧道」があった。

 

日本遺産の構成文化財に認定された施設は、同じデザインの案内が道の分岐などに立つので見つけやすい。施設近くに解説板が立つのもありがたい。

 

本原稿では、魚梁瀬森林鉄道関連の施設に番号をつけ、地図でも見つけやすいようにした。まず起点の安田駅から「(1)エヤ隧道」までは6.3km、車で約10分の距離だ。エヤ隧道の先は隧道がある細い道を進んでも良いが、途中から軽自動車のみの進入禁止の道となる。この道が森林鉄道が走った線路の跡でもあるのだ。

 

安田川を囲む左右の山々が迫ってきたところに、赤い鉄橋が印象的な「(2)明神口橋」「(3)オオムカエ隧道」「バンダ島隧道」が連なる。そして旧森林鉄道の線路跡が、明神口橋付近で県道12号線と合流する。なお県道は上記3か所の最寄り区間で、トンネルで抜ける新道の工事が進められている。森林鉄道の遺構は旧道沿いにあるので注意したい。

↑安田川沿いに下流から上流に至る主要な森林鉄道の遺構。(2)と(3)の区間は軽自動車のみ通行可能となっている

 

「(2)明神口橋」と「(3)オオムカエ隧道」の近くにはキャンプ場もあった。かつての杉の産地は、最近はキャンプ場などの施設も多くなり、アウトドア好きにはうってつけのエリアとなりつつある。キャンプを楽しみながら旧路線跡を巡るのも楽しそうだ。

 

【森林鉄道を追う④】馬路村内に観光用の森林鉄道を再現

安田川沿いを上流へ向かって県道を走ると、安田町から馬路村(うまじむら)へ入る。この馬路村はかつて林業で栄えた村でもある。馬路村の中心にあたる馬路地区は、安田川の両岸に民家が建つ。ここは森林鉄道の拠点でもあり、この地区内に遺構も多い。

 

まずは集落の入口、馬路橋のすぐそば、渓流沿いにトンネルの出入口がある。こちらは「(5)五味隧道」で、1911(明治44)年開業時に造られたもの。石組みのトンネルが古さを物語る。渓流沿いに線路も敷かれているがこちらは復元されたものだ。線路端に下りることはできないが、上を通る村道から見ることができる。

↑馬路村に残る森林鉄道開業時に造られた五味隧道。線路も復元されている。写真は12月末の撮影したもので、寒い冬は雪も舞う

 

馬路村の中心部では森林鉄道は安田川の西側に沿って通っていた。今は「ゆずの森 加工場」や、馬路村農業協同組合(旧・馬路営林署)が建つ。このあたりには、森林鉄道の操車施設もあり、支線から本線に集まった貨車などの編成替えなどが行われたようだ。

 

さらに、安田川の西岸を通る村道(線路跡)の先には「(6)馬路森林鉄道」や「(7)インクライン」がある。こちらは森林鉄道時代の線路や施設を再現した観光施設で、気軽にレトロな森林鉄道の趣が体験できる。

 

観光施設といっても侮ってはいけない。渓流沿いをぐるりと1周する観光列車を引くのは、大正時代に魚梁瀬森林鉄道に導入されたポーター社製の蒸気機関車を精密にスケールダウンしたディーゼル機関車だった。

↑安田川の支流を森林鉄道のように一周する馬路森林鉄道。使われる機関車(左上)は大正時代に輸入された米国製を再現した

 

馬路森林鉄道の隣には「(7)インクライン」がある。インクラインとは水の重みを動力として利用し、木材を高いところから低いところへ降ろした仕組みだ。今は観光客が乗車できるケーブルカーとして再現されている。ちなみに「(6)馬路森林鉄道」や「(7)インクライン」は8月を除き日曜・祝日のみの有料営業となる。

↑観光用のケーブルカーとして再現されたインクライン。この装置で山上に集められた木材を下へ降ろした

 

【森林鉄道を追う⑤】安田川最上流で進められる鉄橋の補修作業

民家が建ち並ぶ馬路地区内の「(4)落合橋」は1925(大正14)年に架けられた鋼製の橋梁で、現在は村道に使われている。この橋で安田川とお別れ、旧森林鉄道の線路跡を利用した村道は県道12号線に合流し、支流の東川に沿って進む。民家はほぼ途絶えるが、まだ先に旧森林鉄道安田川線が延びていた。東川に沿って、取り巻く山々も徐々に険しさを増していく。県道は右に左に渓流に沿ってカーブする。旧森林鉄道もこうしてカーブを描き設けられていた。

 

馬路村から北川村へ入ると、村境を越えた県道脇で重機を使った大掛かりな工事が行われていた。

↑犬吠橋の現況。谷に架けられていた鉄橋は損壊してしまい現在、保存工事が進む。県道は迂回しているが将来は新しい橋が架かる予定だ

 

工事現場の先に朱色の橋の鉄骨部のみが残っている。1924(大正13)年に造られた「(8)犬吠橋」だ。国の重要文化財に指定され、また日本遺産の構成文化財となっている。橋の長さは41m、幅は4.4mで、構造は鋼単純上路式トラス橋とされ、上を森林鉄道が走っていた。鉄道廃止後は道路橋として使われていた。2016(平成28)年の点検で、鋼材の破断、および変形が著しいことが確認された。現在は鉄骨部のみとなっているが、損壊が進み橋の中央部が落ち込んでいた。点検後に大きく迂回する仮設路を設け、犬吠橋自体の補修を進める作業が行われている。並行して新しい橋を設ける工事も進められている。

 

この犬吠橋からさらに奥へ向かうと魚梁瀬なのだが、こちらの紹介は後述したい。本原稿での紹介は、海岸部にもどり、奈半利川に沿って造られた魚梁瀬森林鉄道奈半利川線の線路跡を見ていきたい。こちらは林業の最盛期だった昭和初期から戦前にかけて造られた施設が多いせいか、安田川沿いの施設とは異なる姿を目にすることができる。

 

【森林鉄道を追う⑥】奈半利の街中にあるモダンな跨線橋

奈半利川沿いの施設は平野部にも一部が残され、山間部まで入らなくとも、気軽に立ち寄れる遺構もある。現在、土佐湾に面した奈半利町には土佐くろしお鉄道のごめん・なはり線の終点駅・奈半利駅がある。駅のほど近くに、モダンな造りの跨線橋が残されていた。

↑土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の終点、奈半利駅。この先、室戸市方面へは鉄道路線は無く、バスでの移動が必要になる

 

かつての森林鉄道の奈半利川線は奈半利の街中を通り、土佐湾に面した奈半利貯木場まで線路がつながっていた。現在の奈半利駅から距離にして1.3km、細い路地に古い跨線橋がある。橋の片側は急斜面で、上には現在、三光院 観音堂がある。丘の麓に線路が沿って走っていたために、線路をまたぐように跨線橋が設けられた。跨線橋の名前は「(9)法恩寺(ほうおんじ)跨線橋」。法恩寺という寺が路線建設当時にあったことから、この名になった(現在は廃寺)。森林鉄道がなくなった今も通行はできるが、階段部分はかなりの急傾斜で、足を踏み外しそうな造り。上り下りしたもののかなり危うく感じた。

↑きれいに石組みされた法恩寺跨線橋。右手の町中の道から、鉄道線を越えて左側の丘の上へ行き来できるように設けられた

 

【森林鉄道を追う⑦】水田を通る近代的なコンクリート橋の跡

奈半利の貯木場から法恩寺跨線橋の下をくぐり、北川村や馬路村を目指した魚梁瀬森林鉄道の奈半利川線。奈半利の街中の旧路線跡のほとんどが舗装され車道として使われている。

 

この道をたどると奈半利川に突き当たるが、かつては鉄橋があった。すでに鉄橋は取り外され橋脚のみが残されていて「旧鉄橋跡」の看板が掲げられている。この奈半利川を越えた西側に奈半利川線の最も大規模な施設が姿を残している。

 

それが「(10)立岡二号桟道」だ。石積みの高架線跡に連なりコンクリート製のガーダー橋が延びる。コンクリート製の橋脚の上に橋けたがカーブして連なっている。橋の幅は狭いが、この上を木材を満載した貨物列車が走っていたわけだ。

↑水田をの中に立つ立岡二号桟橋。コンクリートの橋脚の上に橋けたがかかる。橋自体がカーブしていて面白い

 

奈半利川の西側に渡った路線はこのガーダー橋から川の上流部を目指して進んだ。奈半利川の中流部はかなり蛇行している。田野町から先は森林鉄道の路盤跡がほぼ国道493号に転用されている。途中、1932(昭和7)年に架けられた鉄橋「(11)小島橋(こしまはし)」で国道493号から分かれ、川の東岸を走るものの、再び旧森林鉄道路線は国道493号に合流するように上流を目指して進んでいた。

 

奈半利川の支流の小川川に架けられた「(12)二股橋」から線路は北を目指した。ここから国道493号に分かれ県道12号線へ入る。この県道12号線は「安田東洋線(馬路道)」の名もついているが、安田川沿いを走った県道が、釈迦ヶ生付近を通り、この二股橋へ通じていたわけである。

 

【森林鉄道を追う⑧】無筋のコンクリート製のアーチ橋は珍しい

1940(昭和15)年に建設された二股橋。資材が乏しくなっていた時期の建設だけに鉄筋などを使わない無筋コンクリート造りの橋となっている。形はアーチ構造で、各地の鉄道橋には、今も無筋コンクリートアーチ橋が残る(一部は竹を使った)。戦前戦中の資材不足が著しい時代、鉄筋などは使わず、アーチ形の橋の構造によって耐久性を保持しようとしたのだ。

↑架けられた時代で構造が異なる奈半利川沿いの旧森林鉄道の橋梁。みな道路橋に転用されている。元線路の利用なので、道幅は狭い(右下)

 

当時、技師はどのような思いでこの橋を設計したのだろうか。無筋のアーチ橋は鉄道の幹線ではなく支線や廃線区間に残るのみなので、その耐久性のほどはさだかではないが、崩壊などの例はないようなので、アーチという構造で一定の強さは保たれていたのかもしれない。

 

二股橋と上流部にある堀ヶ生橋(ほりがをばし)は、どちらも無筋コンクリート製のアーチ橋だった。上流部の堀ヶ生橋は1941(昭和16)年に建設されたもので、「近代に建造された充複式単アーチ橋で我が国最大級を誇る」と資料にある。こちらも国の重要文化財に指定されているように、土木建築の分野では珍しいのだろう。充複式のアーチ橋は、今も架橋に使われる技法で、管理の手間が省ける素晴らしい技術のようだ。

 

ちなみに、堀ヶ生橋は橋の途中に退避コーナーが設けられているが、デザインも凝っていてモダンに感じた。材料が乏しい時代なのにさまざまな工夫を施した様子がうかがえる。

↑奈半利川に架かる堀ヶ生橋。途中に退避場所らしきコーナー(左上)がせり出す。眼下に見える奈半利川が澄んでいて美しかった

 

両橋とも今は県道に転用されているが、道幅が狭く普通車でも渡るのに心細く感じた。構造的には素晴らしくとも、車の通行は考えて造っていなかっただろう。木材を積んだ大型トラックが今も通行しているが、ドライバーはかなり気を使って通っているのだろうと思われた。

 

【森林鉄道を追う⑨】動態保存された機関車牽引の列車が走る

本原稿では馬路村の奥にある魚梁瀬の地をゴールとしたい。魚梁瀬は魚梁瀬ダム湖のほとりにある集落で、かつては林業基地として栄えた。最盛期は1500人ほどの人が住んでいたが、現在は200人ほどに減少しているとされる。現在のダム湖に沈んだ場所に集落があったが、50年ほど前に現在の地に移っている。

 

魚梁瀬へは安田駅から車の利用ならば、県道12号、県道54号を利用して約33.9km、46分の道のりとなる。奈半利駅からは二股橋経由の場合には、国道493号、県道12号、県道54号を利用して約44.1km、57分かかる。

 

所要時間はそれほどかからないようにも思えるのだが、前述したように山道で、道幅は細くカーブが連なるために気を使う。往復にゆとりを見て最低3時間はかかると考えたい。

 

到着したのは魚梁瀬の「(14)魚梁瀬森林鉄道 森の駅やなせ」。ここには森林鉄道時代の最晩年に使われた機関車類などが動態保存されている。日曜日・祝日の営業のみだが、公園内を一周する列車も運行されている(有料)。列車の運行時間は特に決まっているわけでなく、営業時間内に利用者が訪れたら運行するといったのんびり具合だ。

↑魚梁瀬集落の入口にある「森の駅やなせ」。公園を一周する列車に乗車できる。古い写真なども展示され往時の様子が良く分かる

 

「(14)魚梁瀬森林鉄道 森の駅やなせ」には現在、機関車に加えてトロッコ客車、木造客車が備えられている。機関車のうち野村式(L-69型チェーン式)と呼ばれるディーゼル機関車は、奈半利の工場で製造されたもので、実際に森林鉄道で貨車を牽引して走ったもの。日本遺産の構成文化財にも指定されている。

 

そのほかにも、谷村式(3tサイドロッド式)ディーゼル機関車、酒井工作所製(C-16型3.5t)ガソリン機関車、岩手富士製 特殊軽量機関車の計4両が動態保存されている。50年も前に消滅した森林鉄道を走った機関車を動態保存する取組みには敬意を評したい。山の中の施設のため、行く機会がなかなかないものの、もう一度、余裕を持って楽しみたいと思った。なお同施設に隣接してレストランもある。

↑訪れた日には谷村式のディーゼル機関車が客車を牽いて走った。トロッコ客車の後ろには木製の客車(右上)も連結されていた

 

↑木造車庫の中に納まる野村式(右)と酒井工作所製のそれぞれディーゼル機関車。どちらも動くように整備されている

 

帰りには奈半利川沿いを走り奈半利へ向けて走る。途中にどうしても寄ってみたい施設があったのだ。

 

【森林鉄道を追う⑩】中岡慎太郎も推奨した〝ゆず〟の地に変貌

寄ってみたかった施設とは中岡慎太郎の宅跡と、中岡慎太郎遺髪埋葬墓地。ともに現在の北川村の国道493号からやや入った柏木地区にある。

↑北川村の山景色の中に立つ「中岡慎太郎像」。この下に中岡慎太郎宅跡(左下)がある。近くには遺髪を埋葬した墓もある

 

中岡慎太郎は江戸末期に生まれ、同じ土佐藩出身で盟友の坂本龍馬とともに、江戸幕府討幕に向けて大きく世の中を動かした1人である。土佐藩と薩摩藩、長州藩との間で盟約を結ぶために奔走し、討幕への道筋を作った。明治維新のを見ることなしに1967(慶応3)年11月に龍馬とともに京都で倒れたことは良く知られている。享年わずかに29歳だった。

 

北川村の柏木には生家を復元した「中岡慎太郎宅跡」とともに、裏手にある松林寺(廃寺)の境内には妻の墓と並び遺髪墓地が設けられている。

↑中岡慎太郎宅跡のそばには柚子の木があり黄色い果実が多く実っていた。中岡慎太郎はこのゆず栽培を奨励したとされる

 

中岡慎太郎が活動したのは20代のみと短かったが、活動範囲は広く農業にも通じていた。ゆず栽培も奨励し、広めたとされる。討幕のみならず、将来を見据えたその視野の広さには驚かされる。

 

「森林鉄道から日本一のゆずロードへ」と日本遺産に認定された高知県の中芸地域。森林鉄道の旧路線跡は道路となり、ゆずの出荷やゆず商品の輸送に活かされていた。林業は衰退しても、中岡慎太郎が生きた時代からゆず栽培への思いが綿々と受け継がれ、今も活かされる土地だったのである。