【青梅線はワイルド⑧】かつては奥多摩湖まで線路が伸びていた
ここで青梅線の旅は終了とならない。かつて線路が奥多摩駅の先まで延びていたのである。線路は奥多摩駅の北隣の奥多摩工業氷川工場内に延び、石灰石の輸送が行われた。
さらにその先、6.7kmの貨物専用線が敷かれていた。この貨物専用線は「東京都水道局小河内線(おごうちせん)」と呼ばれる路線で、多摩川の上流に小河内ダム(奥多摩湖)を建設するために造られた。玉川上水や江戸川からの水だけでは将来、都内の水不足は深刻になると予想されたために〝東京の水がめ〟が必要と考えられた。この路線はダム造りのために設けられた専用線だった。
当時、トラック輸送の能力は心もとなく、ダム造りといった大型プロジェクトには、こうした専用線が欠かせなかったわけである。
そして旧氷川駅から水根駅(みずねえき)に至る専用線が1952(昭和27)年に造られた。多摩川上流部の険しい山を切り開いて造られた路線とあって、橋梁23か所・計1.121km、トンネル25か所・計2.285kmにも達した。非電化でSLが牽引に使われたが、勾配も最大30パーミル(1000m走る間に30mのぼる)あり、非力なSLでの輸送は、かなり手間がかかったと伝えられる。
さらに、青梅線の路線もこの貨車輸送を進めるために強化費用が出されて路線改良を行っている。こうした大変な手間をかけて路線を造ったことにより、1957(昭和32)11月26日に小河内ダムは竣工した。一方で、東京都水道局小河内線は同年の5月10日に資材輸送が完了、お役ごめんとなった。同線にはまだ後日談がある。
資材輸送は完了して路線は休止となったが、正式な廃線にはなっていない。路線はまず1963(昭和38)年9月21日に西武鉄道へ譲渡された。西武鉄道では奥多摩湖を観光地化し、拝島線から青梅線への乗り入れ列車を走らせようと計画した。ところがさまざまな理由から整備計画は頓挫する。15年にわたり、西武鉄道が保有していたが、1978(昭和53)年3月31日に奥多摩工業に譲渡された。
そして今も奥多摩工業が保有する鉄道用地となり「水根貨物線」という名前も持つ。奥多摩電気鉄道として創始した同社が計画し、工事を始めた路線は青梅線として国有化されたが、そこにつながる路線の用地を今も保有しているというわけである。何とも不思議な縁である。
「奥多摩むかしみち」と名付けられたハイキングコースは、この休線を横切り(休線内は立入禁止)、国道411号に平行する橋なども見ることができる。残る線路を一部利用して、トロッコを走らせようというプランも持ち込まれたが、成就していない。
筆者は奥多摩駅を訪れるたびに気になってこの休線を訪れているが、年々、覆う緑が深まっているように感じる。そして何度か訪ねているにもかかわらず、見落とした箇所がまだあった。
奥多摩駅のすぐ近くを流れる多摩川の支流・日原川(にっぱらがわ)。この日原川を渡るアーチ橋が残っていることに地図を見ていて気がついたのである。カーブしつつ川を渡った日原川橋梁と呼ばれるアーチ橋で、列車が運行していたころに撮影した絵葉書や写真を見て、その大きさ、ダイナミックな路線造りに驚かされた。この橋がまだ残っているとは知らなかった。次に訪れる時はぜひ日原川橋梁の姿を確認したいと思った。